牙を研げ。己を誇れ。いつか羽ばたくその日のために。
明日へ跳べ!
戦輪は中・長距離戦向きの武器であり、相手に懐に入られたら使い道がないことを滝夜叉丸はちゃんと理解していた。せいぜいが拳に握りこんでクナイの代わりにするくらい。だからこそ近距離戦闘を強いられた場合は、潔く戦輪を捨てて柔術に変える。見せることは少ないけれども、それでも滝夜叉丸は戦輪と同じくらいの時間を柔術にも費やしていた。どんなときでも次の手を考えるのが忍者であり、生き抜く最も有効な術であると滝夜叉丸は考えている。けれど今、渾身の力で放った投げ技に受身を取られた。息が切れる。身体の節々が痛い。さすがは鉢屋先輩だと心中で感嘆し、滝夜叉丸は右手を高く挙げた。
「参りました。私の負けです」
プライドの高い滝夜叉丸が負けを認めたことに驚いたのだろう。いつの間にか円を描くようにして集まってきていた生徒たちが大きくざわつく。少し離れた場所で立ち上がった三郎はにやりと唇を吊り上げ、その端にこびりついている自身の血を拭った。滝夜叉丸が寝技を駆使したため、二人とも砂と泥でぼろぼろだ。それでも傷の数は圧倒的に三郎の方が少なくて、彼が滝夜叉丸よりも強者だということを知らせる。
「負けを認めるんだな?」
「ええ」
「それじゃあ約束どおり、跪いて私の足先に口付けてもらおうか」
「いいですとも。約束ですからね」
三郎、と咎めるような声を飛ばしたのは雷蔵だろう。しかし三郎はにやにやと笑いを収めず、滝夜叉丸も諦めたように肩を竦める。もともとは他愛ない言葉のやり取りから発展した殴り合いだったのだ。勝てると思ったわけではないが、引くことが出来なかったのも事実。それに忍術学園でも名高い、この鉢屋三郎に対して自分がどこまで食らいつけるのかも試してみたかった。結果は、中々どうして。年上には礼儀正しくを心がけている滝夜叉丸も、その信条に反しただけのことはあったと満足している。
「そちらへ参ります。動かないでくださいね」
一歩を踏み出せば、先ほど打たれた脇腹がじくりと痛んだ。二の腕には縄標でつけられた傷もあるし、今夜風呂に入るときは盛大に沁みるだろう。顔には青痣が浮かんでいるが、それは先ほど顔面に一撃を食らわせたから相手も同じだ。戦輪がつけた太腿の傷も痛むに違いない。ざりざりと運動場を歩み、滝夜叉丸は距離を縮める。間近になった三郎は酷く楽しげで、その肩の向こう、心底不愉快気に眉を顰めている体育委員長の姿も見える。けれど地面に膝をつき、滝夜叉丸は頭を垂れた。周囲が一層騒がしくなる。汚れきった足袋に唇を近づける。髪が零れたので、指先で掬って耳にかけた。そのまま手を伸ばし、三郎の足首へと触れさせる。ふっと吐息が爪先にかかった、その瞬間。
「う、おっ!?」
足首を思い切り引っ張られ、三郎が調子を崩して腰から地面へとぶつかる。けれど転がる大地が突如崩落したかのように消え失せて、上半身は完全に土の穴の中へと埋まってしまった。見えているのは膝から上、滝夜叉丸が掴んでいる左の足だけが宙にぽかんと浮いている。誰もが唖然とした中で、滝夜叉丸だけが高らかに笑った。
「ほうら、あなたの勝ちですよ、鉢屋先輩!」
ちゅ、と軽い音を立てて滝夜叉丸が握り締めている足袋の先へと口付ける。一拍の間の後、蛸壺から三郎の弾けるような笑い声が響き渡った。己の腰に手を当てて、滝夜叉丸は胸をそらす。
勝負だけを見れば、結果的には引き分けだろう。蛸壺から這い上がった三郎は未だ笑いに腹を抱えているし、滝夜叉丸は涼しい顔で去ってくる。けれど受けた傷は大きく、足元がふらついた。タカ丸が脇から手を伸ばしてそれを支え、よく頑張ったねぇ、と砂で汚れた滝夜叉丸の髪を梳く。
「二番手、綾部喜八郎いきまーす」
やる気のない声で宣言をし、喜八郎が愛用の鋤を肩に乗せて前に出る。その後ろには石火矢を抱えた三木ヱ門まで控えていて、一瞬意識を薄くしていた滝夜叉丸はぎょっとした。
「おいっ! 待て、喜八郎! これは私と鉢屋先輩の喧嘩だぞ!?」
「滝ちゃんだけ五年とやるなんてずるいよ。ここはやっぱり平等に、日頃の恨みを晴らさせてもらわないと」
「おいおい何か言ってるぞ、四年坊主が」
「すごいなぁ。生意気だなぁ」
三郎が戻った先、竹谷が明るく笑い飛ばし、久々知が感心したように目を瞬いている。隣接する学年は仲が悪いのが通説だが、五年と四年はそこまで公ではなかった。けれどやはり思うところはあったのか、周囲の生徒たちも四年は四年の側に、五年は五年の側に回っている。最上級の六年生は楽しそうに観戦しているし、三年生は四年への恨みから五年の応援、そして一・二年生は右往左往して戸惑っている。ざん、と喜八郎の振り下ろした鋤が、運動場に深く突き刺さった。
「出てこないなら指名してもいいですか? じゃあ不破先輩でお願いします」
「ええっ、僕!?」
「はい。滝ちゃんをぼろぼろにしてくれやがった鉢屋先輩と同じ顔なので、是非とも殴らせてください」
突然の指名に理由を聞いて、雷蔵が思わず三郎を睨む。けれどそこにはすでに学園長に顔を変えた相手がいて、ぺろっと舌まで出された挙句、背中を押されて中央へと躍り出る破目になってしまった。どうしようどうしようと迷い癖が発揮されている間に、喜八郎はひとり勝手に手を挙げて宣言をする。
「二戦目、はじめ」
その手のまま鋤を握り締めたかと思うと、まっすぐに突っ込んできて勢い良く振り下ろす。間違いなく脳天を狙っていたそれを、雷蔵は反射的に避けた。ぶん、と空気を切る音がして、大きく鋤が振り回される。身を屈めて交わすと、観客から無責任な声援が飛んだ。条件反射でクナイを構えたはいいものの、喜八郎の丸い目はいつになく感情を読みづらくて、雷蔵はどうしたものかと途方に暮れる。
青空の下、今日も忍術学園は騒がしかった。
三年と四年はあからさまにいがみ合い。四年と五年は着かず離れず。五年と六年、むしろはっちーやと六いは大仰に貶し合い。
2008年12月7日(2008年12月14日mixiより再録)