師走も半ばを過ぎて、寒さは一段と厳しさを増してきている。夜ともなればそれは凍えてしまうくらいで、忍術学園の誰もが早々と布団にもぐりこみ就寝することを常としていた。低学年は同室の者同士で布団をくっつけあって暖を取り、高学年ともなれば勝手に火鉢やら何やらを部屋に持ち込んでいる。四年い組の長屋の一室、滝夜叉丸と喜八郎の部屋もそれと同じで、彼らは湯たんぽを用いることで寒さをやり過ごしていた。喜八郎は作法委員の後輩に囲炉裏を作らせようとしていたが、長屋の部屋は学年が変わると同時に移らなくてはならないのだから止めておけと滝夜叉丸が諭し、互いが譲歩しあった結果、二人の布団の間に距離はない。ぬくぬくと温かな眠りについている、日付も変わったそんな夜更けのことだった。
「四年の平滝夜叉丸! 田村三木ヱ門! 綾部喜八郎! 斉藤タカ丸! 今すぐ来なければおまえたちの部屋はこの立花仙蔵によって火と灰と化すだろう!」
がばっと布団を跳ね除けたのは、もはや条件反射だ。夜着のまま滝夜叉丸と喜八郎は板張りの冷たい廊下を駆ける。六年い組の長屋につく頃には、その足音も四つに増えていた。





酔狂佳人





その部屋は混沌だった。学園一忍者している男、潮江文次郎。怜悧な美貌と策略が売りの、立花仙蔵。忍術学園でも知らない者がいないだろう二人の部屋に、今は大勢の人間が集まっている。六年の中でも特に優秀で、前述の二人ともつるんでいることの多い七松小平太、中在家長次、善法寺伊作、食満留三郎。己の所属する体育委員会の委員長でもある小平太に「遅いぞ、滝夜叉丸!」と叱咤されても、曖昧に頷くことしか出来ない。滝夜叉丸の視線は車座を組んでいる彼ら六人ではなく、その手の中に注がれていた。盃がある。小さな、手のひらにいくつも載ってしまいそうな普通の大きさの盃だ。けれど畳みに転がっている銚子の数は尋常ではなく、彼らはすでに樽から直接酌んでいる。濃厚な酒気に当てられそうになり、滝夜叉丸は僅かに眉根を顰めた。部屋に入るには恐れ多く、廊下で正座をしながら、三木ヱ門は部屋の奥で山となっている塊を遠い目で眺める。一番手前に見えるのは、会計委員の後輩である神崎の姿だ。自分たちからしてみれば目障りな三年が六人、その下の二年が四人、そして一年は組の全員がごろりと転がされている。導かれる推測は嫌なものでしかなく、三木ヱ門は目を逸らしたくて仕方がない。
「芸、ですか?」
首を傾げて尋ね返したタカ丸は、四年生四人の中でただひとり温かい半纏を着込んでいる。仙蔵の学園中に響くかのような呼び出しに、半纏を着るだけの時間を費やしてから応じたのだと考えると、大物か、それとも余程の愚か者か。たぶん後者だろうなぁ、と喜八郎は夢うつつに考える。タカ丸は編入生故に、仙蔵を含めた六年六人の恐ろしさをまだ理解していないのだ。いつもなら下級生のそんな行動に熱いお灸を据えるるだろうに、今は随分と酒が入っているのか、仙蔵はつまみの塩を掬って命じる。
「ああ。せっかくの忘年会だ。可愛い後輩たちに楽しませてもらおうと思ってな」
忘年会だったのか。並ぶ酒樽と、自分たちより先に犠牲になっただろう潰れている三年以下を見やって、滝夜叉丸たちはあからさまに顔を歪めた。炙った干物を上下に振って、伊作が笑いかけてくる。
「せっかく寝ていたところをごめんね。だけど四年生は綺麗どころが多いから、面白そうだと思って」
「ああ、笑いは取らなくていいからな。そういうのはもう十分だ」
