頻度はそう多くない。少なくとも年に一度は必ず、それでも季節に一度あるかないかの確率で現れるあからさまな蛸壺に、落ちることを滝夜叉丸は己の義務と課していた。常は六年生にだってすぐには気づかせないほど綺麗に気配を消してみせるのに、そのときだけ蛸壺は己の居場所を主張する。製作者が誰だか嫌というほどに知っている。だから今日も滝夜叉丸は、仮初の大地を踏みしめた。





その嘘に愛を込めて





ごおん、ごおん、とヘムヘムの鳴らす鐘の音が聞こえて、滝夜叉丸は空を見上げた。地面を丸く切り取るようにして浮かんでいる青の中を、小さな鳥が横切っていく。もういくつ雲を数えたか、滝夜叉丸自身分からない。すでに午前中の授業はすべて終了してしまったし、胃も空腹を訴えている。朝からすでに結構な時間を過ごしたが、それでも滝夜叉丸は自らこの蛸壺を出ようとは思わない。今回の蛸壺は、今までと比べても大層な深さだった。滝夜叉丸が立ち上がって両腕を空に伸ばしたとしても、地面の縁にすら指先が届かない。建物二階分がゆうゆうと入りそうな深さは、喜八郎の気持ちそのものだと知っている。だから滝夜叉丸は自ら蛸壺に足を踏み入れたし、出ようとすれば出られる穴の中に座し続けるに甘んじている。
「何だ、綾部はまたご機嫌斜めか」
愉快そうな声が降ってきた。顔を上げれば、小さな空の手前に二つの顔が覗いている。深緑の制服は最上級の六年生であり、片方はこの蛸壺の製作者である喜八郎の委員会の先輩だった。仙蔵は涼やかな目元で笑っているが、その隣の文次郎は不可解そうに眉根を顰めている。こんにちは、と滝夜叉丸は蛸壺の中で立ち上がり、頭を下げた。仙蔵が笑った。
「おまえも散々だな、平」
「いえ、そのようなことは」
「優しい先輩が昼飯を持ってきてやろうか」
「有り難い申し出ですが、遠慮させてください。おそらく喜八郎も何も食べていないでしょうから」
答えれば、文次郎がちらりと背後の木を見やった。覆い茂っている葉の中、太い枝の上に喜八郎がいるだろうことを滝夜叉丸も知っている。相部屋の友は、それこそ滝夜叉丸がこの蛸壺を見つける前からそこにいた。以来、動いていないのだから飲み食いもしていないに違いない。この時期の喜八郎を知っているからこそ文次郎は何も言わないし、仙蔵はただ傍観している。
「それにしても見事な蛸壺だな。深いし狭い。見るからに一人用だ。これだけの蛸壺を一晩で掘るとは、さすがは『穴堀小僧』」
ひらりと手を振り、艶やかな髪を漂わせてから仙蔵が離れていく。最後に向けられた文次郎からの視線に、滝夜叉丸は礼を返した。再び穴の底に腰を下ろして、土の壁に背を預ける。蛸壺の中は外よりも幾分か涼しく、湿っぽい。
『穴掘小僧』という喜八郎の通り名は、今より二年ほど前についたものだ。滝夜叉丸と喜八郎はまだ二年生で、同室になって約一年を共に過ごした頃だった。互いに最初は別の相手を宛がわれ、けれどそれぞれに厄介者としてたらい回しをされた挙句、面倒な奴は面倒な奴同士で、といった感じで組まされた相手が滝夜叉丸には喜八郎で、喜八郎には滝夜叉丸だったのだ。規則正しい生活を常とする滝夜叉丸と、好きなときに好きなことをする喜八郎は、互いに干渉をすることなく時間を過ごし、部屋には寝に帰るくらいのものだった。そんな二年生の秋だった。喜八郎が運動場の片隅を、蛸壺だらけに変えたのは。
数は優に百を超え、三百に達しようとしていたらしい。授業にも出ず、食事も摂らず、学園の備品である鋤を握り締めて、一心不乱に蛸壺を掘り続ける喜八郎の姿は、他の生徒たちにとっては気味の悪いものでしかなかった。教師が何を言っても止めることはなく、鋤の柄を肉刺の潰れた血で染めて、黙々と蛸壺を掘り続ける。返された土で喜八郎の姿が見えなくなって、それでもざくざくという音だけが昼も夜も聞こえていた。どうにかしてくれ、と滝夜叉丸も言われた。相部屋だろう、と理屈を述べられ、そうしたのは自分たち教師だというのに勝手なことを、と思った記憶がある。それでも反論することなど出来ず、滝夜叉丸は指示されるままに運動場の隅へと向かった。こんもりと出来上がっていた土の山は、まるで喜八郎の心の堤のようだった。何を言えばいいのかなんて分からなかったし、滝夜叉丸には自分に喜八郎を動かすことが出来るなんて露ほども考えていなかった。だから放課後、ずっとその土の山を見ていた。あまりに盛られ過ぎたためその向こうの喜八郎の姿は全く見えず、ただざくざくという音だけが聞こえていた。月が昇って、夜が来た。滝夜叉丸は立ち上がって声をかけた。
