朝、綱吉は窓を打つ音で目を覚ました。
ベッドから起き上がりカーテンをめくってみれば、まるでバケツを引っくり返したように、激しい雨が降っている。
街路樹がばさばさと緑の葉を散らしているのを見て、思わず可哀想と思ってしまう彼は、根っからの優しい人なのかもしれない。例え現在の肩書きがマフィアのドンだったとしても。
サイドテーブルの電話に歩み寄り、内線を押して連絡室を呼び出す。
「おはよう。俺だけど、バジル君に今日出かけるからついてきてって伝えてくれる?」
朝の挨拶と了解を返されて、綱吉は見えないとは判っていても笑顔を浮かべた。
それは爽やかとは程遠い、大雨の一日の始まり。
Una rosa per te.
選んだスーツは、昨日仕立て上げられたばかりのまっさらな新品。合わせるシャツはシンプルに、ネクタイには少し遊びを見せて。カフスとピンは品のあるものを、靴下も靴もバランスよく、センスよく。丁寧に髪にブラシを通し、最後に香水をそっと吹きかけた。
「・・・・・・どうかな?」
くるりと一回転してみせた己の主に、バジルはふんわりと笑みを浮かべる。
「お綺麗です、綱吉殿」
「及第点もらえると思う?」
「ええ。もしも落第などさせられたなら、綱吉殿に代わり拙者が抗議致します」
「あはは、ありがと」
もう一度鏡を覗き込み、蜂蜜色の髪を引っ張って整えると、綱吉は「よし」と気合を入れて背を伸ばした。
歩き出した彼の半歩後ろにバジルも付き従う。
廊下では待機していたのか、獄寺や山本ら幹部が額をつき合わせて難しい顔をしていた。
自分が出てきたことで一様に向けられた視線の意味を知りつつも、綱吉は苦笑でそれを流す。
「じゃあ、後はよろしく」
むっとどこかすねた様子で頬を膨らませる部下たちとすれ違い、綱吉はバジルだけを引き連れてボンゴレの屋敷を出た。
外は朝よりも激しい嵐になっている。
車に乗っていても聞こえてくる風の音。
窓に打ち付ける雨水はまるで銃弾のような響きがあって、マシンガンのようだと綱吉は一人笑う。
こんな天気の中でも営業しているケーキ屋に感謝しながらテイクアウトを頼み、今日はもう閉店しようとしていた花屋に飛び込んでありったけの花を包んでもらう。それらを両手に抱えた綱吉は、まるで伊達男のように、デートの見本そのものに彩られた。
車はアスファルトの通りを抜け、入り組んだ石畳の前で止まる。お世辞にも綺麗とは言いがたい建物が並んでいるそこで、慣れ親しんだように車を降りる。
「それじゃ、時間になったら迎え頼むね」
運転手にそう告げ、傘をかざしてくれたバジルに礼を言い、綱吉は歩き出す。もちろん両手にはケーキと花束を持って。
いくつか角を曲がり、通りからは見えない古ぼけたアパートの一つに、ためらいなく足を踏み入れる。階段を二つ上がり、物が散らかる廊下を一番奥まで進み、手で容姿の乱れを整えてから、一見壊れていそうな薄汚れたブザーを押した。
聞こえてきた誰かを尋ねる声に、ふんわりと柔らかな笑顔を浮かべて。
「Ciao, amore mio!」こんにちは、俺の可愛い人!
