その首筋にくないを突き刺そうとした瞬間、細く開いた襖の合間から覗く瞳と目が合った。まだ年端も行かない、小さな子供。丸い大きな眼に映る自分の姿が見えたとき、きり丸は得体の知れない衝撃に襲われた。闇よりも深い心の内、悟らざるを得なかった。幸福を喪い、幸福を得て、そしてまた幸福を失う、その、己の道筋を。
世界の何処かで笑って、いて
音を立てて振り下ろされた切っ先は、男の首筋ではなくその下の布団へと突き刺さった。安物ではない、私腹によって厚く拵えられた敷布はくないの半分を飲み込んで受け止める。黄泉へ送られることを覚悟し、命乞いをしていた男が訪れない痛みにか恐る恐る目蓋を開く。その様をきり丸は酷く冷静に見下ろしていた。伸ばし続けてきた髪が彼の肩を流れ落ち、男の夜着へと静かに落ちる。唇を吊り上げると、今度こそ男は「ひいっ!」と醜い悲鳴を上げた。愉快だ。そう思ったきり丸は、額を擦り付けるようにして近く男を見下した。
「親を亡くした子供を食い物にする、おまえの生き方を改めろ」
息を呑んだ気配は屋根裏から伝わった。目の前にいる男を殺すことが今回きり丸に課せられた使命であり、忍者になるために避けて通ることの出来ない実習だった。自ら志願した、望みだった。
「鞭を打って働かせるな。男女問わず犯そうとするな。好色な輩に売ろうとするな。死んだ骸を川に捨てるな」
抜いたくないで、ひたひたと男の輪郭を辿る。目を開けろ、そう命じれば男は恐怖に目を見開いた。脅える目尻から流れた涙は澄んでいて、嘲笑うようにきり丸は武器の切っ先で霧散させる。
「この世のすべての悪事から足を洗え。これからは善行だけを積んで生きろ。少しでも人の道を外れて見ろ。そのときはおまえが今までしてきたすべてのことを、おまえの娘に行ってやる」
驚愕に男の顔が蒼白になった。あ、あ、と呻くような声を上げた後、縋るようにしがみ付いてくる。腕に食い込む力は強い。こんな下種でも娘は大切らしい。他人の子供だからどんな扱いでも出来る、その明確な線の引きようにきり丸は侮蔑を覚える。
「ま、待ってくれ! 何でもする、だから娘だけは・・・っ!」
「おまえが生まれ変わればいい。変わらなければ、娘はこの世の地獄に落ちるだろう。誰とも知らぬ輩に犯され、腱を切られ、逃げられるようにさせられた後に女郎屋へと売ってやる。日がな一日男の相手をし、夢も希望も美しささえ失い、娘は毎日おまえを呪って生きるだろう。死にたい、そう呟いたらおまえの元に戻してやろう。悪行で肥え太ったおまえの前で、爪を剥ぎ、舌を抜き、指を一本一本切り落とす。皮膚を端から徐々に剥き、その下の肉を料理しておまえに食わせてやろうか。だけど目だけは刳り貫かない。最後の最後まで娘の視線はおまえに向けられ、息絶えるまで口は恨み言を綴るだろう。おまえは娘に呪われて、死後も極楽浄土なぞには行けやしまい。永劫地獄を彷徨うこととなる」
「頼む・・・っ・・・娘だけは・・・!」
「願う前に誓えよ。もう悪いことはしないって。娘の未来のためを思えば簡単だろ?」
それでも一瞬瞳を揺らした男の手のひらに、きり丸はくないを突き立てた。馬鹿みたいに甲高い悲鳴を上げて、男は「誓う、誓う!」と何度も繰り返す。溢れ出す血が布団だけでなく畳をも侵食し、きり丸は無感動にそれを眺めた。見苦しい。心底、そう思う。だからこそくないを引き抜いて、男の上から軽く跳躍した。
「っ・・・!」
細く開かれている襖の合間、闇に浮かぶようにして煌めいている目が大きく開かれ、震える。いとけない子供だ。おそらく六歳か七歳、それくらいの年の頃だろう。きり丸が右手で襖を開けば、その全貌が明らかになる。高そうな布地の夜着には花の模様が描かれており、予想通りあどけない顔立ちながらも可愛らしい幼女がそこにはいた。きり丸が唇を歪めれば、子供も呼吸を忘れて立ち竦む。手を伸ばしてその頬に触れれば、子供の父の血がまろい輪郭を彩った。背後から男の縋る声が聞こえてきて、きり丸は殊更優しく子供に告げる。
