知っております、存じてますとも。わたくしは所詮、あの方の衣でしかありませんこと。その内に秘められている真を覆う、薄い偽りの膜でしかないこと。知っております、存じてますとも。それでも良いのだと申し上げているのです。わたくしはあの方を守る鎧のひとつ。それでも大切にされていると分かってますから、この身は得がたく幸せなのです。知らないのですか、存じないのですか。わたくしが隠す、あの方の本当のお姿を。





あなたのまこと





今日も今日とて裏山を二つ越えたところまでマラソンに行った体育委員会の帰り道、ぴたりと滝夜叉丸が足を止めたため、彼に背負われていた金吾も自動的に動きを止める。どうしたんですか、と問いかけようとすると、校舎に沿うようにして生えている茂みのひとつが音を立てて揺れ、思わず身体を震わせてしまった。きっとその反応は滝夜叉丸にも伝わっただろう。びくびくしながら紫の制服に包まれた肩にしがみ付いていると、一際大きく茂みが揺れる。鎌をもたげるようにして現れた毒々しい蝮に、今度こそ金吾は声にならない悲鳴を上げた。
「何だ、じゅんこか」
「ななななな何だじゃないですよっ! それ、伊賀崎先輩のペットの毒蝮じゃ!」
「落ち着け、金吾。むやみに騒げば逆に攻撃されかねん」
その言葉に、金吾はぴたっと口を噤んだ。滝夜叉丸が腰を屈めて、降りるように促してくる。地面に足をつければ途端に蝮との距離が近くなって、金吾は滝夜叉丸の後ろに隠れた。委員会活動で体力はもう底を尽きている。襲われたら逃げられるかどうか。本当はまだ背負っていてもらいたかったけれど、流石にそんなことは口に出来なかったので、金吾は滝夜叉丸の制服をぎゅっと握り続けた。そんな金吾の様子を知ってか知らずか、滝夜叉丸はしゃがみ込んだままじゅんこに視線を投げかけている。体内の毒に相応しい禍々しい赤い鱗が輝いていて、長い舌がなめずるように現れては消えた。
「どうした、じゅんこ。伊賀崎とはぐれてしまったのか」
滝夜叉丸が、さも当然のようにじゅんこに話しかける。蝮の黄金の目も、じっと滝夜叉丸を見上げていた。
「そうか。伊賀崎もきっとおまえのことを必死に探しているだろう。私と共に来てくれないか?」
「滝夜叉丸先輩!?」
「危害は加えないと約束しよう。大丈夫だ、必ずおまえを伊賀崎のところへ帰してやる。だからおいで」
何を言っているんだろうと金吾は制服の背を引くが、滝夜叉丸は逆に地面へと腕を伸ばす。手のひらを返して蝮の口元へと近づけ、後は向こうからやってくるのを待つ体勢だ。無理です、と金吾は訴えようとした。生物委員の三治郎と虎若から聞いている。じゅんこは飼い主である伊賀崎孫兵にしか懐かず、他の輩が近づけば牙を見せて抵抗するという。その毒が全身に回れば後は死を待つばかり。滝夜叉丸先輩、と金吾は袖を引こうとして息を呑んだ。
しゅるりと、赤く滑らかな姿態が地を這って伸び上がる。僅かに傷のある、それでも白い手を伝い、見る間に二の腕を通過した。寄越された黄金の目に、金吾がびくりと手を放す。じゅんこはそのまま一度二度と首に巻きつき、己の居場所を定めたかのように頭を伏せた。あたかも孫兵に対するときと同じように、彼女は滝夜叉丸の首を彩る。いい子だ、という囁きが酷く甘く金吾には聞こえた。
「金吾」
「うえっ!? は、はい!」
「私は伊賀崎にじゅんこを帰してくるが、ひとりで長屋まで戻れるか?」
問われて、金吾は言葉に詰まった。戻れるかと聞かれれば、確かに大丈夫だと答えられるだろう。体力はもうなけなしだけれど、部屋に辿り着くくらいは可能だからだ。それでも金吾はどうしてか、今の滝夜叉丸をひとりにしてはいけないと思った。じゅんこの毒を気にしているわけではない。確かにそれもあるけれど、目を離してはいけないと思ったのだ。先の滝夜叉丸はまるで、毒蝮と会話をしているかのようだったから。
「・・・僕も、行きます」
「そうか。ならば急ぐぞ。おそらく生物委員が総出で探してるだろうからな」
差し出された手を一瞬惑ってから握った。ちょろっと出ては消えるじゅんこの舌が気味悪い。それでも毒蝮を首に巻きつかせている滝夜叉丸は至って変わらない表情をしていて、だから大丈夫と自分に言い聞かせて金吾は歩いた。
金吾の願いが叶ったのか、それとも生物委員の必死な祈りが通じたのか、「じゅんこー!」という孫兵の半分以上泣きの入った呼び声が聞こえてきたのは飼育小屋までまだ結構な距離のある校舎裏だった。がさがさと茂みを割る音が聞こえてくるが、今度はその相手が分かっているからこそ金吾も安心して声をかけることが出来る。
「伊賀崎先輩、こっちです!」
呼べば、いっそうと茂みを掻き分ける音が大きくなった。あっという間に近づいてきて、草木の中から孫兵が現れる。いつもは整っている白皙の顔が情けなく歪んでいたけれども、じゅんこの姿を見止めて喜びに変わる。しかしそれも一瞬のことだった。孫兵の表情が硬く強張り、雰囲気が刺すような剣呑なものに変わる。え、と金吾が反応する前に、握っていた手が解かれた。額を押されて一歩後ろに下がると同時に、滝夜叉丸が前に出る。見えるのは紫色の制服の、慣れた後ろ姿だけだった。
