手塚が、越前リョーマと再会したのは、共に全国大会を制してから二年半後のことだった。月日は流れ、手塚は翌月から青春学園高等部の三年生に進級する。リョーマは、日本でいえば高校一年生になるはずだ。小さかった体躯は未だそう大きくはないけれど、165センチメートルにはなっただろうか。細いという印象を拭えない手足は、それでもしなやかな筋肉を身につけている。この身体で彼はコートに立ち、並み居るプレイヤーを押し退けるのだ。
「俺、やっぱり高校はアメリカで通います」
久方ぶりの再会だった。春休みの部活を終えて、大石や不二たちと別れて帰路についていたところ、手塚の家の前にリョーマがひとりで立っていたのだ。テニスバッグを背負いながら表札を眺めはすれど、インターフォンを押す様子はない。遠くからでも手塚にはその姿がかつての後輩のものだと分かったため、何をしているのだろうと考えてしばし立ち尽くしてしまった。彼は確か、今週末に試合を控えているはずだ。全仏オープンの予選も間もなく始まる。この大切な時期に、どうして。そう考えているうちにリョーマが振り向き、手塚を見とめて「部長」と声をあげた。時が一気に戻ったかのような錯覚に陥った。
「青学にもう一回通うのもいいかなって思ったんスけど、俺、やっぱアメリカのほうが性に合ってるし」
「・・・・・・越前は確か、生まれも向こうだったな」
「ハイ」
家の前で話し続けるのも悪いので上がるよう誘ったけれども、リョーマは「そんなに大した用じゃないし」と固辞した。生意気な口調は二年半前と変わっていない。黒猫のような瞳も健在で、見上げられる体勢も昔と同じで、けれど大きく異なっていると手塚は思う。
二年半前、青学の全国制覇に大きく貢献し、それこそ誰もが名を挙げる強豪選手すべてに打ち勝ち、リョーマは中学生テニス界のトップに立ったといっても過言ではなかった。手塚とて、全国大会後のリョーマと試合をしていたら勝てたかどうかは分からない。それほどまでにリョーマは一戦ごとに成長し、類稀なる才能を開花させていった。誰もが目を離せない、そんな選手に成長した。
しかしリョーマは夏休みが明けるのを待たずに、アメリカへと渡ってしまった。もともと母親の仕事の都合で、短期間の日本滞在だったらしい。「お世話になりました」と全然そんなことを思っていないような口調で述べて、空港の搭乗口に消えていった背中を手塚はまだ覚えている。随分あっさりとした別れだった。これ以上ないほどに鮮烈な記憶を残して、リョーマはアメリカへと帰っていった。
「国籍はどうなるか分かんないけど、もしかしたらアメリカで取るかもしれないっス。そっちの方が大会でも融通利くし、オリンピックとか出れそうだし」
「そうか」
「それに俺、プロが学生の試合に出れないなんて知らなかった」
その声音が僅かに拗ねたものだと気づけたからこそ、手塚は伏せていた眼差しを上げてリョーマを見た。挑発を常に浮かばせている目元が、心なしか朱に染まっているように見える。ぷい、と反らされた唇は尖っていて、これは自分がグラウンド10周を命じたときの表情に似ていると思い出し、手塚は感慨に頬を緩めてしまう。リョーマは青学で、かつてのように皆と大会に出たいと望んでくれたのだ。しかしそれは彼がプロテニスプレイヤーの道を踏み出した瞬間に、叶わぬ夢となった。
「越前」
呼べば振り向く。その姿を何度テレビの中で見たことか。夜中に目覚ましを仕掛け、衛生中継を見たことがある。勝って不敵に笑う姿も、負けて帽子を被り直す仕草も、何度も見てきた。記事の載っている雑誌は必ず目を通すようにしている。
「礼を言う。おまえは俺たちを導いてくれた」
「・・・・・・何言ってんスか、変な部長」
「ありがとう。感謝している」
「だからもう俺は必要ないって?」
そうじゃない、と言葉にはせずとも伝わっただろう。リョーマ自身、本心から言っているわけでないことは明らかだったし、その証拠にすぐに鞄を持ち直して肩を竦めた。変わらず愛用しているFILAのラケットを抱え、この後はロサンゼルスに戻るらしい。ニューヨークから移動する途中で寄り道したんスよ、と呆れるようなことを言ってのけ、リョーマは後ろ手に別れを告げた。
「じゃーね、部長。他の先輩たちにもよろしく」
「ああ。全仏オープン、応援している」
「当然。俺は世界のトップに立つよ」
歩き始める背中を、手塚は見送る。目をかけていた後輩が、この二年半の月日で遠くに行ってしまったかのような感覚を覚えていた。寂しいのかもしれない。本当は手塚とて、リョーマが青学の高等部に入学してくれて、また全国制覇という同じ夢を見れたらと思っていた。けれど、彼はプロへの道を進んだ。才能あるリョーマのためにもそれがいいのだと分かっていたから、何も言わなかった。言えなかった。置いていかれる一方的な悲しみだけが、手塚の中に残る。
「ねぇ!」
顔を上げれば、曲がり角の手前でリョーマが振り返っていた。テニスバッグを握り締めて、その強い光の瞳が間近に感じられた。まっすぐな声が手塚に届く。
「俺、ダブルスはもうやんないよ。壊滅的に無理だって分かったし、合わないって分かったから。だから俺が仲間だと思うのは、部長たちだけでいいよね? 仲間だって、思っててもいいでしょ?」
「―――ああ」
寂しさは一瞬で消し飛んだ。瞳を綻ばせて、手塚が微笑む。
「越前、おまえは俺たち青学の誇りだ」
それは心からの言葉だった。どんなに遠く離れようと、共に戦うことは出来なかろうと、リョーマは手塚を始めとした青春学園テニス部の誇りだ。それはきっと、永遠に変わることはないだろう。共にコートに立った、あの夏を忘れない。
にっと唇を吊り上げて笑い、リョーマが身を翻して駆け出す。見えなくなっていく背中を手塚はいつまでも見送った。いってこい、と万感の思いで囁きながら。
夏の軌跡
(おまえはおまえの道を行け。俺たちはいつだって応援しているから。)
2008年8月16日