「そうそう! 滝夜叉丸たちは本格派しか認めないから!」
食満は後輩たちに甲斐甲斐しく布団をかけてやっている。高らかに断定した小平太は両手に饅頭を抱えているし、長次ですらこくこくと頷いている。
「忍者たるもの『味の濃淡を問わず品の多少を選ばじ』だが、みっともない芸を見せてみろ。田村ぁ、明日の会計委員会は地獄と思え!」
「は、はいっ!」
盃を放そうとしない文次郎の言葉に反射的に返事をしてしまったけれども、地獄の委員会は常のことなのであまり変わらないんじゃ、と三木ヱ門は心中で泣きそうになった。けれどこの忍術学園で先輩に逆らうことは、仁義がもとより実力的に許されない。ちらり、ちらりと互いに目線だけで思惑を交わし、ついに滝夜叉丸が代表して口を開いた。
「・・・・・・支度をしますので、少しお時間をいただけますか?」
うむ、良いだろう。殿様口調で仙蔵が許可した。すごすごと四年生たちは寒い廊下から立ち上がり、自分たちの長屋へと戻っていく。

時間にすれば、決して長くはなかった。しかし自分本位な六年生たちにしてみれば遅いと思い始めるぎりぎりの時間で、さすが四年の間付き合いを共にしてきただけのことはある時機に三木ヱ門が戻ってきた。「お待たせしました」と言って襖を開いた彼は一張羅と見られる着物に身を包んでおり、正座しているその膝の上には横笛を抱えている。小鼓を持っているタカ丸もきらびやかな私服を纏い、三木ヱ門とは反対側の廊下に腰を下ろしていた。滝夜叉丸と喜八郎の姿はない。臨む長屋の中庭から入ってくる夜風が冷たく、もぞもぞと固まっていた下級生たちが小さく動く。
「・・・・・・舞」
長次の呟きに、三木ヱ門の奏でる笛の音が重なった。静寂が途端に場を雅へと変える。しばし笛の調べだけが続き、朗々たるタカ丸の声が和すようにして夜の空に響き渡る。
「それは春か夏か、もしくは冬か、この世のどこにもない季節であろうか、はてさて何時のことかは分かりませぬ。男が目覚めたときにはすでに明るく、木々は茂り、花はそこかしこに咲いておりました。穀物は実を膨らませ、水は冷え冷えと喉を潤し、空気は酷く澄んでいたのです」
闇が支配していた庭、井戸の脇で影が身を起こす。粗末な着物姿の男は喜八郎で、彼は頬や手足を泥で汚し、まるでそこらの農民のようだった。いつもは高く結い上げられている髪すら乱れ、粗末に緩くまとめられているだけで、不思議そうに左右を見渡した後に緩慢な動作で立ち上がる。ざり、ざり、と草履が地面を這いずった。
「ああ、ここは楽土か。男はそう思いました。これで戦とも分かれることが出来る。早く村に戻って畑を耕し、家に帰って、家に帰って。家に帰って、何をするんだったか。思い出せずに男はただ歩を進めました。その度に今いる場所は楽土となって、男を柔らかに包み込みます。温かい。知らず男は『おおい』と声を投げかけていました。『誰かいないのか』、と」
喜八郎は、男はただ人気を求めるように歩み続ける。その行く先に、ふわりと何かが降り立った。岩に触れる爪先の音さえせずに、それは月光の中に現れる。白い羽織は酒すら霞ませるほどに眩しかった。黒く長い髪が揺れる。
「『おおい、そこのおまえ。ここはどこなんだ?』」
「『ここは人里離れた山の奥。知らずにここまで来たのかえ?』」
「『ああ、そうなんだ。どうしよう、帰る道を忘れてしまった』」
「『ならばわらわの家に来るが良い』」