「聞いてたなら分かるだろ、お嬢ちゃん? これからはおまえが父親を見張らなくちゃいけない。自分の身を守るために、父親が悪事に手を染めていないか、毎日目を凝らして見張ってるといい。おまえが幸せになれるかは、全部父親の生き様にかかってるんだから。忘れんなよ? これがこの夜が現実だったっていう証だ」
子供の小さな手を引っ張り、きり丸はその手のひらにくないを滑らせた。ぷくりと血が盛り上がり、十字が汚れない肌に刻まれる。傷自体は浅いが、忍者の武器でつけられた痕はそうそう消えない。痛みに子供の顔が歪み、引き攣った嗚咽が漏れ始める。その髪を梳き、きり丸は甘く囁いた。宥めるように、娘と父親、その両方に聞こえるように。
「次に俺と会うときは、この世が地獄に変わるときだ。大丈夫、心配すんなよ。おまえたちはただ、平凡に商売をやって、平凡に毎日を過ごして、そして平凡に死んでいきゃいいんだから。難しく考えることなんて何一つ無い」
声を上げて泣き始めた子供に、擦れた呻き声を上げ続ける男に、きり丸は笑った。今度こそは何一つ含みの無い、ただ穏やかな表情で。
「じゃあ、またな?」
そうして彼は、標的の屋敷を後にした。
屋根裏から建物を抜け、木を伝って塀を越す。異変を知った警備の者たちが動き始めた頃には、すでにきり丸は町の中を駆けていた。隣に飛び降りてきた存在が声を潜めながらも器用にきり丸を怒鳴りつけてくる。
「おまえ何やってんだ! 今すぐ戻れ! 今ならまだ先生たちにも言わないでやるから!」
「無理っすよ、能勢先輩。侵入者にはもう気づかれちゃったし、警備も厚くなっちゃって不可能でしょ」
「馬鹿野郎! おまえ分かってんのか!? 今回の実習は・・・っ」
「分かってますよ。分かってて言ってんすよ、俺も」
足を止めなければあっという間に町を出ることになる。久作は言葉を連ねて叱咤してきたが、それでもきり丸は振り返ろうとはしなかった。けれど二股の分かれ道で、学園とは異なる方の道を選ぶ。おい、という久作の声に背中で答えた。
「実習の期限は夜明けまで。まだ時間あるっしょ? ちょっとだけ付き合ってくださいよ」
行動さえしてしまえば、監視役の久作が無視出来ないことも分かっていて、きり丸は夜道を駆けた。月はまだ中天にも達しておらず、空気は痛いくらいに澄んでいる。山の中の獣道を選び、大木を軽く飛び越えて、浅い川はそのまま突っ切り、濡れた装束にも構うことなく寝静まった村を三つほど越えた。何故か疲れるとも思えなくて行き着いた場所は、なだらかな山の裾野だった。原っぱにしては生えている草の丈が短く、木々も少ない。遮るもののないせいか、月光が広く大地を照らしている。おい、とまた久作が声をかけてくる。野を眺めていたきり丸は端的に今立っている場所が何だったかを告げた。
「ここに昔、俺の村があったんすよ」
きり丸が戦で家と家族を焼かれて、天涯孤独の身であることは学園の関係者ならば知らない者はいない。久作とて彼が六年に、きり丸が五年になるまで付き合いを共にしてきているのだ。事情に口を噤むだけの配慮は知人として備えているし、ただ立っているだけの背に眉を顰めるだけの道理も先輩として弁えていた。どうしたものかと惑っている間にきり丸は一歩を踏み出し、野原へと入っていく。足取りはしっかりと言うにはいささかおぼつかないが、それでも弱弱しいというほどでもない。まっすぐ歩いていったかと思うと右に曲がり、しばらく歩いてまた今度は左に曲がる。足を止めて、今度は一歩だけ進める。跨いだのが敷居なのだと、何故か久作には理解出来てしまった。釜戸を見下ろす。板間へ上がる。囲炉裏を眺めて、隣の部屋を覗き込む。決して広くはない範囲を動き回り、きり丸は天を仰いだ。さわさわと草の風に揺れる音が響き、酷く静かで、酷く居た堪れない。
