(注意)
夏目が生まれつき女の子です。それでもよそろしければどうぞー!
十七歳の恋だった。先なんて考えられない。けれど児戯と呼ぶには真剣な、そんな恋をしていた。少なくとも、ずっと一緒にいれたのなら。そう願うくらいには想っていた。
けれども世界は残酷に、自分と彼女の間に明確なラインを引いたのだ。
「ごめん、田沼。俺、行かなきゃ」
「夏目・・・!」
手のひらを擦り抜けてしまった指先。翻るセーラー服の裾を、ただ見送ることしか出来ない。妖を愛おしみ、優しさを振る舞う彼女が好きだった。苦しみ悲しむ背中を支えていきたいと思っていた。それでも世界は田沼に、その権利を与えてくれることはなかったのだ。妖すら恐れるほどの力を持つ彼女と、気配を感じることしか出来ない自分。己の非力さに田沼は一人、無様に残された手を見下ろすしかなかった。好きだよ、夏目。好きだよ。大好きだ。だから。
・・・・・・ごめん。
最初で最後の恋だった
和造りの大きな屋敷は決して居心地が良いわけではない。それでも二年も暮していれば、いい加減に慣れてくる。与えられている小さな和室で瞼を閉ざしていた田沼は、ふと障子越しに現れた気配に瞑想を止めた。
「御当主がお呼びだ」
「今行きます」
膝を崩して立ち上がれば、着物が畳と擦れて僅かに音を奏でる。和服にももう慣れてしまった。学ランを着ていた二年前がやけに昔のようで、思い出しかけて田沼は止める。静かに障子を開けば、板張りの廊下に年嵩の男が立っていた。彼は田沼を一瞥すると無言で背を向け、さっさと先を歩き始める。田沼も何も言わずにそれに続いた。屋敷はその広さに不釣り合いなほど、重い静寂に満ちている。
いくつ部屋があるのか田沼は知らない。隠し扉の数はそれこそ片手じゃ足りないだろうし、地下へと続く階段も知る限りでは三つある。日の光の入らないそこは足元すら冷たい石畳に変わり、草履の裏から悍ましさが伝わってくるかのようだ。しかしそれらもすべて、この奥で行われていることの前では序の口だ。蝋燭の明かりが頼りなく揺らめく。人の気配が三つ。人ではない気配が一つ。今日は一人か。田沼は知らず細い息を吐き出していた。古びた木戸を叩き、応答があってから男が開く。中は五つの蝋燭によって照らされ、幾分か明るい。けれどそれらが魔を払うためのものだと田沼は理解している。男が恭しく頭を下げ、田沼もそれに習い腰を折る。
「連れて参りました」
「ありがとうございます」
中央で相手が振り返る。闇に飲まれず黒髪が輝き、能面に隠されていない左目を細め、男は笑う。
「仕事ですよ、田沼君」
的場一門当主、的場静司。彼が今の田沼の主であり、そして妖に関しての師匠だ。
石の壁から伸びる鎖に、大きな妖が繋がれている。物理的な拘束に意味はなく、重ねて貼られている呪符が大きな役割を成しているのだろう。身体に刺さっているいくつかの矢から血が流れており、最初の頃は田沼も、妖も血は赤いのか、と新鮮に思ってしまったことがある。本来、その考えすら無礼なのだろう。着物の袖口から覗く左手を持ち上げ、田沼はゆっくりと手袋を外した。和装に似合わないそれは田沼にとっての安全弁である。幾重にも術を施した、的場から与えられた一品だ。
「いいんですか?」
問えば、的場はええ、と頷く。蝋燭に照らされる表情はいつだって笑みをはいており、薄い唇が酷薄に弧を描く。一歩を踏み出して田沼は男の隣を通り過ぎ、二歩踏み出して的場の近くへと寄った。距離が縮まれば理解することが出来る。荒く息を吐き、地べたに這い蹲りながらも射殺すように睨み上げてくる妖は、そこらの低級ではないだろう。山の主か、地の主か。けれどもその強大な力も、今は的場と彼に使役される妖によってほとんどが削られてしまっている。
「精神力が強くて、言い聞かせようにも使い物になりません。これだけ名のある妖を食べてくれるような馬鹿はいませんし、それに何より、あの土地は是非とも手に入れたいのでね。そのためには邪魔なんですよ、この妖が」
