幸せなのだと語ったら、笑うだろうか、怒るだろうか、嘆くだろうか、呆れるだろうか。どの表情も思い描くことが出来、それすらもう幸福だとのたまえば、きっと飛んでくるのは銃弾か拳。ごめんごめんと謝る己すら鮮明で、その幸福にどうしようもなくなる。
幸せだよ。おまえに、おまえたちに会えて、俺は確かに幸せだったよ。











選んだのは、カノニコのスーツ。初めて袖を通してから半年になるけれども、お気に入りの一着だ。柔らかいベージュに控え目なストライプは、仕事には向かないけれどプライベートで重宝してる。羊毛は触れているだけで温かいし、軽い着心地とフィット感が何より良い。中に細かい格子のワイシャツと青を基調としたネクタイを合わせて、鏡の前で一回転。四十代を迎えても相変わらず二十代に、服によってはティーンエイジャーに見られかねない童顔は、もはやどうしようもないのだと諦めた。日本人であることが問題だったのかもしれないし、あの永遠の少女と呼ばれた母に似たのが原因だったのかもしれない。もともと茶色かった髪は色素が抜けてきて今や金色に近く、精神的な問題から白髪になる日もそう遠くないだろうと考えていたのだけれど、どうやらそれは杞憂に終わりそうだ。鞄は持たず、内ポケットの財布にはある程度の札束とコイン、それに限度額のないブラックカードを詰め込んだ。大好きなジェラート店のクーポン券も忘れちゃいけない。脇の下にはホルスターを下げて拳銃と代えの弾をいくつか。腰のベルトに慣れ親しんだ毛糸の手袋を下げて、ハンカチとティッシュは必需品。携帯電話は少し考えて、置いていくことに決めた。ひとり一台が当然になり始めている現代だけれど、公衆電話だって無くなってはいないのだ。手紙という手段もレトロで良いし、何より実際に会いに行くのが最も好ましい手段だろう。靴はスーツに合わせて茶系の皮靴。爪先を軽く小突いて馴染ませれば、準備は完了。二十年以上を過ごしてきた部屋を見回し、ふと唇を緩ませる。思い出は山ほどあるけれど、さよなら、と微笑んで綱吉は部屋を出た。
「・・・・・・父上」
「吉宗」
すぐ前の廊下に立っていた姿に、綱吉はゆるりと微笑んだ。先日めでたく二十歳を迎えた、ドン・ボンゴレ十一代目。蜂蜜のように甘そうな色の髪の毛は紛れもなく綱吉のそれを受け継いでおり、けれどどこか感情を見せない面立ちは母親である凪を思わせる。背はすでに綱吉と等しく、息子の成長を嬉しく思い、そろそろと伸ばされ握られた手の大きさには感慨も深い。摺り寄せられる頬を受け止め、肩口に額を押し付けられ、子供のような所作に笑みが漏れた。
「ボンゴレを頼むよ」
「・・・・・・うん」
「大丈夫。吉宗は、吉宗の信じる道を進めばいいんだから」
表情の変化に乏しく、言葉数も多くない息子だけれど、実力とボスとしての資質は確かだ。慕ってくれる部下もたくさんいるし、何より豪胆な決断力と慈悲に似た優しさに満ちている。大丈夫だよ、と背中と頭を数回撫でて、その身体を引き離す。すぐ近くにいた娘二人が駆け寄ってきて、左右から綱吉に抱きついた。
「パパぁ!」
「光姫も栄姫も、元気で」
「父様・・・っ」
「あぁほら泣かないで。何も今生の別れって訳じゃないからさ」
多分、と付け加えた胸のうちが伝わったわけでもないだろう。姉の光姫が秀麗な顔をくしゃりと歪めて、けれど妹の栄姫を促すようにしてそっと離れる。娘二人の瞼にキスを落とし、一度強く抱き締めた。栄姫が子供らしい高い声で泣き始め、歩み寄ってきた京子によって抱き締められる。パパ、ママ、と訴える娘をあやす京子に、綱吉は微笑みかけた。中学から高校にかけての六年間、そして十年の時を経て再会し、結ばれることとなった初恋の女性。思えば彼女が始まりだった気がしなくもない。
「京子ちゃん、今までありがとう」
「私こそ。ありがとう、つっくん。身体に気をつけてね」
顔を寄せて、頬と唇にキスをひとつずつ。隣を向けば、じっと唇を噛み締めている光姫の肩を抱いて、支えるように寄り添っているのはハルだ。時間だけなら、きっと一番多く共に過ごした女性だろう。いつだって励ましてくれ、支えてくれ、全力の愛情を向けてくれた。抱えきれない感謝を込めて同じようにキスを贈れば、大きな瞳を涙でじんと潤ませる。
「ツナさん、ハル、待ってますから」
「うん」
「ビアンキさんみたいに、ずっとずっと待ってますから!」
ありがとう、と告げれば、ハルの瞳から涙が零れた。光姫と縋りあうようにして抱き合い、それでも見送ってくれる。ありがとう、ともう一度告げて吉宗を見やれば、彼の隣には凪が立っていた。幻覚で内臓を補ってきたとはいえ、やはり身体は小柄なまま成長を止めてしまった。それでも綱吉の傍に在り続け、文字通り血を吐いても戦場に立ち続けた女性。柔らかに抱き寄せ、綱吉は凪にもキスをふたつ贈った。
「ボス」
「凪、吉宗を導いてやって」
「私に出来ることなら、何でも」
「愛してるよ」
最後に妻たちと息子娘たちに笑みを向け、そして背を向ける。栄姫の追ってくるような足音が聞こえたけれど、それもすぐに止み、綱吉は振り返らない。慣れ親しんだ屋敷を、ゆっくりとした歩みで抜ける。いくつもの曲がり角や飾ってある絵画のどれひとつをとっても、思い出は溢れ出して溜まらない。脳裏を巡っては遠ざかるそれらに瞳を細め、多くの部下に腰を折って見送られ、綱吉はボンゴレの屋敷を出た。空が眩しく、イタリアの空気が愛しい。