「帰りましょっか」
気がつけばきり丸が隣に来ていて、ぽん、と肩を叩かれた。再び闇の中を走り始める。今度はしかと学園への道を辿っていて、久作は前を行く背に何を話すことも出来なかった。
月がようやく中天を過ぎた頃、二人はようやく忍術学園へと戻ってきた。きり丸が正門ではなく壁を飛び越えて中に入ったため、久作も渋々それに続く。彼らはこの後、実習の首尾を報告する義務があった。けれど、きり丸は任務を達成出来なかった。どうすればいい、と拳を握り締めて考えを巡らせる久作の前で、きり丸が少しだけ振り向いて笑った。暗く、口元しか見えなかったけれども、それは確かに笑みだったのだろう。
「能勢先輩、今まで世話んなりました」
ああ、と言いようのない虚しさが久作の胸を打った。もう駄目なのだ。くそ、と吐き捨てて踵を返す。来年の図書委員長はおまえだったんだぞ、と言いかけて、それは余りに意味のない捨て台詞だと思ったから無言で立ち去った。歩みが、駆け足に変わる。奥歯を噛み締めて久作は報告を待つ教師の元まで走った。
夜はまだ深く、級友たちはみな眠りについている。頭巾を解きながら足の裏の汚れを払って縁側に上がる。戸を引く所作さえ今は音を立てないし、侵入者が慣れ親しんだ気配の持ち主だからか寝ている乱太郎もしんべヱも目を覚まさない。忍者としてこれはどうなんだろうかと今更ながらに考えながら、襖を開いて葛篭を取り出す。私物は少なく、この箱にすべて入ってしまう。けれどそれらを更に選び抜き、これはいる、これはいらないと分けていると、ようやく乱太郎が布団の中で寝返りを打って薄目を開けた。
「きり丸・・・?」
「ん」
「帰ってたんだ・・・・・・おかえり」
寝ぼけ眼を何度か擦り、手探りで枕元から眼鏡を探し出す。眠そうながらも笑顔で迎えられ、きり丸は「おう」と笑い返した。葛篭の中身が空になり、入用なものだけを風呂敷で包めば片腕で抱えられる大きさになる。こんなものか、と失笑したい気分で蓋を被せて、殻の葛篭を押入れに戻せば、起き上がった乱太郎が「何してるの?」と聞いてきた。
「悪い、乱太郎。しんべヱ起こしてくれるか?」
「うん、いいけど。何かあったの、きりちゃん」
「実習の報告、これから先生にするからさ。一緒に聞いてほしいんだ」
今夜きり丸に与えられていた実習がどんな内容なのか、乱太郎をはじめとしたは組の皆が知っている。これから順番に、誰もが体験しなくてはならないからだ。一番手だったきり丸の心の動揺を思ったのか、まだ眠気を残していた乱太郎が目を見開き、分かった、と首を縦に振って隣に眠るしんべヱを起こしにかかる。視線が離れている間に、きり丸は私服に着替えた。脱いだ黒の装束はごちゃごちゃと重ねた不要物の方に分け、それらを持って部屋を出る。しんべヱ、しんべヱ、起きてよ、と乱太郎の声がする。
草履を履いて、縁側に下りた。草の生えていない地面を選んで荷物を置く。持ち歩き用の小さな火種を握りながら見下ろせば、いくつもの私物が並んでいて、そのひとつひとつに纏わる思い出がきり丸の脳裏に浮かんでは消えていく。けれど、もう必要のないものだ。小さく火を起こし、一番上の「忍たまの友」に近づける。一年生から五年生まで、五冊の教科書はあっという間に燃え上がり、他を巻き込んで激しく夜を照らし出す。
「・・・・・・きり丸?」
隣の部屋から顔を出したのは、庄左ヱ門だった。ぱちぱちと音を立てる炎につられてか、四つの部屋の戸が開き、それぞれから級友たちが顔を出してくる。そのどれもが眠そうで、きり丸は思わず笑ってしまった。