田沼は一歩前に出る。妖が唸るように声を挙げるが、猿轡を噛まされているために音にはならない。それでもびりびりと発される威圧に、的場に追従していた男二人が少しばかり脅えて後ずさる。けれども田沼は動じず、妖を見つめたまま石の床に膝を着く。
「さぁ、田沼君」
背後から的場の声が、絡みつくように田沼の首元に添えられる。
「君の出番ですよ。その妖を―――消しなさい」
命令に、田沼は一度目を閉じる。暗闇の中、ただ妖の息遣いだけが聞こえてくる。恨めしいだろうに、生きたいだろうに、抱える屈辱は凄まじいだろうに、荒ぶるその魂に思いを寄せる。息を吐き出し、田沼は目を押し開く。そうして左手を掲げ、妖の額へと押し当てた。すまない、と言葉にはしない。けれども田沼は最後まで、妖の燃えるようにぎらつく眼から視線を逸らすことはしなかった。
後始末をするとのことで、男三人は地下に残った。先を行く的場に追従する形で、田沼は地上に戻ってきた。その間、自身の背中に向けられている視線には気づいていたけれども振り返らない。この屋敷で、的場一門の会合で、田沼に向けられる視線の意味は大きく三つだ。一つ、何故あんな若造が御当主の傍仕えを許されているのか。二つ、ぽっと出のどこの馬の骨とも知らない小僧がいつ裏切るか分かるまい。そして三つ、表情一つ崩さずに妖を消し去るなんて、あれは鬼子だ恐ろしい。ひそひそと交わされる会話は、密談にしては声が大きいため隠すつもりもないのだろう。妖祓いは基本的に年を重ねた、それこそ田沼の父のような年代の者が多く、そんな彼らの態度に些か大人に対して幻滅したことも田沼にはあった。けれど仕方がないとも思う。三つの視線は正しく、田沼のことを表しているからだ。それでも。
「・・・無益な消滅はさせないでください」
以前にも言ったはずですが。前を行く背中にそう告げれば、おや、と振り向かずに愉悦を含んだ声だけが返される。
「あれは必要な殺生ですよ」
「どこがですか。領土の拡大なんて、妖の前には無意味でしょう」
「もちろん土地になんて興味はありませんが、あそこには使い勝手の良さそうな妖がいましてね。手持ちに欲しいと思っていたんです。そのためには地を鎮めている主が邪魔だった」
ふふ、と的場が笑う度に、彼の背中で長い黒髪が震える。
「もちろん私だって鬼ではありません。最初は話し合いで解決したかったんですが、強情でねぇ。己の土地にいる者は一人も渡さぬ、なんてことを言うものですから。つい荒い手段になってしまいました」
「使い魔など、今の手持ちだけで十分でしょうに」
「まだまだ足りませんよ。そうですね、夏目君の使役する強大な妖に対抗するには、ちっとも力が足りません」
ぴたり、足こそ止まらなかったものの、田沼の心臓が冷たい強張りを持って一瞬硬直する。次にどん、と脈打ったのは動揺かもしれない。けれどすぐさま冷静であれと、田沼は己自身に命令を下す。奥歯を噛み締めて顔を上げ、ぎょっとする。いつの間にか的場が振り向いていたからだ。この男はこういったタイミングを決して逃すことがない。二十歳になり、背の伸びた田沼は今は的場と目線が等しい。体格的には何ら負けてはいないというのに、この蛇のような目に見据えられると、どうしても身体が強張ってしまう。伸びてくる指先が額に当てられるのを、ただ田沼は受け入れるしかないのだ。
「私がこういう人間だと知っていて師事しているのは君でしょう? それを忘れないでくださいよ、田沼君」
「・・・分かっています」
申し訳ありませんでした。そう謝罪をするが、これも果たして何度目のことか。田沼は的場に与しているけれども、彼に全面的な忠誠を誓ったわけではない。的場自身もそれを理解しているから、これはもはや言葉遊びだ。周りを年上で囲まれている的場の、もしかしたら戯れなのかもしれない。その証拠に浮かべられる笑みは地下牢とは違い、僅かな明るさを含んでいる。悪い人だけれど、悪ではないのかもしれないと田沼は思う。共感することは出来ないが、理解することは出来る。少なくとも人間性のすべてが悪ではないはずだ。でなければ彼は、突如やってきた田沼を受け入れることなどしなかっただろう。