タカ丸の声に、三木ヱ門の声が応えを返す。声は低かったけれども、それでも紡がれたのは女の言葉だった。色鮮やかな着物を纏い、細い足首だけが歩みに合わせて微かに覗く。羽織が頭から鼻先まで覆っている所為で表情は見えないけれど、それでも零れる黒髪の豊かさは女以外の何物でもない。透き通るような顎の上、紅の引かれている唇だけが酷く色鮮やかで艶めかしかった。人数から考えればその役は滝夜叉丸以外の誰でもないが、配役など考えにも及ばないほどに女は美しく、また常軌を逸していた。その存在の放つ空気は、人あらざるものの儚さだった。
「女が導いたのは、粗末なあばら家。けれど桜の大木がすぐ傍にありました。男が腕を広げても囲うことなど到底出来ない太い幹。逞しい枝には花どころか葉すらついておらず、周囲の景色と比べ、その桜だけが異様でした。『この桜は咲かないのかい?』 男は女に尋ねました」
「『咲かぬ。今はまだ』」
「『いつになったら咲くんだい?』」
「『分からぬ』」
「『じゃあ、咲くまでここにいるとしよう』」
男の言葉に、女が静かに雰囲気を緩ませる。赤い唇が弧を描くようにして吊り上げられた。当然ながら学園の庭にあばら家などなかったが、喜八郎は座敷に腰を下ろすかのように地面に座り、また滝夜叉丸も釜があるかのように振舞っている。何もかもが気にならないほど、そこには別世界が広がっていた。いつしか観客たちも酒や眠りを忘れて、目の前の光景に見入っている。ぽん、とタカ丸が小鼓を打った。
「豊かな自然、美味い飯、そしてこの世のものとは思えない美しい女。ああ、やはりここは楽土だ。そう思い、男は女に問いました。『なぁ、おまえさん。どこかで会ったことはないかい?』」
「『ありゃあせぬ。わらわとおまえは初めて会う身』」
「『そうかい。だけど私は、何か大切なことを忘れている気がするのだよ』」
「『眠るといい。疲れておるのだ』」
「『そうさせてもらおう』」
喜八郎が土の上に横になる。粗末な着物では寒かろうに、そんな様子は微塵も見せない。女はその傍らに座し、三木ヱ門の奏でる涼やかな笛の音と、タカ丸の打つ柔らかい小鼓の音。やがてすうすうと小さな寝息がその中に混ざり、瞼を下ろした喜八郎の胸が微かに上下を始める。誰かがひゅっと息を呑む。女が立ち上がると同時に、白の羽織がさざめいた。
回る、ゆるりと、足音すら立たない舞に、遅れて着物がついていく。赤い唇はきつく結ばれたままで、流される黒髪は闇に紛れず、月光の中に軌跡を残しては消していく。仙蔵や文次郎たちが酔ってさえいなければ、その女の、滝夜叉丸の醸し出す人外の雰囲気の根源たる理由に気づくことが出来ただろう。あえて瞳を見せない、印象の希薄。独特な呼吸法で、吐く息を濁らせない。摺りに近い運びで、足音を殺す。所作諸々が忍者特有の技術であり、けれどそれらを悟らせる前に滝夜叉丸の舞が終わった。笛が余韻を残して立ち尽くす女を浮かび上がらせ、そして徐々に、羽織が静かに男の傍らへと沈む。
鮮やかな着物の袂を押さえ、伸ばされた指先は震えていた。寸前で一度躊躇い、その後、恐る恐る男の頬へと触れる。輪郭を確かめるように辿った後、ほう、と漏らされた吐息も声となっては聞こえなかった。屈められていく身はじれったさすら感じさせ、伊作が盃を放り出して拳を握る。固唾を呑んで食満が身を乗り出した。男の胸に両の指先を沿え、女がその上に額を預ける。羽織が音もなく、地面に落ちた。
「『おまえが好きじゃ。ずっとずっと、好きじゃった』」