「悪い、起こしたよな」
「それは別にいいけど・・・・・・実習、お疲れ様」
「ん。そのことなんだけどさ」
ふたつの気配がとんでもない速さで近づいてくる。おそらく久作の報告を受けた土井と山田だろう。あっという間に現れた二人は強張った表情で自分を見つめてきており、火に照らされる陰影が深く悲しそうにさえきり丸には見えた。人数を数える。縁側に、十人いる。ずっとこの忍術学園で、共に成長してきた仲間たち。導いてくれた教師たち。家族みたいだと、思っていた。だからきり丸は言わなければいけなかった。
「俺、殺せなかった。多分ずっとこの先も、俺は人を殺すことだけは出来ないって分かった。だからさ、忍術学園も今日限りで辞めるよ」
目を見開いて息を呑んだ級友がほとんどだったけれども、喜三太としんべヱは眠そうなままで話が届いていないだろう。相変わらずだなぁ、なんて笑うほどの余裕さえも何故かきり丸にはあったのだ。
「金吾、乱太郎。喜三太としんべヱを起こしてくれねぇ? 別れの挨拶くらい、ちゃんとしたいし」
「きり丸! 何で・・・っ」
「駄目なんだよ。殺せなかった。分かっちゃったんだよなぁ。俺は、忍者にはなれないって」
乱太郎が、ようやく目覚めたしんべヱが、まるで我がことのように痛みを堪える顔になる。それでも口にした事柄はきり丸にとっての真実であり、まるで天啓のように、それでいて宿命のように、突然啓き理解せざるを得なかった真理なのだ。きり丸という人間は、人を殺すことが出来ない。忍者になるため学び始めて五年。覚悟も諦観もしていたというのに、今更ながらに気づいてしまった。きり丸という人間は、人を殺すことが出来ない。それは間違いなく、彼の過去に由来する。
「実習先の屋敷にさ、子供がいたんだ」
庄左ヱ門と伊助が眉を顰める。それでも静かに聴いてくれる彼らに、きり丸はつい先ほどの光景を思い出していた。細く開いた襖から覗いていた、無垢な瞳。
「俺の殺すはずだった相手は、戦で親を亡くした子供を引き取って養育している裏で、暴力を振るったり犯したり売りさばいたりしてる最悪な奴だった。こういう奴は俺も知らないわけじゃなかったし、何人も見てきてたから、簡単に殺せると思った。本当に殺せると思ってたんだよなぁ。だけど寝室で、標的に跨ってくないを振り下ろそうとした瞬間に、襖が開いたんだ。気配には気づいてた。見られる前に殺せると思ったし、見られたらそいつも殺せばいいと思った。だけど」
団蔵と虎若が拳を握り締めている。振り下ろすためではない、遣る瀬無さを堪えるためのそれであることを知っている。無垢な瞳に映った自分は、最もなりたくなかった形をしていた。そう認識した瞬間、愕然とした。
「俺、父さんも母さんも死んで、昔からアルバイトとか山ほどしてきたしさ、世の中のこととか普通の子供とは違った面から見てきて、だからやれるって思ってた。忍者になる以上誰かを殺すことは避けられないし、正直、殺すことは難しくないって思ってた。世の中は甘くねぇし、誰だって自分が一番なんだからさ、いざとなれば誰だって殺せると思ってた。それなのに」
兵太夫と三治郎が唇を噛み締めている。眼差しに乗せられているのは怒りと悲しみで、きり丸自身それを当然のように受け止めている。本当に愚かとしか思えない。五年の月日が、あの一瞬に負けたのだ。
「それでも、分かっちゃったんだよなぁ。俺に人は殺せない。生きるためなら何だって出来ると思ってたのに、そうじゃなかった。殺すより殺される方がいいなんて言わないし言えないけど、それでも殺せないんだ。殺せない。俺は人を、殺せない」
金吾と喜三太が夜着の袖で目元を拭っている。流される涙が嬉しいけれど申し訳ない。それでもきり丸は気づいてしまったのだ。何時の間にか胸の奥底に息吹いていた、己自身の本心に。願いに。
