鮮烈
それはある日、青学テニス部の部室にて。
「乾先輩。その雑誌、今月号のやつですか?」
練習中レギュラーだけが休憩を言い渡され、タオルを取りに部室へと戻ってきていたリョーマが尋ねた。
「ああコレ?そうだよ。越前も読むかい?」
「いいんスか?」
「いいよ。俺はもう読み終わったから」
乾にそう言われ、リョーマは小さく礼を言ってそのテニス雑誌を受け取った。
ロッカーを背に座り込んでパラパラとページをめくる。
乾はその様子を楽しそうに眺め、
「珍しいな。越前は確かこの雑誌は読んでいなかったはずだが」
「・・・いつもはそうっスけど、今週号は知り合いが載ってるから・・・・・・」
「知り合い?」
ノートに何かを記入していた乾が顔を上げるが、リョーマの目はいまだ雑誌を追っている。
「へぇ、スゴイな。どんな人なんだ?」
テニス雑誌に載るくらいなのだから相当の腕前なのだろう。
そのつもりで乾は聞いたのだが、リョーマはその綺麗に整った眉を顰め、渋面を作って答えた。
「嫌な男っスよ。本当にどうしようもないくらい。根性ひねくれまくってて超最悪」
年相応にふっくらとした頬をプクッと丸くして不機嫌を表す様子に、乾はおや?と首を傾げる。
それでもリョーマは気づかずに雑誌を見つめたまま、
「人の迷惑考えないし、いい年してワガママだし。俺の知ってる中で二番目に嫌な男っスよ」
「・・・・・・・・・・・・ちなみに一番は」
「うちの親父」
サラリと自分の父親を嫌な奴呼ばわりするリョーマ。
その言葉と行動にギャップを感じて乾が尋ねる。
「そんなに『嫌な奴』なのに記事は読むんだ?」
「そうっスよ。これでテニスが上手くなきゃ『嫌な奴』じゃなくて『ロクデナシ』っスから」
リョーマのあまりの言い草に乾が言葉を失くしていると、記事を読んでいたリョーマの表情が一瞬固まった。
雑誌を握る手に力がこもる。
引き締められた口元。
「―――――越前?」
「・・・・・・・・・雑誌、アリガトウゴザイマシタ」
リョーマが立ち上がって雑誌を差し出す。
「もういいのかい?」
「ハイ」
一言だけ返事をしてそのまま部室を後にする。
残された乾はあるページを探し出すと眉を顰めた。
そこには日本ではトップと言われ、世界を相手に活躍するプロテニスプレイヤーの記事が載っていた。
「越前が・・・?」
眉間にしわを寄せた手塚に乾は頷いて雑誌を差し出した。
「確証はとってないけどね、可能性は高いよ。95%ってところかな」
無言で雑誌に目を通す手塚の後ろから、制服に着替えた菊丸と不二が顔を出す。
「えー乾それマジ!?マジでおチビちゃんが徳川プロと知り合いなの!?」
「徳川プロかぁ。スゴイ人と知り合いなんだね、越前君は」
部室内に残っているのは三年レギュラーのみ。
その中でも河村は家の手伝いのため帰ってしまっていたが、大石は机に向かって部誌を書いていた。
リョーマ本人は部活直後に竜崎先生から呼び出された為ここにはいない。
手塚は表情を変えずに雑誌を読み進めていたが、ある所にさしかかったとき微妙に目を細めた。
「・・・・・・・・・これが、そうだと言うのか?」
目的語のない手塚の言葉に乾はメガネを押し上げながら頷いた。
二人の間を張り詰めた空気が流れる。
「にゃに?にゃんだよ手塚!俺にも見して!」
「英二、僕にも読ませてよ」
菊丸と不二も手塚から雑誌を奪い、読み始める。
先日行われた世界大会でベスト8に残った徳川のインタビュー。
二人とも何気なく読んでいたが、やはり途中でその顔を曇らせた。
そして読み終わると何も言わずに大石に雑誌を回す。
部誌を書いていた手を休め、ページをめくってた大石が呆然と呟いた。
「・・・・・・・・・これは・・・・・・」
―――えぇ、ベスト8という成績を残せたことはとても嬉しく思っています。出来る限り上に行くこと、それが今の俺の目標ですから。
まだまだ練習して上に行かなくちゃいけないんです。俺はずっと、待ってる人がいるから。
「これが・・・・・・」
呟いた言葉が部室へと乾いた響きをもたらす。
「・・・・・・これが・・・越前のことだって言うのか・・・・・・・・・?」
ずっと、待ってる人がいるんです。今はまだ幼くて力も全然足りない子なんですけれど、彼は近い将来必ずこの世界にやって来る。
それだけの才能が彼にはあるし、きっとこの世界がいつか彼を望むようになる。そのときに俺は世界のトップに立って、彼を迎え撃ってやりたいんです。
最高の舞台で彼とテニスをしたい。そのためには上に行かなくてはいけない。まだまだ諦めるわけにはいかないんですよ。
―――年の差ですか?確かにそれはありますね。
俺ももうプロとしては中堅になりつつあるし、だからこそ彼には早く世界の舞台に上ってきてもらいたい。
体力では彼に分があるかもしれませんけど、経験では負けませんから。
いい勝負が出来ると思いますよ。彼は、俺が認めたテニスプレイヤーですから。
かの子供の実力は知っていた。
テニス強豪校の青学で一年生ながらにレギュラーを勝ち取り、破竹の勢いで公式戦でも連勝を続けている。
彼は強い。
それは知っていた。当然の事実だと思っていた。
けれど―――――。
「・・・おチビちゃん・・・・・・世界とか行っちゃうのかな・・・・・・」
悲しげな声に返事を返す者はいない。
彼が強いことは知っていた。
けれど考えてもいなかった。
彼がこの地を離れ、遠くへと行ってしまうこと。
「・・・・・・・・・越前には相応しい舞台だろう」
手塚の冷静な声に菊丸と不二がバッと顔を上げる。
「そりゃ・・・そうかもしんないけどさっ!だからって・・・・・・っ!」
ぐちゃぐちゃな気持ち。
世界の、プロの舞台。
それは確かに彼にとって相応しい。
華やかでいながらも激しく、熱いプレー。
きっと彼は世界を相手にしても自分を見失うことなく、力強く進み続けて行くだろう。
それを待っている人がいる。
彼を導く人がいる。
「だからって・・・・・・・・・」
俯いて呟いた言葉が床へと落ちる。
喜ぶべきはずなのに、そんな気持ちが浮かばない。
「・・・・・・・・・いま一緒にいるのは俺たちなのに・・・・・・・・・・・・」
彼が行ってしまったら自分達はどうしたらいい?