『喜八郎、帰ろう』
ぴたりと音が止まって、耳に痛い静寂が少し続いて、土の山の陰からぴょこっと喜八郎が姿を現した。緩い曲線を描く髪はぼさぼさで、顔も手足も服も何もかもが泥だらけで、彼は初めて滝夜叉丸の名を呼んだ。滝ちゃん。手を繋いで帰り、共に夕食を食べ、風呂に入って寝た。その日からは互いに干渉しあうことにした。滝夜叉丸は喜八郎を起こすことから一日を始め、喜八郎は就寝の挨拶を滝夜叉丸に告げることで一日を終える。
今の三年は幼かったから知らないだろうが、上級生の五年と六年は知っている。喜八郎の『穴掘小僧』という通り名は、決して褒められたものではないのだ。狂ったように穴を掘り続ける精神の可笑しさを揶揄する、そんな意味合いをも含んでいる。そして彼らはまた、喜八郎が今も時折、かつてのようにひたすら穴を掘ることを知っている。引き戻すのは滝夜叉丸の役目なのだということも。
昼食でざわめいていた空気が徐々に静かになり、また鐘が鳴って午後の授業が始まった。滝夜叉丸と綾部の欠席を教師は不審に思っているかもしれないが、それも理由を知ればすぐに得心するだろう。喜八郎の習癖を教師は知っていたし、また匙を投げてもいた。後日、欠席した分の補習を行ってくれるだけましと言えよう。
「何してるんですか、そんなところで」
降ってきたのは、まだ高さを残した幼い声だった。それでもしっかりとした響きを持っていて、顔を上げれば青色の制服が見える。
「三郎次」
「滝夜叉丸先輩ともあろう方が、こんな蛸壺から出られないんですか? 縄梯子を持ってきましょうか」
「いらん、私のことは放っておけ。おまえこそ今は授業中のはずだろう」
「水遁の術の実習でしたから、僕は一番に合格しました」
「そうか。四郎兵衛は?」
「あいつはまだやってますよ」
そうか、と再度頷くと、三郎次の顔が顰められる。けれど説明をする気など滝夜叉丸にはなかったし、未だ幼い彼に喜八郎の起伏が理解できるとも思わなかった。実際に滝夜叉丸とてすべてを理解しているわけではないし、ただ今回のように蛸壺に落ちているときに誰かに関心を示せば、それが喜八郎の暗鬱を更に深めることになるだけは分かっている。
「三郎次、もう行け」
「本当にどうしたんですか、先輩」
「私がここにいることは先生方も知っている」
大したことじゃない、と言って寄せられた心配を和らげるべきなのだろうが、その言葉を木の上にいる喜八郎に聞かれるわけにはいかない。早く行け、と手を振れば、三郎次は眉を顰めたまま去っていった。足音からするに何度か振り向いたのだろう。それでも敏い二年生は、他の同級生たちがこの道を通らないよう誘導してくれるはずだ。心中で礼を告げて、滝夜叉丸は目を閉じた。
太陽が丸い空の上を横切り、放課後がやって来る。そうすると流石に幾人かの生徒が蛸壺を覗き込んでは、それぞれに驚いたり笑ったりをして過ぎていく。中には三郎次のように、縄や梯子を持って来ましょうか、と言ってくれる者もいた。けれど滝夜叉丸は丁重に断り、蛸壺の中に座り続けた。ここからは自分で出ては意味がないし、喜八郎以外の誰かに出されても意義がないのだ。夕焼けがやってきて、空を茜色に染める。蛸壺の中は気温が一定に保たれていて、寒さを感じるほどでもない。
「ああっ! 滝夜叉丸いた!」
うつらうつらと浅い眠気に身を任せていると、どこか泣きそうな声が降ってきた。蛸壺の縁にしがみつくような態勢で紫の制服が覗き込んできている。明るい色の髪の毛が、落ちて土の壁につきそうだった。
「タカ丸さん」
「探したよー! 滝夜叉丸も喜八郎も、二人とも丸一日いないんだもん」
「それは・・・ご心配をおかけしました」
「いいよ、元気そうだし」
にこ、とタカ丸は笑うが、その眉は下がっており、やはりどこか泣き出しそうな表情だった。彼の背後には立っているままの三木ヱ門がいて、冷淡な眼差しで滝夜叉丸を見下ろしてくる。今まで滝夜叉丸と喜八郎の関係に決して口を出してこなかった三木ヱ門がここにいる理由は、間違いなくタカ丸だ。任せてもいい。そう思ったからこそ、滝夜叉丸は辛辣な言葉を黙って受け止める。
「だから放っておけばいいって言ったじゃないですか」
「三木ヱ門」
「滝夜叉丸の馬鹿は、好きで蛸壺に落ちてるんです。綾部の阿呆だって、好きで滝夜叉丸を落としてる。こいつらは救いようのない愚か者なんです」
「そんな言い方」
「いえ、いいんです、タカ丸さん。三木ヱ門の言う通りですから」