「俺がこいつを殺したら、この子供はどうなるんだろう。俺と同じように、ひとりで、生きていくのかもしれない。そう思ったら殺せなかった。殺されて当然のことをしてる奴なのに、殺した方が世の中のためだって分かってたのに。それでも俺は、殺せなかった。この子供が、俺みたいになるのかと想像したら、殺すなんて、出来なかった」
土井が、山田が、沈痛に面持ちを変える。そう、想像してしまったら駄目だった。殺すなんて出来なかったのだ。殺すなんてそんなこと、そんなこと。
「なぁ、誤解しないでくれよ。俺、今すごく幸せなんだ。忍術学園に入って、みんなと会えてさ? アルバイトは忙しかったけど充実してたし、本気で忍者を目指してた。朝起きれば隣に乱太郎としんべヱがいて、食堂でおばちゃんの温かい飯食って、午前の授業では土井先生にチョーク投げられて、午後の実習では山田先生に怒鳴られたりして、放課後はみんなで遊んだり鍛錬とかしたりして、委員会とかで先輩や後輩と知り合って、校外学習だって楽しかったし、心底『嫌だ』って思うことはひとつもなかった。俺、すげえ幸せなのに。それなのにさ」
口が、動かない。息を吸い込んで吐き出して、唇を解こうとすれば震えてしまう。浮かべている表情は笑顔であるというのに、きり丸の頬を涙が伝った。視界がぶれてしまう。すべて目に焼き付けておきたいと思うのに、目蓋の裏には浮かんでしまった。本当はずっとその影があった。忘れた振りをしていた。忘れたと思っていた。だけど、ぽろりと、思い出してしまった。無垢なる瞳を前にして、自分の姿をその中に認めてしまった瞬間、分かってしまったのだ。
「・・・っ・・・父さんと母さんが生きてたら、俺も、こんな風に生きなくてよかったのかもしれないと思ったら、もう殺すなんて出来なかった。俺はこんなにも幸せなのに、それでもやっぱり、父さんと母さんに生きていてほしかったから。一緒に、生きたかったから。だから俺が、誰かの家族を奪うなんて、そんなことは出来ない。俺は今、幸せだけど、それでも幸せじゃなかったときも確かにあったから。死にたいって思ったときも、あったから。だからそんな思いを俺が誰かにさせるのかと思うと、例えどんな外道だろうと殺すことなんて出来ない」
馬鹿だよなぁ、今更気づくなんて。呟いて、それでもやっぱりきり丸が浮かべたのは笑顔だった。焼け焦げた両親だったものを前にして、本来ならば泣くべきはずだったのに真っ先にしたのは嘔吐。触れて崩れた肉は忘れられない。裸足で山を越え、寒さに堪えきれず土を被り、草を食べては吐きを繰り返し、辿り着いた人里では空腹を堪えきれず畑の野菜を盗んだことさえあった。軒下で眠れれば恩の字、馬小屋の藁は最高の寝具。働いて飯が貰えることに気づいてからは、日々を食いつなぐためだけに時間を費やした。いつしか人の機微を読むことに敏くなり、どうすれば殴られないのか、叱責されずに駄賃を貰えるのか、そんなことばかり上手になった。夢や希望なんて、そんなものは知らなかった。ただ食べ物を得るだけで精一杯で、それだけが生きることなのだと思っていたのだ。今でも夢に見ては涙を流して目を覚ます。酷い孤独だった。心から笑うことなんて忘れていたし、そうして生きていくことが当たり前なのだと思っていた。決して幸せではなかった。今か幸せだからこそ言える。自分のような生き方を誰かにさせてはいけないのだと、心の底から思う。だからこそきり丸は、握り締めていた武器を手放したのだ。
「俺は、俺が誰かを殺すことで、俺みたいな子供を作りたくない。だから誰も殺さない。忍者にはなれない」
「・・・・・・忍者と一言で言ってもいろんな種類がある。何も暗殺だけが仕事じゃないぞ」