広い敷地の終わり、壮大な門扉の右に獄寺が、左に山本が立っていた。
「この獄寺隼人、どこまでも十代目にお供します!」
「俺も。水臭いぜ、ツナ」
四十代を迎えて服装は大分落ち着いたものの、それでもセンスよくシルバーアクセサリーを身につけている獄寺は、笑顔だけは中学生の頃から変わらない。信頼と敬服、それらは終ぞ揺らぐことが無かった。
仕事柄黒いスーツを着ることの多かった山本は、今はジーパンにラフなポロシャツだ。肩で背負っている細長い包みの中身が何かは検討はついたけれども、野球のバットと言われても信じられる。その爽やかな明るさに終ぞ助けられてきた。
当然のように左右に並んで歩き出す彼らに失笑し、それでも嬉しいから何も言わない。ここまで来たらどこまでも一緒だと、そんなことを今更ながらに思う。車には乗らず、のんびりと街道を行く。小腹が空いたね、と言えば、じゃあジェラートでも食ってきますか、と提案されて、俺はチョコにするかなぁ、と応えが返る。まるで学生時代に戻った頃のようで、それが余計に幸福を加速させた。
気に入りのジェラート店でクーポン券を使って四つ購入した。バニラを獄寺に、チョコレートを山本に、苺を自分に、そしてオレンジを左手に持って背後の存在にちらつかせる。会計を支払っていた最中からぎゅっとスーツの裾を握られていて、背中越しにちらつく黒いふわふわとした髪の毛に綱吉は苦笑した。身長はもう随分と前に追い抜かれてしまった。けれど変わらない牛柄のシャツと子供の頃と同じ癖に、懐かしい記憶が甦る。
「お、俺・・・俺もっ、一緒に・・・・・・っ!」
「うん。分かってるよ、ランボ」
ありがとう、とオレンジのジェラードを差し出せば、ちゃんと受け取ったくせに、スーツを握る手は逆に強さを増した。その手を己の左手と繋ぎ代えながら、また街を歩き始める。スポーツ店のウィンドウの前では、了平が腕を組んで立っていた。年を重ねても分かる鍛えられた肉体も、今はスポーツウェアに包まれている。
「俺も行くぞ、沢田!」
突きつけられる拳に、いつだって頼もしさを感じてきた。前を向き続ける姿勢に助けられてきた。はい、と頷いて総勢五名で通りを抜ける。裏からとはいえ支配し続けた土地のすべてを覚えていこう。日に焼けたレンガも、花売りのカートも、子供たちの駆ける姿も、裏路地の血と犯罪と闇の匂いも。
だんだんと人気が無くなり、街の外れまで来たところで瓦礫を背に立っている人影が目に入る。そのまっすぐに伸ばされた背筋を、何度見つめてきたことか。恐れもあったり、憧れもあった。向けられる鋭い視線に、今は笑みが浮かんでしまう。雲雀は一瞥をくれると、何も言わずに背を向けてさっさと歩き出す。そのスーツの後ろ姿を、また綱吉は追った。
「千種さんと犬さんはいいの?」
「僕は輪廻を生きる者ですよ? どんなに呪われようと、行き着く先は同じ場所。所詮その程度の変化です」
「心配するなよ。今度は俺たちも一緒だからさ」
雲雀と逆をいくように、少し離れてついてくるロングコートをまとった骸に、綱吉は微笑みかけた。前を歩いているため見えないだろうけれど、きっと気配は感じたのだろう。肩を竦められた気がして、それすら彼らしくて綱吉は笑った。
民家が完全に無くなり、山への道を辿り始める。草木すらいずれ消え始め、崖のような周囲の中をただ進む。恐怖も不安も一切無かった。共にいる仲間に絶対の信頼を置いているし、彼ら以上の存在なんて無いと断言できる。だからこそこの幸せを選んだのだと語ったら、ダメツナと罵られてしまうだろうか。だけど構わない。呪われた赤ん坊だろうと、彼らの存在が自分の中で幸福と直結していたのは事実なのだから。だから今度は、自分が彼の跡を継ぎたい。
「―――あぁ」
足を止め、空を仰いで綱吉は笑った。つられて獄寺も山本も、ランボも了平も雲雀も骸も天を向く。
「見て。すごく綺麗だ」
イタリアの空にかかる、七色の虹。触れたくて手を伸ばす。

その日、新たなアルコバレーノがイタリアマフィア界に誕生した。





俺はおまえたちに会えて幸せだったから、だから同じ道を行くんだよ。いいよな、リボーン?
2008年5月18日