彼が行ってしまったら、今まで過ごしてきた日々までもが消えてしまいそうで。
一緒にテニスをしたことも、何気ない会話をしたことも、その笑顔を向けてもらったことさえも。
すべて消えてしまったら、どうすればいい?
彼の本当の居場所はどこ?
「何バカなこと言ってんスか?」
部室の空気を一掃するかのように響いた涼やかな声。
パッと振り向いた先には彼の姿。
綺麗で眩しくて目がくらみそうな存在感。
リョーマは部室内のレギュラー陣を見回して、いつもと変わらない口調で言い捨てた。
「俺はここにいるじゃん。それなのに何バカなこと考えてんだか」
そう言って着替え始める。
彼の腕から抜け落ちた上着。
青と白のジャージ。
青学テニス部のレギュラーである証。
それが何だか酷く悲しくて、やるせなくて、悔しくて。
菊丸がワイシャツ姿のリョーマに抱きついた。
「ちょっ・・・!何スか、菊丸先輩!」
言い返すリョーマをきつく抱きしめた。
ここにいることを確認したくて。確認しなきゃいけないような気がして。
きつくきつく抱きしめた。
リョーマはしばらく菊丸を剥がそうともがいていたが、離れないと悟ったのかハァ・・・とため息をついた。
ロッカーから視線を動かせば不二と目が合って。
その顔にいつもの笑みがないことに、悲しそうな瞳をしていることに気づき、少しだけ目を丸くする。
見れば手塚や乾、大石までもが同じような瞳でリョーマを見ていた。
少し戸惑ってやはりため息を一つ。
「・・・・・・徳川さんの言うことなんて真に受けないで下さいよ。あの人、いつも勝手なことばっかして周りを振り回すんだから」
「でも越前は」
不二が言葉を切った。
躊躇した言葉をやっとのことで口にする。
「越前はやっぱりいつか、世界に行くんだよね・・・・・・?」
彼が世界にいくことが悲しいんじゃない。
一緒にいられないことが、一緒にいるだけの実力がない自分が情けないんだ。
悔しくて、どうしようもなくて。
だから嫉妬した。
彼を導くことの出来る存在に。
「そんなの判んないっスよ。行くかもしれないし、行かないかもしれない」
リョーマはアッサリと切り捨てた。
「でも徳川プロがおチビのこと待ってんじゃん!」
「勝手に待ってるだけっスよ。あの人、俺のことずいぶん気に入ってるみたいだし」
「そんな言い方は・・・」
「いいんですよ、別に。あの人筋金入りのワガママだから」
大石の台詞にもリョーマはサラッと返して、学ランと鞄を手に振り返った。
鮮やかに笑って。
不敵に言葉を紡ぐ。
「俺は世界に行くかどうか判らないけど、全国には必ず行きますよ」
「先輩たちと一緒に全国制覇するんですから」
先のことは判らないけれど、今ここにいるのは事実。
今いるメンバーで出来る限りのことをしたいから。
未来よりも現在。
彼は今ここにいる。
「・・・・・・っそうにゃ!よっしゃ青学全国制覇するぞ―――ッ!」
「頑張ろうね、どこの学校にも負けないように」
「そうするとやはり練習量は今よりも四割増しの方が・・・」
「怪我だけはしないでくれよ、越前」
声を掛け合って互いに笑いあって。
今ここにいることを実感したい。
いつか別れる日が来ても、笑顔で「またね」と言えるように。
今を最高の思い出に出来るように。
「行くぞ、越前」
「もちろんっスよ」
彼は笑った。
誰よりも鮮やかに何よりも眩しく。
そして一歩を踏み出した。
2002年8月6日