「分かってますよ、山田先生。だけど殺せないってのは致命的でしょ。特に俺は自分で言うのも何だけど、忍者のすべての素質に秀でているから。だからこそ、殺せないってのは致命的過ぎる」
「やだよ、きり丸! 一緒に卒業しようって言ったじゃない」
「ごめんな、しんべヱ。だけど忍者になれないって分かった以上、俺はもうこの学園にはいられない。学費だって馬鹿になんねぇし」
「こんなときまでケチになるなよ!」
「ドケチの何が悪いんだよ、団蔵。時は金なりって昔から言うだろ? それに俺が学園にいたら、多分おまえたちも辛くなるし、俺だって辛い。実習に行くおまえたちに殺すなとは言えないし、かといって何食わぬ顔で送り出すことも出来ない。おまえたちは忍者になる。だったらやっぱり俺は、おまえたちの傍にいない方がいい」
誤解しないでくれよ、ときり丸は涙を拭った。
「俺は殺せなかったけど、殺すおまえたちを悪いなんて言うつもりもない。殺せたから凄いとか、殺せないから偉いとか、多分そういうことじゃないんだ。そいつの過去とか意志とか、そういうのが行動を決めるんだ。その点で俺はもう忍者になれない。だから、学園を去らなきゃいけない」
足元でようやく不要物が墨と化し、最後の小さな燃えかすを足で均そうとして一瞬惑い、けれどもそうした。はぁ、ときり丸は大きく息を吐き出す。目蓋が重く腫れぼったい。申し訳ないと心底思うけれど、それでも恥ずべきことなく顔を上げられるのは己の決断が正しいと心が頷いているからだろう。いずれ悔やむ日も来るかもしれない。だけどきっと、今この瞬間の決断は正しいのだ。過去が辛かったから、そんな誰かを増やさないために、出来ることをする。間違っていない。だからこそ自分は笑えるのだと、きり丸は気がついた。
「・・・・・・私の長屋を使いなさい。休みには帰るし、あの町ならアルバイトもすぐに見つかるだろう」
「駄目っすよ、土井先生。俺はもう選んだんだから、自分の道は自分で切り開かないと。そうやって生きることを、俺は選んだんすから」
わざとらしく吊り上げられている眉が、悲しみを隠すためのものなのだと知ったのは幾分か昔のことだ。世話になった。だからこそ恩を仇で返すようなことになってしまい、申し訳ない。ありがとうございました、ときり丸は二人の教師に向かって深く深く頭を下げた。そして、大切な級友たちに向き直る。誰もがみな泣きそうな顔をしていて、実際にしんべヱや金吾、喜三太は泣いていた。そのことが面映くて、まだ友だと思ってくれているのだと嬉しくなって、きり丸は幸せだった。
「庄左ヱ門、みんなのこと頼むな。伊助も、庄左ヱ門のこと支えてやって」
懐かしい。日々が蘇る。十歳から五年、笑い、怒り、時に涙し、共に過ごした。
「兵太夫、からくりは程々にしろよ? 三治郎はちゃんと兵太夫を止めてやること」
幸せだった。だからこそ手放す。大きな対価だ。それだけのものを望む。
「喜三太はなめくじの世話をちゃんとやれ。金吾、おまえが剣豪になるの、楽しみにしてっから」
家族を喪い、家族を得た。そして家族を想うために、家族を手放す。それでいいのだと、納得している。大丈夫。
「団蔵と虎若は部屋をきちんと掃除しろ。虫なんか発生させないように」
思い出がある。心がある。気持ちがある。だから大丈夫、未練はない。
「乱太郎、しんべヱ。・・・・・・元気でな」
それでも声が震えた。きり丸。名は呼ばれたけれど、手は伸ばされない。それは、信頼の証だと受け取っても良いだろうか。選んだ道を、友がそれを望むなら祝福すると、送り出してくれるのだと思ってもよいだろうか。中途半端に終わってしまう五年間で得られたものは、まず間違いなく、この奇跡のような友人たちだ。世界なんて残酷なものだと感じていたきり丸に、そうではないのだよと教えてくれた。だからこそ今、きり丸はこうして命を紡ぐための選択をすることが出来ている。すべてが、みなのおかげだ。言葉では表しきれない。感謝が心を溢れる。ありがとう。言葉は声にならなかった。
