出立報告のため、ラル・ミルチはドン・ボンゴレの執務室に向かっていた。
ボンゴレでは任務に向かう際、必ずドンの言葉をもらってから行くことが習慣付けられている。それは幹部の場合は一人だけれども、それより下の構成員たちの場合は、集団で行われることもしばしばあった。自身が陶酔している主の微笑を胸に、彼らは戦場へと向かうのだ。
故にラルも半ば無意識的に執務室へと向かっていた。屋敷の最上階、最高幹部の部屋しかない静かな廊下に、今は誰かの喋り声が流れている。主の執務室は、細く扉が開かれていた。甘い声が聞こえる。
「それじゃあいってきます、綱吉君」
「いってらっしゃい、髑髏。気をつけて」
女がねだるように腕を伸ばせば、男は微笑しながら彼女の腰に手を回す。深く重ねられる唇は、恋人同士の抱擁以外、何のものにも見えなかった。
隻眼の瞳が細く開いた扉越し、ラルを笑う。

女からは霧の匂いがした。





狂喜のキス





「ラル・ミルチです。失礼します」
礼儀正しくノックをして扉を開ければ、デスクに向かっていたドン・ボンゴレ―――沢田綱吉が顔を上げる。東洋系のせいか幼く見える顔に笑みを浮かべ、彼は椅子から立ち上がった。
「いらっしゃい、ラル」
「出立の挨拶に参りました」
「いいよ、敬語なんか使わなくて」
「いえ、あなたはドン・ボンゴレですし、家光様のご子息ですから」
何度交わしても変わらない言葉に綱吉は苦笑する。
このラル・ミルチという少女は、もともとは先代門外顧問だった綱吉の父に仕えていた。けれど綱吉がボンゴレ十代目を襲名する際に、バジルと共に正式にファミリーへと加わったのだ。今はアルコバレーノとほぼ変わらない実力を買われ、様々な任務を任されている。
「今回はイリーナファミリーの内情視察だったね」
「はい。一週間を予定しております」
「うん。分かってると思うけど、無理はしないこと、生きて帰ってくること」
「善処します」
「善処じゃなくて、約束だよ」
小さく笑って、彼はラルの長く伸びた髪を撫でる。優しい手付きはとても温かく、まるで家族のような抱擁だった。
恋人のそれじゃないことが悔しい。だけど、惜しんでもらえることが嬉しい。

ラルはアルコバレーノのように、綱吉への好意をあからさまに出すことは出来なかった。それは決して、自身が彼らに劣っていると認めているからではない。なりそこないなんかじゃないと、綱吉が言ってくれたから、恨むことも羨やむことも止めた。だけど、恋は示せない。すでに自分は救われたから、これ以上望むことはない。



願うのはただ、あなたの望みを叶えること。
口付けなんかいらない。命令を下して。

あなたの刃となって戦える自分に、確かな誇りを持っているから。



執務室の前ですれ違った女。ラルは彼女のようになれない。だからこそ代わりに膝をつく。慌てる主にも関わらず、少しだけ癖のついている皮靴に唇を寄せた。ラル、とたしなめるような声にゴーグルの下で目を細める。
「ドン・ボンゴレ、あなたに永久の忠誠を」
誓い、もう一度靴に口付ける。



語らない言葉の分だけ、戦場でトリガーを引こう。
一生戦い続けることを、ラルはすでに決めていた。
恋なんてそれだけで十分だと思っていた。





ただ、出会えた奇跡に幸福を想う子。
2006年9月23日