ぱちりと視界が開けた瞬間、広がっていたのは真っ青な空だった。遠くから同級生たちの声が聞こえてきていて、サイはぱちぱちと瞬きを繰り返して身を起こす。その瞬間に何故か湿った感触を手のひらに感じて、見下ろせばワイシャツの袖口が真っ赤に染まっていた。
「何これ、ペンキ?」
持ち上げて臭いをかいでみるけれども、シンナー独特のつんとくる感じはしない。見回せば着ていたはずのカーディガンもいつの間にか地に落ちていて、サイは首を傾げる。午後の授業をサボろうと決めて、屋上に来たのは覚えてる。少しある風が気持ちよくて昼寝日和だと勝手に決めて、アスファルトに横になったのだ。そして気がつけばこの時間。五階下のグラウンドから聞こえてきているのは、部活に勤しむ生徒と下校途中の学生の声。
「弥子!」
いつも共に登下校している幼馴染の存在を思い出し、サイは慌てて立ち上がり、屋上から飛び出していく。相変わらず袖口の汚れている理由は分からないけれど、カーディガンを着れば隠れてしまい見えなくなった。二段抜かしで降る階段がじれったくて、踊り場から一気にジャンプする。とん、と軽い音を立てて着地すれば、顔見知りの友人が「10点!」と拍手を送ってきた。それにピースで応えながら、サイは教室を目指して突っ走る。後ろのドアから飛び込めば、見慣れたショートカットの後頭部がぴょこぴょこと揺れて振り向いた。あどけない顔がサイを見つけて、むうっと頬を膨らませる。
「サイ、遅いよ! 先に帰っちゃおうかと思ったじゃん」
「ごめん、弥子! 屋上でゴロゴロしてたらいつの間にか寝ちゃってた」
「叶絵は先に帰っちゃったよ。今日は東高の彼氏とデートなんだって」
「あれ? 一昨日は大学生って言ってなかった?」
「分かんない。ローテーション早すぎるんだもん」
弥子が椅子から立ち上がり、サイも自分の席から筆記用具と財布と携帯電話とポッキーしか入っていない鞄を掴んできて、クラスメイトたちに別れを告げて教室を出る。女子の平均身長より少しだけ低い弥子と、男子のそれより少しだけ低いサイは、二人とも華奢なこともあって並ぶと姉弟か兄妹のように見えるともっぱらの評判だった。気がついた頃から隣にいて、互いに家族同然に育ってきたことも理由としてあるのだろう。サイにとって弥子はもはや他人ではなかったし、きっと弥子にとっての自分も同じだろうとサイは考えている。放課後の街をぶらぶらと歩くのも、もう何年と繰り返している日常だ。
「弥子、今日の夕飯ってなにー?」
「うーんとね、今日はカレー。昨日カレールーが安くて、10箱買っておいたから」
「俺、タイヤキ食べたいなぁ。ゲーセンの隣の屋台寄ってこうよ」
「いいけど、あそこ50個焼いてくれるかなぁ。小豆とクリームと抹茶と薩摩芋とうぐいす餡を、全部10個ずつ。前に頼んだら断られちゃったんだよね」
「30個なら大丈夫なんじゃないの?」
「30個じゃ足りないよ! せめて48個!」
「全然譲歩してないし」
交わす会話は食べ物のことが五割、学校でのことが三割、家でのことが二割だ。大抵の物事を共に経験しているため、会話の種には事欠かない。時折訪れる沈黙さえ居心地よくて、サイは弥子と一緒にいることが好きだった。何より自分が自分でいられる、そんな感じがして心が温かくなる。
「・・・・・・あれ?」
コンビニを通り過ぎたところで、弥子が立ち止まった。三歩進んだところでサイも足を止めて振り返る。雑居ビルを見上げている弥子につられるようにして視線を上げれば、そこには昨日まであった「早乙女金融」という文字がなくなっていた。その代わりとでも言うように、窓硝子には「探偵事務所」というシールが貼られている。
「こんなところに探偵事務所なんかあったっけ?」
「分かんない。・・・でも」
弥子が言葉を切った。不思議に思ってサイが視線を戻せば、彼女は強張った顔のまま事務所の窓を見上げている。その瞳は恐れを感じているようなのに、どこか懐かしさと親しさを浮かべているようも見えて、サイは思わず眉を顰めた。不思議、と弥子が呟く。
「ここを、前から知っているような気がする」
「っ・・・早く帰ろうよ! スーパーに寄ってくんだろ!?」
「えっ!? うわ、サイってば、引っ張らないでよ!」
耐え切れなくなって、サイは弥子の手首を掴んで駆け出した。がらりと窓の開くような音がしたけれども、決して振り向かずに、ただひたすらに街の中を走りぬける。速いってば、という弥子の文句が聞こえたけれども、サイはそれを無視した。カーデガンの下、何故か真っ赤に染まっていた袖口を思い出す。
日常の壊れるような音が、サイの耳に聞こえた気がした。





時は来たれり





(ネウロに目をつけられる直前の弥子ちゃんと、怪盗Xに目覚めつつあるサイの仲良し幼馴染。)
2008年8月27日