足元の風呂敷を持ち上げる。姿勢を正す。伸びた身長。長くなった髪の毛。形作るすべてのものを忘れずに収め、きり丸は意識して唇の端を吊り上げた。どうせ最後になるならば笑顔がいい。これからずっと覚えていてもらえるように。そういえばあんな奴もいたっけ、と思い出されるときはいつだって笑顔であるように。
「じゃあ俺、行くわ」
「きり丸っ!」
足を動かせば、乱太郎としんべヱが転がるようにして縁側から飛び降りた。無視するなんて出来なくて、けれど腕を掴まれたら立ち止まってしまいそうだったから、きり丸は地面を強く蹴って塀の上へと降り立った。これすら忍者になるために習得した技法なのだと思えば、少しばかり泣きたくなってしまう。だけどこれからは、違うことのために役立てたい。見下ろした顔は月光の中、どれも涙に歪んでいた。
「馬鹿だなぁ、何で泣くんだよ。生きてりゃ数年後にでも町でばったり出くわすかもしれないぜ? それまで生き残るのが、俺とおまえたちとの約束だ。守れよ、絶対に」
「っ・・・・きり丸こそ、絶対に守ってよ!」
「死んだりなかしたらただじゃおかないから!」
「ん、約束する」
笑って、級友たちに、恩師たちに、手を振った。
「またな!」
そうしてきり丸は、温かかった場所に背を向けて駆け出した。慣れ親しんだ、第二の家族と別たれて、ひとり。
足が、酷く重い。それでも駆けなくてはいけない。息がすぐに切れ始める。それでも走らなくてはいけない。何度も歩いた山道を下るのも、これできっと最後になるだろう。きり丸は馬鹿みたいに走り続けた。強く唇を噛み締めて、遠き日の父に問いかける。
「父さん・・・っ・・・俺、これで合ってるよな? 間違ってないよな? ちゃんと正しい道、選べてるよな・・・っ?」
足がもつれて転びそうになる。それでも草木を飛び越えて、一足飛びに町も過ぎる。どこまで行こう。どこまで行けばいい。そんなものは分からなくて、記憶の中の母に問いかける。
「馬鹿みてぇだけど、せっかく手に入れた場所だったけど、だけどしょーがねぇじゃん! 俺、馬鹿だから! だから仕方ねーよな、母さんっ! 守りたいって思ったこと、間違ってねぇよな!?」
零れだした涙が今度は大粒となって頬を濡らし、風に攫われて散っていく。大丈夫だ、きり丸はそう強く心で叫んだ。五年間、学んできた知識がある。心の在り処も、今後の決意もすでにある。働くことは昔から得意だ。今度はちゃんと、自分のために、明日のために生きられる。乱太郎の、しんべヱの、土井の、山田の、庄左ヱ門の、伊助の、団蔵の、虎若の、兵太夫の、三治郎の、金吾の、喜三太の、かけがえのない彼らの顔を思い出せば何だって出来る気がする。そうだ、何だって出来るのだ。
自分には、足がある。腕がある。身体があり、頭脳がある。何も恐れることなどない。自分は、負けていない。投げ出していない。諦めてもいない。逃げ出してもいない。きり丸は走った。息が切れて、疲れ切っても、それでも走り続けた。戦いが終わったわけじゃない。何が終わったわけでもない。だって自分は今、駆けている。どこまでも行ける。力の限り、最後まで。走って、走って、走り続けて、それこそ地の果てまででも行けるのだ。この身、ひとつさえあれば。
「―――俺は、生きるっ! ぜってぇ生き延びてやる!」
きり丸の誓いが、山々にこだました。東の空から朝日が顔を出す。黄金色の祝福の道が、ひとりの少年の前に拓かれようとしていた。
殺せないきり丸。このお話が当サイトにおけるきり丸の基本となります。
2009年2月1日