走り回って手に入れろ、靴





帰宅した家では、叔父と大叔父が転がって寝ていた。布団を敷く間もなかったのだろう。リビングの隣の和室に大の男が場所を取り合うようにして横になり、その上に申し訳程度に毛布がかけられている。その暢気な寝顔を見たとき、佳主馬はふたりを蹴り飛ばしたくなって仕方がなかった。けれど堪えたのは、侘助と理一が健二を名古屋まで連れてきた張本人だと先に知らされていたからだ。夜通し高速を車で飛ばした男たちに、佳主馬はぎり、と奥歯を噛み締める。足音荒く階段を上って部屋に戻れば、下から母に窘められた。制服を脱ぎ捨てて部屋着に着替える。
台所では母の聖美が夕飯の支度をし、その隣では健二が手伝っていた。相変わらず佳主馬の大きなパーカーを着ていて、料理のためと前のチャックをすべて上げてしまえば、後ろ姿からは短いワンピースの裾が見えるか見えないかになってしまう。妹を膝に乗せてあやしつつ、そんな後ろ姿を佳主馬はぼんやりと眺めていた。母とふたりで話しては笑う健二は穏やかで、結婚して親と同居したらこんな感じに、などと考えてしまった自分の頭を佳主馬は反射的に殴った。先ほど、両親の離婚を話してもらったばかりなのに、なんてふしだらな。耳の端を赤くして項垂れていれば、妹が丸い目で佳主馬を見上げてきたので、情けなくなってその目を手のひらで隠した。
夕食は帰宅した父に、起きてきた侘助と理一も加わって賑やかな食卓になった。男三人は当然のようにビールとワインの栓を抜き、艶やかな健二に酌をさせようとボトルを握らせる。聖美は佳主葉に離乳食を与えながらも「あらあら」と笑っており、健二はむしろ自ら進んでお酌していた。おかずの中には少し煮崩れした肉じゃががあって、母の味と違う、つまり健二が作ったものだと分かったから、佳主馬は二回おかわりした。牛肉ではなく豚肉で作る肉じゃがは初めてだけれど美味しかった。
「佳主馬君、入ってもいいかな?」
食事が終わり、スポンサーからのメールをチェックするために自室に戻っていた佳主馬は、扉越しにかけられた声に立ち上がる。廊下には案の定健二がおり、その両手は緑茶とみかんを載せた盆で塞がれていた。受け取ってから招き入れれば、ありがとう、と礼を言って入ってくる。ぱたんと扉を閉めたところでふたりきりだということに気づき、ドアは開けておくべきなのか否か刹那的に逡巡してしまった。だって、これでは密室ではないか。家族は下にいるけど、でも。っていうか健二さんが俺の部屋に入るのって初めてじゃ。
「あ、やっぱり自宅だとデスクトップなんだね」
「っ・・・あぁ、うん。ノートは上田に行くときとか、移動するときとかに使うだけ」
「最新機種だ。佐久間がこれ、欲しがってたっけ」
ものめずらしげに室内を見回す健二に、まめに掃除をする性質でよかった、と佳主馬は自分の性分を心から賞賛した。座れば、とパソコンチェアに敷いているクッションを床に置けば、健二はやはり「ありがとう」とふにゃっと笑ってから腰を下ろす。すでに風呂を勧められたらしく、服装はワンピースから、これまた佳主馬のスウェットの上下に変わっていた。手足は少し余っているけれども、たくし上げるほどでもないらしい。つまり身長は、まだそれほどの差がないのだ。ち、と佳主馬は心中で行儀悪く舌打ちした。そしてどうして母さんは俺の服を健二さんに着せるの、と階下の母に毒づく。おそらく、おそらく、きっと間違いなく見透かされているからだろうと察しがつくのが逆に嫌なのだ。
「佐久間さん、元気?」
当たり障りのない話題といっては失礼だが、投げかければ健二は首を縦に振った。アイシャドウも口紅も落ちている代わりに、風呂上りで頬は自然な紅潮を見せている。襟ぐりから僅かに鎖骨が覗いて、もう本当どうにかして、と佳主馬は嘆きたかった。それでも彼女と喋る機会を逃すわけにはいかないので必死に耐える。
「元気だよ。この前、OZの保守点検の主任に昇進したんだって」
「主任? へぇ、バイトなのに凄いね。就職先もOZに引き抜かれるんじゃないの?」
「うーん、多分そうなるんじゃないかな。それっぽいことも大学入る前に言われたって言ってたし」
「あれだけのプログラムを組む人だし。OZが手放すはずもないでしょ」