朱の引かれた目元には、凄まじいほどの色香があった。それでいて幼けない少女のように、滝夜叉丸は哀しげに微笑む。夜が静かに更けていった。

舞は女が桜の木に消えてゆき、男が目覚めるところで終わった。満開の花の下、戻るべき村と、帰りを待つ妻と子を思い出した男が山を下っていく。羽織だけが現だった証を残し、桜が覆い隠していく。笛の音が止めば痛いほどの静寂が満ち、それが余りにも長く続いたものだから、タカ丸が窺うように声をかけた。
「あのぉ・・・お気に召しませんでした?」
おかしいなぁ。すごい良い出来だったと思うんだけどなぁ。首を傾げるタカ丸に対し、三木ヱ門はすでに笛を握り締めて逃亡する準備を終えている。しかし、ぱちぱちと長次が小さく手を叩き始め、そこから割れるようにして歓声が上がった。吹き込む風で起きてしまった下級生たちも、それぞれが頬を染めて高潮している。立ち上がった小平太が一跨ぎで廊下を跳び越し、草むらの影でこれまた逃亡準備を整えていた滝夜叉丸を抱き上げた。子供にするかのような抱え方で、滝夜叉丸は「ちょっ、七松先輩!」と先ほどの女と同じ人物とは思えない声を挙げている。
「大丈夫だぞ! 私は滝夜叉丸のことを忘れないから!」
「何を言ってるんですか! さっきのは舞です! 先日授業で習った逸話です!」
「滝夜叉丸先輩、すごかったです!」
「すっごくすっごく綺麗でした!」
手足を動かして滝夜叉丸は拘束から逃れようとしているが、金吾と四郎兵衛が駆け寄っていくうちに大人しくなる。三之助は「あれだけ綺麗なのに何で先輩は女じゃないんすか」と言って、上から殴られていた。離れた茂みで同じように逃亡しようとしていた喜八郎は彼らの様子に芸の成功を知り、わざわざ着けていた顔の泥を拭いながら立ち上がる。来い来いと室内から手招きされ、落ちたままの羽織を拾ってから座敷に上がると盃を渡され、仙蔵自ら酌をされる。どうやら先ほどの舞が随分と気に入られたらしい。ぺろりと喜八郎は酒を舐めた。
「やるじゃないか、四年」
「凄いね。本当に綺麗だったよ」
食満や伊作も口々に賞賛を送り、向こうでは文次郎が照れも含めてだろうが三木ヱ門の頭を豪快すぎるほどに掴んで振っている。どうやら「いい子いい子」をしているらしい。その隣では長次が、タカ丸の頭を普通に撫でて饅頭を差し出している。は組をはじめとする後輩たちも寄って来ており、上機嫌のまま仙蔵は新たな酒樽の封を開けた。
「これならもう五年は呼ばなくていいな。鉢屋が来ると今の舞が汚される」
「滝夜叉丸ー! こっちにきてお酌して!」
「あ、俺にも酌んでくれ」
「駄目駄目、私が最初だぞ!」
やはり飛ぶようにして戻ってきた小平太が自らの隣に滝夜叉丸を座らせ、銚子を握らせる。感情の灯っている顔は舞の最中とは違うけれども、それでも十分すぎるほどの華だ。求められるままに逆らえず、滝夜叉丸は次々に差し出される盃を酒で満たしていくのに忙しい。あれまぁ、といつものように呟いて天井を見上げ、喜八郎は囁いた。
「お役御免だそうですよ、先輩方」
いい加減に酒の回っている最上級生は気づかない。天井裏から三つの困ったような呆れたような溜息が漏らされ、「私たちは除け者か」という鉢屋の不貞腐れた呟きが降ってくる。どんちゃん騒ぎは一層高まり、堪忍袋の緒が切れた教師たちが説教をしに来る明け方まで、宴は続いたのだった。





ちなみに滝は桜の精です。男を三途の川から引きずり戻し、そして家族の元へと返しました。
2008年12月13日(2008年12月28日mixiより再録)