シンデレラは数学者
財布から取り出した鍵を鍵穴に差し込む。かちゃ、という音を立てて取っ手を回し、健二は自室のアパートへと帰ってきた。後ろ手に錠をかけてから、ふう、と息を吐いてスニーカーを脱ぐ。いつもなら夕方の帰宅になるけれど、今日は四限が休講だったために昼過ぎという早すぎる時間だ。洗濯を取り入れるにもまだ早いし、とりあえず昼ご飯かな、と肩にかけていた鞄を部屋に放り投げる。アパートは1Kのためキッチンは廊下にあり、背後はトイレとバスルームがそれぞれ独立していて、洗濯機は玄関の入ってすぐ左。オーブンレンジを上に載せている一人用冷蔵庫の前にしゃがみ込み、扉を開けて健二は食材を物色する。とはいっても手の込んだ料理を作るつもりはないので、賞味期限の近い卵とベーコンを選んだ。シンクの下からフライパンを取り出してコンロに乗せる。ベーコンを並べてから朝洗ったままにしておいた箸を握って、ひっくり返した後に卵を軽く台に叩きつけてフライパンに割り入れる。じゅうじゅうと焼けている間にマグカップに麦茶を注いで、それで昼食の完成だ。ベーコンエッグを皿に移そうかと考えたけれども、結局止めた。洗い物が増えるだけだし、食べるのは自分ひとりだし。結局フライパンとマグカップを両手に抱えたまま部屋に移動し、適当なタオルの上にそれを置く。
「いただきます」
両手を合わせて、きちんと挨拶してから箸を白身に差し入れる。一人暮らしなのだから誰が聞いているわけでもないのだけれど、健二は諸々の挨拶だけはちゃんとするようにしていた。三年前、上田でひと夏を過ごしてからの習慣なのだが、決して悪いことではないと思っている。もしゃもしゃと目玉焼きを平らげながら、午後の予定を模索する。洗濯は乾いてから取り込むだけだし、掃除機は日曜日にかけたからいいだろう。冷蔵庫は何が入っているか分からないけれど半分くらい埋まっていたし、先日炊いたご飯は一膳ずつ分けて冷凍してあるから大丈夫。冬物のコートも出してあるし、夏物を片付けるほど洋服は持っていない。うん。ひとつ健二は頷いた。家のことは大丈夫だ。だとしたら次は大学だ。代数学、幾何学、解析学は今のところレポートは出ていない。情報処理はすでに提出済みだし、統計学と確率論の宿題も終わっている。物理と化学も何もないし、英語は佐久間が同じクラスだから協力すればどうにかなるだろう。必修は基本的に課題はなく、学期末のテストかレポートがすべてだから問題ない。サークルには入っていないし、委員会なんてもってのほか。OZ経由でやっている家庭教師のアルバイトも、週に三日だから今日はない。
「・・・やること、ないなぁ」
苦笑しながら頬を掻き、食べ終えたフライパンとマグカップを持って流しへ向かう。簡単に洗って籠に置き、また部屋に戻ってそこらへんに置いてあった雑誌を手に取る。日本数学会が発行しているそれは数学に関する論文や書評が載っていて、健二にとってはテレビ情報誌や女性向けのファッション誌よりも格段に興味のある一冊だ。ぺらり。一度ページをめくれば、何度も読んでいるというのにすぐに意識が数学の世界へと引きずり込まれていく。その後はもう、1Kのアパートはほぼ無音に近かった。
次に健二が現実世界に戻ってきたのは、最後のページを読み終えてからだった。雑誌を閉じ、ふう、と息を吐き出す。くるくると脳内で回る数式や証明に胸を高鳴らせていたところで、部屋の中が薄暗いことに気がついた。思わず時計を見れば、すでに時刻は午後五時を回っている。やってしまった。せっかくの降って沸いた休みが一瞬で終わってしまった。相変わらず数学に没頭すると時間を忘れてしまう自分に肩を落としながらも、せめて洗濯を取り込むために健二は立ち上がる。冷たくなっちゃってるかなぁ、とそんなことを思ったときだった。
ピンポーン、とチャイムが鳴る。洗濯物へと向かうはずだった足取りを、玄関へと転換した。
健二さんの口数の多くなさは、ひとりで過ごす時間の長さによるものだと思います。
2009年10月12日