「ああ、そうでした。今度妖祓いの会合があるんですが、そのときは君も参加してください。愛しい恋人に会えるはずですよ。いえ、今は元恋人でしたか」
「・・・やっぱり俺はあなたが嫌いです」
「もちろん知っていますとも」
再開された歩みに、同じ歩幅で田沼は着いていく。今度は心臓も音を立てることなく静かなままだ。的場の背だけを視界に映し、田沼はただ付き従っていく。先程妖を消滅させた左手は、再び厚い手袋で覆われていた。
その夜、布団に横になった田沼は、一人静かに天井を見つめた。昼間の的場の言葉が引き金になったかのように、懐かしい思い出が胸の中に次々と溢れ出てくる。それを遮るように、腕を目元に押し付けた。例え寝るときになっても手袋が外されることはない。これは触れた妖すべてを葬ってしまう田沼に対し、的場が与えてくれた抑制力だ。今となっては外すことなど到底できない。
力を求めてこちら側へとやってきたことを、田沼は後悔なんてしていない。ただ、それでも、胸に浮かぶ想いばかりはどうしようもないのだ。
十七歳の恋だった。先なんて考えられない。けれど児戯と呼ぶには真剣な、そんな恋をしていた。少なくとも、ずっと一緒にいれたのなら。そう願うくらいには想っていた。
出逢いは高校二年生のときだった。転入してきた学校で、田沼は夏目貴志という少女と出会った。少年のような名前を持ちながらも、美しい容姿の彼女はどこか儚げな空気を纏っており、学校では少し浮いた存在だった。夏目自身もそれを理解していたのだろう。彼女は人と接触することをどこか怖がっていたようだし、限りなく存在感を薄くしていた。ならば何故、そんな夏目に田沼が気づいたかというと、それはある日の出来事がきっかけだった。
「駄目だよ、こっちに来るな。早く行けったら」
図書室からの帰り、窓の外からそんな声が聞こえて視線をやれば、木々の合間に隠れるようにしてセーラー服のスカートがあった。目線を上げればそこにいたのは隣のクラスの夏目で、誰かと話しているんだろう、そう考えて田沼は目を離そうとしたけれども、その瞬間に風が吹いたのだ。大きく葉が揺れ、裏庭の光景を明るく照らし出す。逞しい木の下に夏目は立っていたが、そこに彼女と向かい合う存在はなかった。ならばどこかに行ったのかと思いきや、夏目は宙を見上げて何やら話しかけている。何もない場所に向かって、だ。困ったような怒ったような顔をしながら、溜息を吐き出し、そして彼女は笑った。仄かなものだが、彼女は確かに笑いかけたのだ。
変な奴、と普通なら思っただろうし、おかしな奴、と気味悪がったかもしれない。けれども田沼がそう感じなかったのは、偏に彼の異能によるものだった。田沼は昔から、人ではないものの存在を感じることが出来た。明確な輪郭を見ることは出来ないけれども、そこにいる、動いている、どこから来てどこへ行こうとしている、そういった気配を敏感に察知してしまうのだ。寺の住職である父にそれは妖というのだと教えられ、いるのは分かるのに見えないそれを田沼は恐れ、ずっと避けるようにして生きてきた。他の友人たちは感じることが出来ないどころか、存在すら知らないのだから尚更だ。気配を感じる度に力に当てられ、倒れることすらあった田沼だからこそ理解していた。この背筋を這い上がってくるような怖気は本物だ。夏目の前には何かがいる。彼女はそれに向かって話しかけているのだ。田沼には分かった。夏目は「見える人」なのだと。自分と同じ側の人間なのだと。