肯定すれば、三木ヱ門の表情が歪んだ。空しさと悔しさを混ぜ込んだような顔に、やはり迷惑をかけているのだということを知る。滝夜叉丸にとって、三木ヱ門は真実対等だと認めている相手だった。喜八郎とも、どこか庇護欲を誘うタカ丸とも違う、対等でありたいと願う相手だった。自分が本当に男に生まれていたら、三木ヱ門のようになれただろうか。優秀で、努力家で、少年らしい勇気と無謀さを備えていて、きっと三木ヱ門は彼の両親にとって自慢の息子に違いない。学園できらめく姿を見る度に、滝夜叉丸は羨ましくて仕方がなかった。三木ヱ門のように生まれたかった。だからこそ精進を重ね、彼よりも優れた自分を維持することに努めた。三木ヱ門が自分を超える相手だとして見なしてくれる、そのことが滝夜叉丸の心を安堵させ、女であるという劣等感を薄れさせることに繋がる。
「おまえも綾部もいい加減にしろよ。依存しすぎてて、見てるこっちが苛々してくる」
だからこそこうして罵られることは、滝夜叉丸に僅かの哀しさを与える。木の上の喜八郎もそうなのだろうかと考えながら甘受すれば、三木ヱ門は踵を返した。
「行きますよ、タカ丸さん。夕飯を食いっぱぐれる」
「え、でも・・・」
「私なら大丈夫です。行ってください、タカ丸さん」
また明日、と笑って手を振る。タカ丸は離れがたそうにしていたけれど、三木ヱ門の足音に引っ張られるようにして立ち上がった。どうして、と首を傾げるタカ丸に、きっと三木ヱ門は正しい説明をしてくれるに違いない。信頼している。甘えている。喜八郎とはまた違った形で三木ヱ門に依存している己を、滝夜叉丸は理解している。
「・・・・・・すまない」
声は届いたのだろう。ざり、と砂を蹴る足音が一度だけ大きくなった。けれどそれもすぐに聞こえなくなって、また静寂が戻ってくる。礼を告げるべきだったのだろうか、と滝夜叉丸は星の輝き始めた空を見上げた。
蛸壺の中は、何かを考えるのに相応しい場所だ。周囲は土の遮られ、邪魔するものは何もない。思考を回し始めれば、それはとめどなく回転を続け、人生を最初から滝夜叉丸に思い出させる。喜八郎が穴を掘る理由はそこにあるのだろうと、滝夜叉丸は考えていた。掘り返した土の分だけ、喜八郎は己の陰鬱を蛸壺に詰め込む。そうして昇華しなければ、彼の精神は正常を保てないのだ。滝夜叉丸が三木ヱ門によってでしか、「滝夜叉丸」を保てないように。
「滝ちゃんはずるい」
闇に、夜空に、蛸壺に、響いたのは今日初めて聞く声だった。夜間自習の生徒たちも、今夜はこの近辺を避けているのだろう。喜八郎は大地に正座しているらしく、その膝頭だけが蛸壺の底にいる滝夜叉丸からは見えた。
「滝ちゃんはずるい」
同じ言葉を喜八郎は繰り返す。
「滝ちゃんはお喋りで、自分の自慢や他人を小馬鹿にすることはいっぱい言うのに、一番大切なことだけは絶対に言わない。誰にも言わない」
言えないのだと、きっと喜八郎は知っている。けれどその「一番大切なこと」が何なのかまでは知らないだろう。滝夜叉丸は己が女であることを、誰にも告白するつもりはなかった。失われる自己が、関係が恐ろしい。だけど四年近くも同室していれば、喜八郎が滝夜叉丸の隠し事の存在に気がつくのも当然だ。それだけの時間を共にしてきた。
「私は滝ちゃんのことを、こんなにも愛しているのに」
信頼が喜八郎に穴を掘らせる。無理だと分かっているのに、教えてとせがむ心を堪えるように。蛸壺を掘って滝夜叉丸を落とし、誰にも渡さず拘束することで、喜八郎は友情と特別の安寧を得る。闇が深くなり、顔を上げれば、喜八郎の丸い目が空を遮って滝夜叉丸に降り注ぐ。星と呼ぶには輝きが重過ぎた。
「ねぇ。あんまり私を蔑ろにすると、嫌いになっちゃうよ?」
いつだったか、真田幸村の忍者、猿飛佐助が言っていた。平の姫を攫うには、委員会と同室者をどうにかしなくちゃね、と。戯言のように笑みを混ぜながらも、佐助は明らかに危惧していた。体育委員会の温かさと、喜八郎の執着を。
影が降ってくる。狭い蛸壺の中、鼻先すら触れそうな距離で見つめ合う。喜八郎が「ごめんね」と謝って、滝夜叉丸が「すまない」と万感の意を込めて囁く。そうしてようやく茶番は終了するのだ。二人して蛸壺から出て、風呂に向かって歩き出す。
許容される己に、許容してくれる相手に、滝夜叉丸も喜八郎も甘えている。いつしかこの箱庭を出なくてはならない日が来ることを知っているのに。





あややは嫌いになれないことを知ってて言ってますし、滝もそれを分かっていて謝ります。
2008年12月20日(2009年5月16日mixiより再録)