「ねえ、ちょっとそこの人!」



後ろから聞こえた軽やかな声に、室町十次は振り向いた。
それがすべての始まり。





どうしようもない僕に天使が降りてきた





突然自分の胸へと飛び込んできた物体。
見下ろせば太陽の光を浴びてキラキラと輪を作っている黒髪。
小柄な体は、大柄とは言えない室町にでも抱きしめるのには十分で。
かと言って身も知らない人物を抱きしめるなどということはしない室町は、冷静にその人物の肩を押し返した。
そして、息を呑む。
「・・・・・・・・・えち・・・」
「待てよ、テメェ!!」
呟いた声は突如かけられた乱暴な声に取って代わられた。
目線を上げればそこには派手な服を着た今風の若い男。
その金色の髪が目に触って、室町は知らずサングラスの中の目を細めた。
「何だよ、逃げてんじゃねーよ」
どうやら男は室町の腕の中にいる人物に言っているらしく、わざとらしく室町の顔をジロジロと見回して。
「何だテメェは。彼女の知り合いか?」
彼女
男は今、彼女と言ったのか?
室町が確認する以前に、腕の中の存在がキッと男を睨みつけて言い返す。
「別にそんなのアンタに関係ないじゃん!とにかく俺はアンタのナンパには応じないから!・・・それにしてもよくもそんな顔で俺に声をかけられたね」
ニヤリと挑戦的に笑ったものだから、男は怒りに顔を染めて睨んでくる。
あぁ、そういうことか。
室町はようやく事の次第を理解した。
そして理解したからには放っては置けない。
この腕の中にいる存在は、愛されて止まない王子様なのだから。
「どなたかは知りませんけれど、俺とこの子は知り合いです。ナンパでしたら他の人にしてもらえますか?」
「ふざけんなよ!折角見つけた上玉なんだ、逃がしてたまるかよ!」
言い方は下品だが見る目はある。
きっとこの場に室町の学校の某先輩がいたら、諸手を上げてその意見に賛成することだろう。
そしてその後に笑顔で蹴りを食らわせるのだ。場合によっては滅多打ちに。
いや、問答無用という点では某後輩の方がすごいかもしれないが。
しかし室町はそこまで好戦的なわけではなかった。
「どうしても手を引いてもらえませんか?」
「当然じゃねぇか!」
「そうですか。なら仕方ないですね」
腕の中にいる私服姿の彼をそっと離して。
肩に背負っていたテニズバッグを渡して、大丈夫だと言うように微笑みかける。
そして振り向いて―――――――。
「がっ・・・・・・!!」
綺麗な弧を描いた蹴りが男の腹に収まった。
男がアスファルトに崩れるのと同時にテニスバッグと彼の手を掴んで走り出す。
小柄な彼は走り去り際に道路に伸びている男に向かって言い捨てた。
「あんたさー整形してから出直しなよねー!」
余りと言えば余りの言い草に室町は小さく笑った。
繋いだ手が熱い。



「さっきはありがと」
公園まで逃げてきた二人は、ジュースを手に一息つく。
「いや、大変だったね。・・・・・・・・・越前君」
越前リョーマ、それがこの王子様の名前だった。
青春学園テニス部で異例の一年生レギュラー。
そのテニスの腕前と彼自身の眉目秀麗さをもってして、都内テニス部では有名な存在である。
「別に、あれくらいいつものことだし。それよりアンタ、喧嘩できるんだね」
「喧嘩ってほどじゃないよ。いつも阿久津先輩がやってるのを見てたからね。自然に覚えて」
「ああそっか。阿久津と同じ学校だっけ」
サラリと室町の先輩を呼び捨てる。
その不遜ともいえる態度がこの王子様にはよく似合う。
「アイツ、テニス部辞めたんでしょ?」
「うん。代わりと言っては何だけど、太一が選手として入部したよ」
「知ってる。ラッキーが言ってた」
ラッキー。
まるで犬の名前みたいだな、と室町は心中で笑い出す。
その呼び名は間違いなく、室町の学校でエースを張っているだろう先輩のこと。
そこまで考えて、ふと気づく。
思い返す。
そしてもしや・・・とその事実に確信を抱いてしまって。
「ねえ、越前君。・・・・・・・・・・・・俺の名前、知ってる?」
何となく、何となく思ってしまったのだけれど。
「知らない」
・・・・・・・・・・・・・・・やっぱりこの子は王子様だ。
良くも悪くも王子様なんだと室町はがっくりと肩を落とす。
しかし王子様本人は悪びれることもなく、しれっとジュースの缶を振って。
「だって俺、アンタの実力知らないし。対戦したなら覚えてるけどそうでもないし。別に覚えて無くても不思議じゃないでしょ」
じゃあ君の事を覚えている自分は何なのだ?
「まあ俺は有名みたいだし?別にアンタが俺のこと知ってたからってストーカー呼ばわりはしないから安心しなよ」
そうは言われても・・・・・・・・・。
室町はがっくりとうな垂れていた顔を起こして、
「じゃあ今覚えてくれる?俺は室町十次。山吹中の二年だよ」
「ムロマチさん、ね。分かった。とりあえずは覚えておいてあげるよ」
サングラスをしている室町の顔を思いっきり覗き込んで艶美に笑って。
「俺が本当に名前を覚えるのは、テニスの強い人だけだから。俺の視界に入りたければもっと上手くなるんだね」
近すぎる顔の綺麗さに室町が動きを止めると、リョーマは満足そうに微笑んだ。
「それと、素顔を晒せないような人に用はないよ。だからといって今すぐに外せとは言わないけど」
その日に焼けた頬を撫でるように手を這わせて。
「俺だけにグラスを外した顔を見せるっていうのは、結構ポイント高いかもね?」
クスクスと声を上げて笑った。



ポーンとバスケットのフォームで投げ入れた空き缶は、見事にゴミ箱へと吸い込まれた。
「ごちそうさま。ファンタ、美味しかったよ」
嬉しそうに、けれどどこか当然のように笑って、王子様はベンチから立ち上がった。
「あ、じゃあ送ってく・・・・・・」
「いいよ。待ち合わせ場所はすぐそこだし。時間もちょうどいいからもう行くね」
そう言うとベンチに座ったままの室町を楽しそうに上から見下ろして。
そして一瞬だけその顔を近づけた。
「!」
ふわりとまるで羽のような感触。
「またね、ムロマチさん」
駆け出した背中に白い翼があるかのように軽く、軽く。
王子様は天使のごとく現れては消えた。
「参ったな・・・・・・」
掠められた頬を押さえて、室町は一人ゴチる。
「ライバルにはならないと思ってたんだけど・・・」
かの王子様はとてもとても人気者だから、自分は遠くから眺めているだけの庶民でいようと思っていたのに。
それはどうやら不可能の模様。
「まあでも、本人に指名されたら仕方ないか」
苦笑して立ち上がり、テニスバッグを持って歩き出した。
明日の部活は大変だろうな、と思いながら。
ラッキー以上の幸運を自分で掴む先輩も、その外見と年齢を生かして勝負を仕掛けるであろう後輩も。
ひょっとしたらあの一見悪人に見えそうな先輩も、地味な部長たちもみんながみんな彼を狙っているのかもしれないから。
そこに自分が参加するなんて、考えてもいなかった。
だけど今更止まれない。
スイッチは入れられてしまったから。
かの王子様本人の手によって。



天使が微笑むのは一体だぁれ?





2002年8月18日