置いてけぼりは慣れてます。
陣内侘助がそのアパートを訪れ、インターホンを鳴らすと、意外にも扉を開ける前に「どなたですか?」という声が中から聞こえてきた。なるほど、一人暮らしの女の身として、相手を確かめずにドアを開くようなことはしないらしい。最低限の防衛本能は備わっているんだな、と失礼なことを思いながら「よぉ、健二君」と声をかければ、錠を外す音がしてすぐに扉が開かれる。ぱちぱちと目を瞬いている様子は、二ヶ月前の夏からさほどの変化は見えなかった。
「侘助さん! どうしてここに・・・!? いつアメリカから帰ってきたんですか?」
「こっちの企業と業務提携のために一昨日帰国。もう仕事も終わったからな。ほら、土産だ」
「マスマティカル・インテリジェンサーの最新号! ありがとうございます・・・!」
数学雑誌を胸に押し抱いて、健二はそれこそ嬉しそうに笑う。昨日立ち寄った篠原家で、ブランド品の最新バッグに歓声を挙げていた夏希と同じようで正反対だ。二十歳を超えている女にとってどちらが正解かなど侘助には興味はないが、健二の数学における才能は認めているので、こうでなくちゃ面白くないと思っているのも事実である。
どうぞ入ってください、と促されて玄関に足を踏み入れる。健二はついでとばかりにポストに届いている郵便物を回収していた。1Kのアパートはマンションに住み慣れている侘助にしてみれば狭くて仕方ないが、すぐに何でも手が届くという点では使い勝手が良さそうだ。シンクの横のプラスチック籠には洗った後と思われるフライパンと箸とマグカップがあり、皿はどこに行ったんだと思うが、同じく一人暮らしの身として想像がつくため言及はしないでおく。
短い廊下はすぐに終わり、辿り着いたひとつしかない部屋は侘助の予想よりも広く、12畳ほどだろうか。壁の一面はクローゼットが覆っており、ドアの正面には大きな窓がある。家具といえばベッドとローテーブルと本棚くらいのもので、閉じられているノートパソコンは無造作に床の上だ。全体的に物が少なく、決して汚いというわけではないのに、全体的にごちゃごちゃしている印象を受けるのは何故だろう。侘助は考えて、すぐに納得した。物が元ある場所に返されていないのだ。例えば本棚から抜き出したであろう数学雑誌は絨毯の上に三冊積み重なっているし、日常で使っているらしい鞄はベッドの脇に落ちている。健二は決してだらしない性格をしているわけではないが、使ったものを片付けるよりも先に別のことを始めてしまうのだろう。そして用が済んだものは放っておかれ、そのうち纏めて片付けられる羽目となる。自身もそういった傾向にあるため、侘助は面白く思って適当に鞄を下ろした。
「散らかっててすみません。座ってください。飲み物、コーヒーでいいですか?」
「ブルーマウンテンで許してやるよ」
「あはは、インスタントしかないんです。すみません」
土産の数学雑誌と郵便物をローテーブルの上に置き、健二がキッチンへ戻っていく。大学生の一人暮らしのアパートならインスタントコーヒーがむしろ相場で、侘助も分かっているからこそ冗談で流し、届いていた水道代の請求書を何気なく手にとって眺める。金額は安くもないが高くもない。宛名を読み返して、テーブルに戻す。そしてもう一枚、今度は電気代の請求書を目の高さまで持ち上げた。部屋を見回す。両手にマグカップを抱えた健二が戻ってきて、ローテーブルの向かいに座った。
「お待たせしました。ミルクと砂糖は使わなかったですよね?」
「ああ。なぁ、健二君」
「はい?」
「君の親は、一体いつ離婚したんだ?」
ぴく、と目の前の笑顔が固まり、徐々に表情が抜け落ちていく。そんな健二の様子から目を離さずに、侘助は電気代の請求書を指に挟んでひらひらと振ってみせた。宛先の名は健二ではあるが、姓は小磯ではない。アパートはどう見ても一人暮らしで、誰かと結婚した様子もない。改姓するにしても理由が思い当たらないし、だとしたら親の離婚だろうという侘助の予測は当たっていたらしく、一年半前です、と健二がふにゃりと情けなく笑った。
笑うな、と額にデコピンをしてやろうかと思った。
2009年10月12日