それから切っ掛けがあって、田沼と夏目は友人になった。お互いに妖の存在を感じることが出来る、それが二人を繋げた最大の理由だったのだろう。他の友人には打ち明けられないような悩みを話したし、取り繕わなくてもいい生活は確かに二人の心を安らげた。田沼は夏目の前なら楽に息をすることが出来たし、夏目も田沼の前でだけ張り詰めていた肩の力を抜くようになった。並んで帰ることも多くなり、付き合っているんじゃないかという噂を立てられもした。それを聞いた夏目は、田沼に迷惑かけてごめん、と申し訳なさそうにしていたけれども、いいよ、気にしてない、と返した田沼の心は本心だった。その頃にはすでに惹かれていたのだ。夏目という、心優しい一人の女の子に。
夏目の力は、田沼のそれとは比べ物にならないくらい強力だった。田沼にとってはぼんやりとしか見えない妖も、夏目にとっては人と同じくらいはっきりと見えるらしい。人型の妖だと、人と間違えて困ってしまうんだ。そう語られて、大変なんだな、と田沼も頷いたけれども、夏目の力の凄さを正しく理解させられるのはそれからだった。見える。聞こえる。触れられる。それだけではない。ニャンコ先生という喋る猫を紹介されたときは驚いた。小さな憑代に入ってしまっているから田沼にも見ることが出来たけれども、本来の姿に戻ったとき、その気に当てられて田沼は卒倒してしまったのである。情けない餓鬼だ、と呆れられても何も言えない。目が覚めたときには今にも泣きそうな顔の夏目がいて、ごめん、田沼、ごめん、と何度も謝られてしまったけれど、俺こそごめん、と謝罪を口にしながら田沼は思った。あんなに強い妖の傍にいられる夏目の力は、本当に強いのだろうと。ごめん。震えて謝る彼女の肩はこんなにも細いのに、内に秘めるものは明らかに田沼と異なった。
夏目は今まで、その力故に気味悪がられてきたのだろう。彼女は田沼を巻き込みたくないと、巻き込んで傷つけてしまいたくないと考えて距離を取ろうとしたけれども、田沼はそれこそ耐えられなかった。夏目が一人で立つ姿なんて見たくはなかったし、壊れそうに笑う彼女を思えば胸が苦しくなる。
一緒にいたいんだ。そう告げたのは雪が舞った年の瀬だった。え、と振り返った夏目の首には、義母である塔子が編んでくれたマフラーがあった。柔らかいピンク色のそれを夏目はとても大切にしており、揃いの手袋をいつも身に着けていた。その指先を握って、田沼は告げた。
「好きだ」
吐き出す息は白く、二人の間を濁らせる。夏目は驚いたのか少しの間固まっていたけれども、田沼が強く手を握れば、弾かれたようにその頬を真っ赤に染めた。淡い色の髪に隠された耳まで赤くして俯き、でも、俺は、と呟かれた夏目自身を卑下する言葉を、田沼はすべて否定した。俺はどんな夏目でも好きだよ。そう告げれば夏目はそっと顔を上げ、笑ってくれた。
「俺も・・・田沼が、好きだ」
目尻に浮かんでいた涙が愛しくて、田沼はその日、夏目と恋人同士になった。
彼氏彼女になったとしても、二人の日々に大きな変化は訪れなかった。元より一緒に帰ることも多かったし、変わったことと言えば、付き合っているのかという噂に否定することがなくなったことくらいだろう。田沼が夏目といることは自然だったし、夏目も田沼の前でだけはとても柔らかく微笑むようになった。周囲に付き合っているのだと認識されるようになったのは早く、有名ではないけれども、校内では公認カップルに近かった。過ごす日々は穏やかで愛おしかった。
初めて手を繋いだのは、一月も終わりに近づいた頃だった。手袋越しだったから余り体温は伝わらないはずなのに、二人とも身体がぽかぽかして、その日は碌に喋れないまま家についてしまった。
二月のバレンタインデーには、友人の多軌に背中を押されるような形で、夏目が手作りのチョコレートをプレゼントしてくれた。初めて作ったから美味しくないかもしれないけど、と前置きして差し出されたそれに、田沼は感激して言葉がなかった。封を解くのすら勿体なくて飾っておきたかったけれども、美味しかったよ、と夏目に伝えたくて、丁寧にラッピングを剥がして現れたトリュフを口に含んだ。優しい甘さはまるで夏目自身のようだと田沼は思った。