久しぶりの、愛を告げる。
イタリアで最も巨大な勢力を持つボンゴレ・ファミリーのドンとして、綱吉は常時片手に余るほどの愛人を抱えている。
それはどちらかといえばドンという立場としての意味合いが強い。しかしそれだけでは納得できないほどの「いい女」ばかりが、綱吉の愛人には名を連ねていた。
彼女らはみな、賢く美しい。そして何より綱吉を包み込めるほどの包容力を持っている。
綱吉の最も近くにいるリボーンは、ドン・ボンゴレの家庭教師として、ボンゴレ専属のヒットマンとして、彼女たちと会ったことがある。そのときに最強と呼ばれるアルコバレーノの彼女がどんなに絶望したのか、きっと綱吉は知らないだろう。それほどに優れた愛人たちだったのだ。銃を持つ者には決して持ちえない、そう、かつて綱吉の祖国で彼の母親や初恋の少女がまとっていた温かな空間が、そこにはあった。
彼女らに会った日の夜、リボーンがベッドで一人涙したことも、きっと綱吉は知らない。
綱吉の愛人たちはボンゴレの幹部の中ではそれなりに知られている。
けれどその中でもたった一人、獄寺や山本たちにも、そしてリボーンにも決して教えない愛人を、綱吉は囲っていた。
逢瀬は決まって雨の日。バジルだけを共に連れ、綱吉は彼女に会いに行く。
「はい、お土産」
ケーキの箱は傍にいたお手伝いに、大きな花束だけを綱吉は女に差し出す。
受け取った女は嬉しそうに香りを嗅いだ。肩を過ぎる黒髪がさらりと揺れ、藍がかった艶を放つ。
「綺麗な花ですね。ありがとうございます」
「どういたしまして」
感謝の言葉に綱吉も微笑み返し、柔らかなキスを一つ頬に落とすと、ことさらに女は目を細めた。
手伝いの者が紅茶とケーキを用意している間に、バジルは綱吉から雨でわずかに湿ってしまったジャケットを受け取る。ハンガーにかけて乾かすのもお手のもの。バジルが綱吉の共としてこの部屋を訪れる回数も、すでに二桁に達していた。
その間も綱吉と女はソファーに並んで座り、他愛ない会話を続けている。
「そのスーツ、新しいものですか? 初めて見ました」
「うん、昨日仕上がってね。さっそく着てきたんだ」
「とてもよく似合ってますよ。香水もすごく甘くて、まるであなたのようです。髪が雨で濡れてしまったのは、少し残念ですけど」
「ありがとう」
髪に伸びてくる手も、綱吉は拒まない。近しい距離にいる二人は、まるで絵画に描かれている男女のように似合いだった。
その後しばらくはバジルや手伝いの者も含めて歓談しながらティータイムを過ごし、綱吉と女は連れ添って部屋へと消えていく。
それから数時間、バジルはいつも雨音を聞きながら、ただひたすら時が過ぎるのを待つのだ。
女は美しかった。
黒髪が頬を縁どり、滑らかな色艶を更に際立たせる。
肌は陶器のように白く、唇は血のような紅。造作の整った顔立ちは人形のようにも見える。
手足はほっそりとしているけれども女特有の柔らかさを帯びており、薄いドレス越しにも凹凸のあるスタイルが見て取れた。性的な魅力に溢れた女。そうとも言えた。
言葉を綴る声は高くもなく、心地よく耳に響く。発される台詞は丁寧なものばかりで、機知とユーモアに富んでいた。
きっと誰もが「いい女」と呼ぶだろう。それほどの魅力が女にはあった。
魔性とも呼べるほどの、魅力が。
時計の長針が三周ほどしただろうか。雨音の数を数えていたバジルは、ふと動いた気配に立ち上がった。
綱吉と女が、先ほど消えていったドアから現れる。かけてあったジャケットを取り、今度は女が綱吉に着せた。
「また来て下さいね」
「うん、必ず来るよ。次の雨の日に」
「来てくれなかったら、ボンゴレまで会いに行っちゃいますから」
女の言葉に綱吉が苦笑する。その頬をたおやかな手が包み込み、そっと唇が重なった。
左右異なる色の瞳で、女は囁き愛を告げる。
「Ti amo, carissima」愛してます、僕のいとしい人
雨の日の、逢瀬。
屋敷の前で車が止められ、綱吉とバジルが降りてくると、その場にいたファミリーたちが一様に頭を下げて出迎える。
綱吉は彼らにそれぞれ声をかけながら執務室に向かい、扉を開ける前に中にある気配に気づいて小さく笑った。
バジルもやはりどこか困ったような顔をしている。そんな彼を振り向いて、綱吉は人差し指を唇にあてた。
「内緒だからね? バジル君」
「はい、綱吉殿」
毎度の約束を交わし、彼らは執務室への扉を開けた。今回こそは相手の女を聞き出そうと意気込んでいる側近たちに、思わず笑みを浮かべながら。
「ただいま、みんな」
綱吉は愛を告げる。
雨の日に少し饒舌になるドン・ボンゴレを、バジルだけが知っている。
バジツナを書くはずだったのに・・・あれー?
2006年5月14日