「・・・・・・じゅんこを、返してください」
孫兵の声は泣きそうだった。先ほどの情けないものとはまた違う切実なものに聞こえて、金吾は訳が分からず動けなくなる。どこかでまだ捜索中の生物委員が、じゅんこの名を呼んでいる。
「滝夜叉丸先輩、じゅんこを、返してください。じゅんこは僕のペットです」
「分かっている」
「返してください。他のどの子だって、嫌だけど、それでもどの子だって構いません。だからお願いです。じゅんこは、返してください。僕のペットなんです。じゅんこは僕が、僕は、じゅんこがいなきゃ駄目なんです。お願いです、じゅんこを返してください。滝夜叉丸先輩」
「伊賀崎」
「お願いです。僕にじゅんこを、ください」
どうしてこんなに懸命に、縋るように孫兵が訴えるのか金吾には分からない。じゅんこは孫兵のペットであるはずで、間違っても滝夜叉丸の持ち物ではないはずだ。それなのに、目の前の現状は何だろう。じゅんこは滝夜叉丸の首に巻きついたまま、孫兵の存在がすぐ近くにあるというのに動こうとしない。分からなかった。それでもゆるりと手を持ち上げ、指先で毒蝮を撫でた滝夜叉丸の後ろ姿は、まるで初めて見る人のようだった。
「起きろ、じゅんこ。間違えるな。おまえの主はこの滝夜叉ではなく、伊賀崎孫兵だ。―――忘れるな」
最後の言葉が、脳裏を揺さぶるように強く響いた。くらりとたたらを踏んだ金吾の視界で、ようやくじゅんこが頭を持ち上げる。しゅるしゅると胴が動いて、尻尾が滝夜叉丸の黒髪をさらっていった。完全に消えた姿は、腕を伝って孫兵へと渡ったのだろう。じゅんこ、という孫兵の呟きは擦れていた。少しして、砂を踏みしめて踵を返す音がし、孫兵の気配が遠ざかっていく。金吾の前には、まだ滝夜叉丸の背中しかない。首筋がいつもと同じなのに何故か寒そうに見えて、声をかけてよいのか戸惑う。手を上げて、一度握りこんで、それでも掴もうと指を伸ばした。
「あれ、平?」
「竹谷先輩」
制服に触れるよりも先に、孫兵が去ったのとは別の方向から青紫色の制服が現れた。金吾も振り返れば、生物委員会の委員長代理を務めている竹谷八左ヱ門がいて、頭に葉っぱをつけていることから彼もじゅんこを探しているのだろう。不思議そうに目を瞬いていたが、すぐに何かを察したのか「あちゃー」と呟いて頬を掻いた。
「もしかしてじゅんこ、おまえのところに行ったか?」
「来たわけではありません。たまたま私が見つけただけで。・・・・・ですがやはり、手を出すべきではありませんでした」
「悪い。孫兵もおまえが嫌いなわけじゃないんだよ。単に心配なだけなんだ。分かってやってくれ」
「もちろんです」
近づいてきた竹谷は眉を下げて苦笑し、ぽんぽんと滝夜叉丸の頭を撫でた。小平太以外に滝夜叉丸に対してそんなことをする人物を初めて目にしぽかんとしていると、彼は金吾に向かっても歯を見せて笑う。すみません、と滝夜叉丸はもう一度謝罪した。
「ですが、もう大丈夫でしょう。じゅんこには言い聞かせておきました。あれはもう伊賀崎の傍を離れることはありません」
「・・・・・・ごめんなぁ。おまえのせいじゃないのに」
「いえ」
滝夜叉丸が腕を高く掲げて、ひらりと旋回させる。どこからかやってきた綺麗な蝶が四匹、その指先に競うようにして止まった。竹谷が「花子に花男、ジュンとネネ!」と名を呼んだことから、きっとその蝶たちも生物委員で飼っている毒虫なのだろう。どうぞ、と滝夜叉丸が差し出せば、竹谷は肩から引っさげていた籠に四匹を移した。しっかりと蓋をして、また滝夜叉丸の頭を撫でる。今度は強い力でがしがしとやるものだから、見る間に滝夜叉丸の黒髪はぼさぼさになってしまった。金吾が呆然と見上げていると、竹谷は「ありがとな!」と言って走り去っていく。その向かう方向は、先ほどの孫兵と同じだった。校舎裏に、金吾と滝夜叉丸だけが残される。
何だろう。よく分からない。おとなしかったじゅんこも、泣きそうだった孫兵も、労わるように笑った竹谷も、惹かれるように現れた毒蝶も、そして何よりすべてを当然のように受け止めている滝夜叉丸も。人在らざる何かを見たような気がした。それでも金吾の前にいるのはいつも体育委員会で自分たち後輩を気遣ってくれて、委員長の七松を引き止めてくれる、頼れる存在だったから、手を伸ばすことに躊躇いはなかった。指先同士が触れた瞬間に少しの動揺を見てしまったけれど、気づかない振りして握り込む。
「滝夜叉丸先輩、帰りましょう」
一緒に、と手を引けば、ようやく滝夜叉丸が振り向いた。そうだな、と返してくれる言葉が嬉しい。何が何だか分からないけど、金吾にはそれで十分なのだ。真実の姿など知らなくても、大切にされていることは十分に分かっているのだから、それだけで幸せだ。強く金吾は滝夜叉丸の手を握った。放さないように、離れないように。





滝夜叉姫:平将門の娘。一族郎党滅ぼされ、怨念を篭めて丑三つ参りを繰り返した結果、妖術を授かった美しい姫君。髑髏や大蜘蛛を操ったとされる。
2009年1月12日(2009年8月15日mixiより再録)