京子にとって兄の了平は、ヒーローであり少しだけ困った人であり、そして不思議な人だった。ボクシングばかりに打ち込み、事在るごとに「極限!」と叫ぶ。その独特な性格が災いして周囲からは少し引かれていたけれども、了平は京子の大好きな兄だった。大切な兄だった。
そんな兄がある日突然、家族の前で「俺はボクシングを極める旅に出る!」と宣言したのだ。両親はいつものことだと思ったのか、深々と呆れたような、それでいて慣れているような溜息を吐き出した。こうなった息子を止めることは出来ないのだと、育ててきた19年間で学んだらしい。さっそく旅に出る仕度を始めた兄の後ろ姿を、京子は胸騒ぎを覚えながら見つめていた。兄が突拍子もないことを言うのはいつものことだが、今回だけは何かが違うと思ったのだ。そしてそれは正しかった。
朝、牛乳配達さえ来ていない時間に兄は大手を振って「いってくる!」と出て行った。両親は寝ぼけ眼でそれを見送った。いつものことだと思っていたのだろう。けれど京子は心配になって兄の後を追いかけた。曲がり角を二つ三つ曲がったところで、兄の向かいから来た人物が不思議そうに声を上げる。
「あれ? 了平さん?」
それは、先日まで付き合っていた京子の恋人だった。
Vuoi sposare con me? / 僕と結婚したい?
朝靄の中現れた綱吉は、早朝だというのに完璧な外出着に身を包んでいた。高校の制服ではなく、サラリーマンが着るようなスーツだ。ダークブラウンのそれは霧を含んでか少しだけ色を濃くしている。ワイシャツに、締められているネクタイ。その格好は何故か綱吉にとてもよく似合っていると京子は思った。右手に紙袋を提げている綱吉は、小首を傾げながら了平に問いかける。
「了平さん、何でこんなところにいるんですか?」
「おお、沢田! 今日もいい天気だな!」
「そうですね、いい天気になりそうですよね。って、まさかもう出てきちゃったんですか!? 俺、ちゃんとご挨拶に伺うって言ったのに!」
「俺はいらんと言っただろう。俺の家は普通の家だ。詳しく言えば絶対に反対するからな」
「だからこそご挨拶に伺わなきゃいけないんじゃないですか。でないとご両親が心配するでしょう? 息子がもう帰ってこないなんて」
「だからこそ言わんのだ。知らなければ余計な心配をかけることもない。年に一度くらい手紙は出す」
兄の意思を持った声に、やっぱり、と京子は唇を噛んだ。ボクシングを極める旅に出るというのは嘘だったのだ。兄は綱吉と共に、どこか遠くへ行くのだろう。おそらくそれは日本ではない。そして彼らはもう帰ってこない。自分は共に連れて行ってもらえない。だからこそ綱吉は先日、自分に別れを切り出したのだろう。思えばその頃から、彼が、兄が離れていく予感があった。
「それに、沢田が辛いだろう」
「そんなことないですよ。俺、ちゃんと殴られる覚悟してきましたから。泣かれる覚悟もしてきましたし」
「断る。俺は京子の泣き顔を二度も見たくないし、身を切る沢田を二度も見たくないんでな」
「優しいなぁ、了平さん」
ちらりと綱吉の姿を見て身を隠してしまったけれど、この角の向こうで、彼は一体どんな顔で笑っているのだろう。自分といるときの彼は、18歳という年齢に違わない少年だった。中学のときとは違い、背が伸びて見上げなくてはならなくなったけれど、浮かべられる笑顔は相変わらずどこか頼りなくて、だけどとても優しい彼が京子は好きだった。告白をされ、とても嬉しかった。だから付き合ってほしいという言葉に頷いた。日々は楽しかった。美しかった。毎日交わすメールは時に照れくさくて、帰り道はいつも送ってくれた。初めてのキスは屋上だった。綱吉はとてもとても優しく、もどかしいほど丁寧に自分に触れた。そんな彼が大好きだった。
「ごめんね、京子ちゃん」
声が聞こえる。朝日がようやく街を照らし始め、朝靄がどこかへ消えていく。
「京子ちゃんのお兄さんは、俺が貰います。大切にします。俺が俺である限り、一緒に戦って、守って、守られて、精一杯幸せにすることを誓います。責任持ちます。だから、了平さんを俺に下さい」
その言葉を聞きたかった。こんな、曲がり角に遮られてではなく、自分の両親の前で、自分を、京子を下さいと、言ってほしかった。彼のその誓いが欲しかった。どこかで言ってくれるんじゃないかと期待していた。だけど最後までそれはなかった。告げられたのは、別れの言葉。どうしてと詰め寄った自分に、彼はひたすら「ごめん」と繰り返すだけだった。
「ごめんね、京子ちゃん。つれていけなくてごめん。だけど俺、京子ちゃんにだけは幸せになってほしいんだ。俺といるのが幸せって、もしかしたら言ってくれるかもしれないけど、俺はそう思えないんだ。つれていったら、きっと毎日後悔する。だからごめん。京子ちゃんは、つれていけない」
ごめん。ごめんね。そう繰り返される声に涙が溢れた。隣にいたと思っていた綱吉は、いつの間にかずっと遠くを見るようになっていた。同じものが自分には見えない。見ることを許されない。彼が行くのならどこだって行きたいと、そう思ってたのに。
「ごめんね、京子ちゃん。了平さんは俺が必ず守る。責任持って、出来る限りのことをするよ。だから、ごめんね。ごめんね、京子ちゃん。ごめん。ごめん。本当にごめん。ごめん。ごめんね」
綱吉は、そう、いつだって優しくて優しくて優しくて、そして最後にはいつだって京子を突き放した。それが彼の愛なのだと知っていなければ、誰が別れたものか。
「俺は京子ちゃんのことが、大好きだったよ」
だから置いていく。そんな声と共に、両手で顔を覆ってしゃがみこんだ京子の耳に、かさりと紙袋の揺れる音が届く。
「これ、クッキー。よかったらご両親と食べて」
スニーカーの足音がする。兄が行ってしまう。自分には止められないことが京子には分かっていた。涙が指の合間から溢れ出る。止められない。行ってしまう。兄も、綱吉も。
「元気でな、京子。父さんと母さんのことを頼むぞ」
お兄ちゃん。何千、何万回と呼んできた兄を、もう呼べない。
「さよなら、京子ちゃん。了平さんは大事にするから。京子ちゃんも元気で」
ツナ君。好きを込めて、愛を込めて呼んでいた彼を、もう呼べない。足音は二つ重なり、どんどんと遠ざかっていく。朝日が街に降り注ぐ。長い長い影が、京子のいる角から消えていった。顔を出しても、もう誰もいない。
「お兄ちゃん・・・っ・・・ツナ君・・・!」
アスファルトに膝を着き、京子は声を押し殺して泣いた。前に立ち守ってくれた人も、優しく背を撫でてくれた人も、もういない。二人はもう去ってしまった。
大好きな人たちの喪失に、朝日の中で泣き続けた。
当サイトのツナ京は、高校卒業時にツナが別れを告げますが、十年後くらいに京子ちゃんが追いかけていきます。
2007年6月6日(2007年12月22日mixiより再録)