「ああそうだ、滝夜叉。三日後に真田様がお見えになるから、よろしくな?」
朝食の席で、平家当主である滝夜叉丸の上の兄がそう言った。途端に歪められた顔に苦笑して、頼むな、ともう一度繰り返す。渋々と頷いた先輩の横顔を、金吾は不思議そうに首を傾げながら見上げた。





僕の大切な女の人です。





「金吾。悪いが今日から三日間、午前と午後の予定を入れ替えるぞ」
朝食を終えて、心地よい太陽の当たる縁側を歩いている途中で、滝夜叉丸が少しばかり眉を顰めながら言った。男性ではなく、本当は女性だったという彼女の本来の名前は「滝夜叉」というらしいが、どうしても金吾は慣れなくて、いつもの委員会のように「滝夜叉丸先輩」と呼んでしまう。滝夜叉丸自身がそれを許したし、学園でぼろが出ないためにもその方がいいだろうと返って勧めてきた。
「入れ替えるってことは、午前中が鍛錬で、午後が勉強ってことですか?」
「ああ。すまないな、私の勝手で」
「いいえ。僕はお世話になってる身ですから、先輩の言うことに従うのは当たり前です」
大丈夫です、と笑えば、滝夜叉丸も寄せていた眉間のしわを解く。この一ヶ月の夏休み、金吾は体育委員会の先輩である滝夜叉丸の実家に世話になっていた。鎌倉の親元に帰るには日数が短く、師匠と仰ぐ戸部は学園の宿直当番にあたっている。夏休みを過ごす場所がなく、これは学園に居残りかと覚悟を決めていた金吾に声をかけてくれたのが、この滝夜叉丸だったのだ。日頃は自信過剰な性格が祟って敬遠されがちな存在だが、委員会での滝夜叉丸を知っている金吾にとっては頼れる先輩のひとりだ。いいんですか、と聞けば、滝夜叉丸は胸を反らして「おまえひとり連れ帰ったところで、我が平家には何の影響もないからな!」と言ってのけた。それはつまり「遠慮せずに来い」ということで、委員会活動で身につけた理解能力をもってして金吾は「ありがとうございます!」と頭を下げた。あのときはよもやまさか滝夜叉丸が女で、名の知れた武家の娘だなんて知るどころか想像もしていなかったのだが。
「しかし三日・・・三日か。ぎりぎりといったところだな。まったく、兄様ももう少し後に設定してくだされば良かったものを」
ぶつぶつと呟く滝夜叉丸は、再び気難しそうな顔に戻ってしまった。けれど学園とは違って下ろされている髪が艶やかで、何より纏っている着物が水色に銀を散りばめた小袖だからか、その様子は美しい少女のものにしか見えない。ほへぇ、と口を丸くして見惚れてしまうことしばし、金吾は我に返って尋ねる。
「あの、真田様って誰なんですか?」
「真田様はお名前を真田幸村といって、甲斐を治める領主、武田信玄様の一の家臣だ。同じく武田様に仕えている平家にとっては家格的に上司、将軍を担っている兄様からすれば同僚といったところだな」
「凄い人なんですね」
「まぁそうだな。お歳は確か十七のはずだぞ。私たちとたいして変わらない」
「その真田様が、どうして滝夜叉丸先輩に会いに来るんですか?」
今度の質問には即答が得られなかった。珍しいと金吾が思っていると、滝夜叉丸が歩んでいた足を止める。喋っている間に部屋まで戻りついてしまったらしい。滝夜叉丸の私室の隣部屋を、この夏金吾は借りている。襖を開ければいつだって滝夜叉丸がいて、そのことがどうも金吾には面映い。
「真田様は、どうやら私に好意を寄せてくださっているらしい」
「へー。・・・・・・って、ええええええ!?」
「女性に免疫のない方だから、女だてらに男を名乗って忍者を目指している私が珍しいのだろう。しかし相手が真田家当主である以上無碍にも扱えないからな。それに」
「ま、ままま待ってください! それって、許婚ってことですか!? 滝夜叉丸先輩、お嫁に行っちゃうんですか!? 体育委員会はどうなるんですか!? 滝夜叉丸先輩以外に七松先輩を止められる人なんていないのに! 次屋先輩の迷子を見つけてくれる人だって、予算会議の帳簿を作ってくれる人だっていないのに・・・っ!」
「・・・・・・何故話がそこまで発展するんだ。やはり金吾、おまえもアホのは組か・・・」
よく聞けば何だか失礼なことを言われた気もするが、動転している金吾は気がつかない。滝夜叉丸は呆れたように溜息を吐き出して縁側に腰掛け、ぽんぽんと隣を叩く。金吾が跳ねるようにして正座をすれば、二人して静かな庭を眺めることになった。表ではなく裏に面している庭は広くはないが、鍛錬をするには十分な空間である。
「私が忍術学園に入学することになった経緯は話したな?」
「えっと、確かどこかから来ていた縁談を断るため、でしたよね?」
