時計なんて気にしない





前を行く背中は夏よりも少し大きく見えて、身長が本格的に抜かされたことに気づく。健二は女子としては割合と背の高い方だけれど、佳主馬はもう170センチメートルを超えたのだろう。まだ16歳だし、男の子だし、これからもっともっと伸びていくに違いない。陣内家の男性陣はみんな体格も良いし、展望は明るい。手首を掴む指も節くれ立っていて、力は少し痛いけれど、何となく嬉しくなって健二は己の手首を引いて前を行く佳主馬の注意を引き付けた。
「佳主馬君、スーパーに寄ってもらってもいい?」
「・・・スーパー?」
「うん。聖美さんに、お醤油を買ってきてって言われてるんだ」
ついていく健二が早足であることに気づいたのか、佳主馬のスピードが落ちた。パンプスで歩きづらかったので、ほっとする。優しいなぁ、と思って見上げれば、佳主馬は何でか唇を尖らせていて、どうしたのかと首を傾げてしまう。
「母さん、健二さんにそんなことさせてるわけ」
「違うよ。僕が行きたいって行ったんだ。聖美さんは佳主葉ちゃんを見てなくちゃいけないし、侘助さんと理一さんはぐっすり寝てたから」
「・・・あのふたりも来てるの」
「うん。連れてきてくれたんだ」
連れ回しただけ、とあのふたりは言うだろうけれど、健二にとっては間違いなく贈り物だ。直接的なことは何も言われていないし、されていないけれど、それでも無言の温かさを示してもらった。だからこそ、自分から話すのならば彼がいい。そう決めて、佳主馬にしてみれば迷惑だろうに高校までのこのこと迎えに来たのだ。
「何か、あったの」
「うん。聞いてくれる?」
優しい年下の友人に、健二は微笑を向けた。佳主馬の表情は不穏を察したのか強張っていたけれど、そんな顔すら嬉しいと思ってしまう自分は、やっぱりどこか少し壊れてしまったのかもしれないと思う。掴まれていた手首を抜いて指先を絡めれば、佳主馬がびくりと肩を震わせた。
「僕の両親、離婚したんだ」
「え・・・」
「もう、一年半以上前に。ずっと言えなくてごめんね」
佳主馬の左目が瞠られた。長めの前髪の向こうで右目も同じように開かれていて、ごめんね、と健二は思いながらも足を止める。全国展開しているスーパーは偶然にも健二のアパートの近くにあるものと同じで、踏み入れた店内の並びもそう変わらない。プラスティックの籠を手にとって、今度は健二が佳主馬の手を引いた。慌てた様子でスニーカーの足音がついてくる。
「ちょっ・・・健二さん! 離婚って、何それ!?」
「佳主馬君、声大きいよ。・・・もともとね、僕の両親は不仲だったんだ。家に帰ってくることも稀だったし、三人揃ってご飯を食べることも、もう何年もなかった」
「・・・っ・・・」
「だからね、こうなることは分かってたんだ」
「じゃあ! ・・・じゃあ何で、言ってくれなかったの。うちの誰にも言ってないよね?」
「うん。身内の恥みたいで言い辛かったのもあるけど・・・言って、嫌われるのが怖かったんだ。可哀想って、思われるのが嫌で、怖くて」
棚の合間を縫って、調味料のコーナーを目指す。薄口や濃い口、醤油と言っても色んな種類があるけれど、池沢家では一体どれを使っているのだろう。聞いてみれば佳主馬は無言でひとつを選び出し、健二の持っていた籠を奪って、その中に放り込んだ。やっぱり佳主馬君は優しいなぁ、と思いながら、ありがとう、と健二も礼を言う。
「みんな、優しいから。僕なんかに、すごく優しくしてくれるから。だから言えなかった。言って、可哀想って思われるのが嫌だったんだ。家族もちゃんと作れなかった僕が、陣内家のみんなの中に入れてもらってもいいのかなって、ずっと思ってた」
一度離された手は、今度は佳主馬によって繋がれた。無言のままレジに向かう横顔を斜め後ろから眺めて、心を紡ぐ。会計する際にまた手が離れて、店員によってビニール袋に入れられた醤油を受け取ろうとしたら、やはり佳主馬に先を越された。怒っているのかな。当然だよね。小さく苦笑して、健二は引き摺られるままにスーパーを後にする。交差点で佳主馬と同じ高校の制服を来た女の子たち数人とかち合って、彼女らは佳主馬と、繋がれている手と、健二を見比べて瞳を丸くして囁きあう。ええと、と惑ったけれども、見上げる佳主馬はきつく前だけを見据えていたから、健二も何も言わずに注がれる興味の眼差しをそっと無視した。
「・・・・・・可哀想だなんて、誰も思うわけない」
「うん、知ってる」
「陣内家を見くびらないでくれる」
「うん、ごめんね」
声はやはり固いし、振り向いてもくれないけれど、自分が悪いのだからと健二は佳主馬の横顔を見上げる。信号が青に変われば、やはり手を引かれる。俯かずにいれるのは、気持ちが清々しささえ感じているからだ。一年半、鬱屈としていた心はどこへ溶けてしまったのだろう。きっと佐久間がゆっくりと殻を撫で、侘助と理一がそこにひびを入れ、あの美しい太陽が完全に砕いてしまったのだ。生まれ出たのは感謝に近い。こうして変わらずに傍にいてくれるたくさんの人へ、ありがとうを心から捧げたい。
「ありがとう、佳主馬君」
溢れるままに伝えれば、何故か佳主馬がぎょっとした顔で振り向いた。目が合い、どこか気まずそうな様子で視線をそらして、また彼は前を向く。
「・・・・・・何もしてないし」
「話、聞いてくれたよ。それでもこうやって傍にいてくれる」
「何もしてない」
「ありがとう、佳主馬君。本当にありがとう」
結局それから池沢家に帰るまで、佳主馬は振り向いてくれなかった。会話もなかったけれど、健二にとって沈黙は苦ではなかった。歩くスピードはパンプスでも痛くないほどゆっくりだったし、繋がれている手はずっと温かなぬくもりを感じさせてくれた。それらは下手な慰めよりも雄弁で、やっぱり自分は間違っていなかったと健二はこっそりと笑った。話した相手が佳主馬でよかった。





佳主馬の妹の名前を佳主葉(かずは)と設定しています。
2010年4月13日