チャットではなく、メールではなく、電話でもなく、直接こうして話すことなんて年に何回もない。カメラを介せばリアルタイムで顔だって合わせられるけれど、それでも実際に会える以上の喜びなんてない。自分の言葉に応えてくれる健二のすべてに、佳主馬の身体が、心が反応する。ひとかけらも逃すことなく目に焼き付けておきたい。
「・・・もしかして健二さん、眠い?」
話の途中でうつらうつらと瞼を下ろし始めた姿に問いかければ、慌てたように目を擦る。けれどすぐにふにゃりと表情を崩して、健二は苦笑した。心なしか頭も左右に揺れ始めており、佳主馬はいつでも支えられるよう心積もりをする。
「うん、実はさっき、ワインを二杯飲んじゃった。あれ? 三杯だったかも?」
「・・・そういや健二さん、成人してたっけ」
「酷いなぁ、かじゅま君」
「・・・・・・健二さん、ベッド使っていいよ。昨日も車の中で寝たんでしょ? 疲れてるんだよ、きっと」
かじゅまくん。かじゅまくん。かじゅまくん。ぐるぐるとそんな舌足らずな呼ばれ方が脳内を駆け巡ったけれども、佳主馬は何食わぬ顔で立ち上がり、己のベッドの掛け布団と毛布をめくった。いいよいいよらいじょぶらよー、と健二はぱたぱた手を振るが、その腕を掴んでベッドに寝かしつければおとなしく従う。枕に佳主馬の黒髪とは違う、健二の少しだけ茶を帯びた髪が広がる。
「かじゅまくんのにおいがする」
ふふ、と枕に頬を摺り寄せるようにして健二が笑った。その瞬間、佳主馬は初めて、三年間片想いをしてきたのに、その瞬間に初めて、健二を幸せにしたいと思った。馬鹿みたいに、衝撃的に。この人を、自分の手で、幸せにしたいと、強く思ったのだ。
「・・・・・・ねぇ、健二さん」
「んー・・・?」
すでに眠りかけているのか、応える声は蕩けている。何故か泣きそうになりながら、佳主馬は健二の額にかかる前髪をそっと払った。
「一人暮らし、寂しくない?」
「・・・寂しく、ない、よ? 佐久間も、夏希先輩も・・・ネット繋げば、佳主馬君も、侘助さんたちも、いるし・・・」
「チャットくらい、いくらでも相手するから。時間があったらいつでも声かけて」
「ん・・・ありがと・・・」
瞼はすでに閉ざされていて、呼吸は浅く穏やかだ。せめてゆっくりと休んでくれればいい。おやすみ、と小さく囁いて立ち上がり、佳主馬は携帯電話だけ持って部屋の照明を消した。自分はどこで寝ようかと考えて、客間はどうやっても侘助と理一の餌食になるだろうから、リビングが妥当かと、ドアを閉めようとしたときだった。
「・・・・・・本当は、ね」
小さな、小さな声だった。廊下の蛍光灯が、盛り上がっているベッドの形を朧に浮かび上がらせる。
「・・・家に帰った瞬間だけ、ちょっと寂しい、かも・・・。ずっとひとりだったのに、ね」
「・・・・・・健二さん」
「おやすみ、佳主馬君。ベッド、借りるね」
「・・・・・・うん。おやすみなさい」
ドアを閉める。大人だったら。もっと大人だったら。社会人なんて言わない。大学生でもいい。いや、高校生のままでもいい。名古屋じゃなくて東京にいれたら。名古屋からでも、「呼んでくれたらいつでも行くから」なんて言えたなら。学校を投げ打って向かったところで健二が喜びやしないことなんて分かってる。それでも、この身はいたらないところが多すぎる。もっと、もっと、健二のすべてを包み込めるような、そんな男であったなら。
「っ・・・嘆いている暇があるなら考えろ、池沢佳主馬。おまえは陣内家の男だろ」
きつく奥歯を噛み締めて、佳主馬は亡くなった曾祖母を思い描いた。あの厳しく豪快な彼女なら、間違いなくこう言うはずだ。「佳主馬、自分に出来る最良のことをしなさい」と。情けないけれど今の自分は高校生で、健二からは年下の友人くらいにしか思われていない。庇護の域を出ない、まだ子供だ。だとしたら出来ることは。佳主馬は携帯電話のアドレス帳を開き、自分からは滅多にかけない電話番号を引っ張り出した。数回のコールの後に、相手に繋がる。
「夜分遅くに申し訳ありません。池沢佳主馬です。いつもお世話になっております。・・・はい、キング・カズマの。実はこの度ご連絡させていただいたのは、至急お願いしたい件がありまして―――・・・」
廊下の壁に背を預け、スポンサー相手に交渉を繰り返す。常には使わない丁寧な口調も、今は一切苦にならない。何かがしたかった。佳主馬は、自分のこの手で、健二を笑顔にしたかった。





淡い、夢を描くような恋は終わった。具体的で現実的な、質感を望む恋が始まる。
2010年4月13日