「そうだ。この滝夜叉の美しさに虜になった男が、齢十歳にもなっていなかった私を妻にほしいと言ってきたのだ。だが、その男は六十歳を越えている上に酷い好色で、当然ながら平家の誰もが嫌がった。私とてそんな爺に嫁ぎたくはなかったが、相手は家柄だけは良くてな。波風を立たせるのも得策ではなかったから、兄は『妹は学校に通わせると昔から決めていたので』と断ったのだ」
十歳にも満たない滝夜叉丸。きっと大層愛らしかったのだろうなぁ、と金吾は素直思ってしまった。女性だと知ったからか、滝夜叉丸の所作は今まで以上に整って見える。もともと気品のある人だとは感じていたが、それもこの立派な武家に生まれ育ったのならば当たり前なのかもしれない。
「そんな経緯で、私は全寮制である忍術学園に入ることになった。だが、くのいちになることはやはり家族が反対してな。結局はおばあ様に幻術をかけていただき、男と偽って生活することになったのだ」
「今まで誰にもばれなかったんですか?」
「ああ。おばあ様はかつてくのいちとして名を馳せた方だからな」
「どうして、僕には教えてくださったんですか?」
「おまえは信頼できると思ったからだ。武士の名に懸けて、誰にも言わないと約束してくれるのだろう? それに金吾、おまえとは長い付き合いになりそうな気がする」
柔らかく笑んだ滝夜叉丸に、金吾の頬がぼおっと熱を持つ。信頼されていることが嬉しかったし、自分以上に長い付き合いをしている七松や綾部ではなく、己を選んでくれたことが誇らしくて堪らなかった。もちろんです、と声を大にして誓えば、滝夜叉丸は金吾の頭をくしゃりと撫でた。
「真田様は、私が望まない縁談を強いられていることを知って気に懸けてくださったのだ。もとより平家もその男の家も、どちらもが武田様の家臣。武田様の信頼も厚い真田様が一言言ってくださったおかげで、男もあからさまには私に求婚してこなくなった」
「良かったですね」
「ああ。だが、代わりに真田様が度々平家を訪れるようになった。私の帰省に合わせて、夏と冬に一度ずつ。様子見がてら茶を飲み、少し話をして、私は真田様のために琴を弾く。それだけの関係だ」
「でも、真田様は滝夜叉丸先輩のことが好きなんですよね?」
「あの方は偽ることと隠すことが壊滅的に下手だからな。忍者には向かない方だ」
口の端を吊り上げるだけの微笑みはとても静かで、学園での滝夜叉丸からは想像もつかない。しかしそれも束の間、にやりと変化した顔は見慣れたもので、滝夜叉丸は声高々に言い放つ。
「まぁ私としては、私が卒業するまでの後二年の間に好色爺がぽっくりと逝き、真田様に由緒正しくて大人しい可憐な姫君が嫁いでくだされば何も言うことはないのだがな」
ぱんっと着物の裾を払って滝夜叉丸が立ち上がる。朝食も程よく消化されたし、これから昼までは鍛錬の時間だ。いつも委員会でやっているマラソンや塹壕掘りから、今までに習った実技を復習し、これから学ぶ術を予習して、そして金吾は剣の練習をする。滝夜叉丸は戦輪の訓練が一段落すれば、金吾の打ち合いの相手をしてくれる。
「真田様は素晴らしい槍の使い手だが、剣の腕も相当なものだと聞く。お見えになったらおまえの相手をしてくれるよう頼んでみよう」
「いいんですか?」
「もちろん。私も猿飛殿・・・・・・ああ、猿飛殿は真田殿の護衛の忍者なのだが、あの方と手合わせをするのが毎回の楽しみなのだ。相手はプロの、第一線で活躍している忍者。学ぶのにこれ以上の相手はない。しかしとりあえずは、急ぎ琴の腕を取り戻さなくてはならないな」
まったく面倒な。呟いて滝夜叉丸は髪を流して、己の私室へと入っていく。金吾も立ち上がってその隣の部屋へと入った。襖を隔てて、それぞれ汚れても良い鍛錬用の服に着替える。しゅるりしゅるり着物の帯の解かれる音が聞こえてきて、金吾は何故か焦って着替えを済まし、滝夜叉丸よりも早く庭へと降り立った。中天へと昇っていく太陽が眩しくて、瞳の上に手をかざす。真田様とは一体どんな人だろう。そんなことを考えるけれども、すでに金吾の心は決まっていた。三日後、客が来た際には、その真田様とやらが本当に滝夜叉丸に相応しいのか見定めなくてはいけない。何たって尊敬する、大切な先輩なのだ。そんじょそこらの男にほいほいと譲るわけにはいかない。先輩が女の人だって知ってるのは僕だけだし、僕が頑張らないと。拳を握り締めて、金吾は決意を新たにした。
しかし滝夜叉丸は帰省してから毎日、琴の練習を欠かしていない。それは真田の来訪を告げられるよりも以前からのことで、多分そういうことなんだろうなぁと金吾は思う。琴を弾く滝夜叉丸は美しくて、どこからどう見ても金吾には女の人にしか見えなかった。それはまるで、母のような、姉のような、一番大切な人のような、そんな相手にしか見えなかった。





これで滝が卒業間近になったら学園にユッキーが乗り込んできて求婚して、金吾が「必ず幸せにするって約束してください!」って土下座して頼むんだぜ・・・?
2008年12月7日