言い訳するわけではないが、滝夜叉丸は件の真田幸村のことが嫌いではないのだ。自分に言い寄っていた好色爺を退けてくれたことには感謝しているし、『虎の若子』と呼ばれるほどの実力には純粋に尊敬を捧ぐ。少しばかり女性に免疫がなく、帰省の際に訪問されて顔を合わせても交わす言葉はせいぜいが十程度。お世辞にも気心の知れた相手とは言えないが、それでも嫌いでないことは事実だった。かといって好意を抱いているわけでもないが、それでも滝夜叉丸は幸村の実直な性質を好んではいた。炎のような人だと思っていた。





座机から春めいて





くるり、手首を回転させる。それに従って握られている枝も揺れ、僅かな芳香が鼻先まで漂ってくる。花はまだ咲いていない。蕾は僅かに先を綻ばせているだけで、完全に開くまでには後一週間くらいかかるだろう。飾っているその間、花を見る度に自分を思い出してほしいという意を込めてなのだとしたら、彼は自分が思っているよりもずっと趣のある人らしい。けれど桃の花言葉が「気だてのよい娘」と同時に「恋の奴隷」であることを踏まえれば、選んだのはどうしても幸村本人ではなく、その彼の忍び、猿飛佐助の気がしてならない。これくらいの揶揄は当然のように混ぜてくるような相手なのだ。そして何より幸村がこの花言葉を知っていたなら、「破廉恥でござる!」と顔を真っ赤にして叫ぶに違いない。
「珍しいね、滝ちゃん。桃の花なんて」
「喜八郎」
「まだ季節には早いんじゃない? 裏山の桃はまだ蕾もついてないし、どこから切ってきたの?」
後ろから覗き込まれるようにして、肩に顎を載せられる。滝夜叉丸のまっすぐな髪と喜八郎のふわふわの髪が相俟って、少しだけ部屋の寒さが和らいだ気がした。
「人聞きの悪いことを言うな。これは貰い物だ」
「誰に貰ったの? 茶屋の娘?」
「どこの茶屋だ。どうした、今日はやけに絡むな」
「だって滝ちゃん、その桃見つめてもう四半刻」
「そんなに経ったか?」
滝夜叉丸が首を傾げれば、喜八郎はぷくっと頬を膨らませる。まったく意識していなかったのだが、そういえば部屋も僅かに暗くなっているようだ。失態だ、と小さく舌打ちして、滝夜叉丸は立ち上がる。それによって放られることになった喜八郎は、滝夜叉丸が棚の中から小さな花瓶を取り出したものだから更に不貞腐れて畳みの上へと転がる。
「誰から貰ったの」
「別にいいだろう、そんなこと」
「私にも言えない人?」
「喜八郎」
「言わないとその桃、明日の朝にはターコ五十七号が美味しく食べちゃってるかもよ」
「運動場を穴だらけにするなと言っているだろうが。また先生に怒られても知らんぞ」
「大丈夫。今回は三年の長屋の前に掘ってきたから」
素知らぬ顔で告げる喜八郎に、滝夜叉丸は今度こそ肩を落とした。花瓶に水を入れ、そこに桃を挿す。少し傾いたけれども座机の上に置けば、そこだけ一足先に春がやってきたかのようだった。
「滝ちゃん」
「分かった分かった。これは私の実家の知り合いから贈られてきたものだ。今年の冬休み、私たち四年は実習があって帰省しなかっただろう? 顔を合わせることが出来なかった代わりに、文を送ってくださったのだ」
「恋文?」
「まさか」
小さく滝夜叉丸は笑う。読みかけの本に挟んだ手紙は、そんな色艶めいたものではない。幸村の性格をそのまま現したかのように余計な飾りのない、それでいてどこか魅力的な文字で綴られていたのは、滝夜叉丸の日常を尋ねる言葉ばかりだった。元気でいるか、寒いけれど体調を崩していないか。忍者の修行は厳しいのだろう、某には想像することしか出来ないが、決して無理はしないで欲しい。次に会えるときまで自分も研磨に務めるとのこと。文面だけ追えば、それは友人に当てるものと相違がない。けれど最後に記された「会うことが叶わず残念だった」という一文だけがほんの僅かに乱れていて、それだけが幸村の感情の在り処を如実に知らせた。
「返事、書くの」
「ああ。書かなければならないだろうな」
「じゃあ先にご飯行こう。その後はお風呂に入って、滝ちゃんは今日の復習と明日の予習やって、私は先に寝るからその後で書いて」
「はぁ?」
「あ、やっぱり駄目。今書いて。私の前で書いて。私のいないところで書いちゃ駄目」
「何で喜八郎の許可が要るんだ」
「ターコが桃むしゃむしゃ」
「・・・分かった。書けばいいんだろう、書けば」
「私の前でね」
喜八郎の我が道を行く性格には相部屋をしてきた四年で慣れてはいるが、それでも今回は目的が分からない。滝夜叉丸は深い溜息を吐き出して、引き出しを開けて新たな紙を取り出した。幸村が送ってきた上質のものには到底及ばないけれど、今は学生の身であるから許してもらうことにしよう。小筆を手に取り、墨に浸す。喜八郎も文面まで見るつもりはないらしく、ごろりと床に寝たままだ。それでもごろごろごろごろと転がってきて、しまいには正座している滝夜叉丸の腰にぴったりと己の背をくっつけた。
「喜八郎、書きにくい」
「忍耐忍耐」
「まったくおまえは・・・」
何度目かも分からない溜息をついて、試し書きを終えた筆をゆっくりと握りなおす。最初の一文はやはり季節の挨拶から始めるべきだろう。そして文をくれた礼を述べ、今回帰省できなかった侘びを綴る。その後でようやく元気であることと、いくばくかの私事を告げよう。そして最後に幸村の健康と武勲を祈る。桃の花なんて風流なものを見つけるのは難しいから、戦輪にでも結ぶとするか。まぁまず間違いなく幸村に届く前に佐助が外すか、もしくは爆笑して転げ回るかもしれないが。
「滝ちゃん、まぁだ?」
「まぁだ、だ。大人しく夕飯の献立でも考えていろ」
「今日の夕飯は大根の煮物だよ」
「じゃあ三木ヱ門を落とす新作の蛸壺でも考えていろ」
「うん、分かった」
日頃とは少しだけ違う、女性的な「平滝夜叉」の文字を綴りながら、そういえば久しく琴を弾いていないな、と滝夜叉丸は思った。開け放たれた窓から初雪の中に消えていく音と、それと対比するかのように服と目元を赤く染めた幸村の姿。ここしばらく迎えていた正月の慣例が、ほんの少しだけ懐かしい気がした。





ちなみに文は、佐助が学園の外まで取りに来てくれました。
2008年12月8日(2009年1月12日mixiより再録)