三月、ホワイトデーを理由に田沼は初めて夏目をデートに誘った。二人の暮らしている町は田舎のため、どこかに出かけるにしても少し遠出をすることになる。故に今までデートらしいデートをしたことがなく、待ち合わせをした駅で初めて、田沼は夏目の私服姿を見たような気がした。遠目にも分かる、あの可愛らしい女の子が自分の恋人なのかと思うと、田沼の頭はくらくらして堪らなかった。その日は電車に乗って訪れた少し大きな街で映画を観て、ウィンドウショッピングを楽しんだ。バレンタインデーのお返しに黒猫のぬいぐるみを贈ったら、夏目はとても嬉しそうに受け取ってくれた。
四月、進級したクラス替えで、二人は同じ組になることは出来なかった。高校はずっと別のクラスということになり、残念だけれど仕方がない。夏目は多軌と同じ組で、良かったな、と田沼が言えば、うん、と安堵したような頷きが返された。でも、田沼とも一緒が良かった。続けられた呟きに、田沼も「俺も」と返す。手を振って別れ、隣り合う教室へと入っていった。壁一枚を隔てた距離がやけにもどかしく感じられた。
五月、中間テストの勉強のために訪れた藤原家で、夏目が田沼のことを恋人だと塔子に紹介してくれた。まぁまぁまぁまぁ、と少女のように瞳を輝かせる塔子を前に田沼はただただ緊張するしかなく、夏目は照れくささの余り真っ赤になって俯いていた。いらっしゃい、田沼君。温かな笑顔で迎え入れてもらえて、お、お邪魔します、と田沼は靴を揃えて家へと上がった。塔子は二人の馴れ初めを聞きたがったけれども、それは恥ずかしがる夏目によって阻止され、語らされることはなかった。けれどもトイレを借りるために降りていった一階で、田沼は塔子に声をかけられた。貴志君をよろしくね、と笑う彼女は血が繋がっていなくても間違いなく夏目の母であり、はい、と田沼は誓うように頷いて約束した。ありがとう、とかけられた声に、恋人だと認めてもらえた気がして嬉しくなった。
六月、雨傘に隠れて初めてのキスをした。触れ合わせるだけだったけれども想いを伝えるには十分過ぎて、唇が離れたとき、田沼も夏目も眉を下げて笑ってしまった。付き合い始めて半年が過ぎていた。
七月は少し慌ただしく過ぎていった。詳しく教えてもらうことは出来なかったけれども、妖関係でいろんなことがあったらしい。すべてを終えた後でニャンコ先生を膝に載せながら、夏目は田沼に話してくれた。相談してくれたら良かったのに。そう言った田沼に、ごめん、と夏目は申し訳なさそうに謝った。謝ってほしいわけではなかったけれど、そんな彼女の様子を見ているとそれ以上追及することが出来なくて、田沼も黙り込むしかなかった。
そうして八月、夏休みが来た。
「ごめん、田沼。俺、行かなきゃ」
「夏目・・・!」
握っていた手のひらから、夏目の指が擦り抜けていく。友人の妖の危機を知り、夏目は駆け出して行ってしまった。田沼もその後を追いかけたけれども、本来の姿を取り戻したニャンコ先生に跨り、夏目は空を行ってしまった。地面から吹き上がる風に思わず目を閉じてしまい、次に田沼が瞼を開いたとき、すでに夏目の姿はなかった。田沼は一人、そこに残されたのだ。途方に暮れて彼はただただ、恋人の行く空を見上げるしかなかった。
的場と出逢ったのは、くしくもその同日だった。太陽が沈むまで待ったけれども帰ってこない夏目に不安に駆られながら、田沼が自宅へ帰ってきたところで寺から出てきたのが的場だったのだ。まだ若く、右目に仮面をつけているような特徴的な人物だ。一度見たら忘れられない空気を纏っており、おや、とその男は田沼に気づくと僅かに瞳を眇めて笑いかけてきた。瞬間、田沼の背筋が怖気に震えた。妖ではない。妖ならば田沼にはここまではっきり見ることが出来ない。それすなわち、目の前にいる男は人間だ。そう分かっているのに、妖を前にしたとき以上に感じるこの悍ましさは何なのだ。
「田沼御住職のお子さんですか?」
「・・・は、い」
倒れてはならないと、拳を握りながら頷いた田沼に、男は唇の端を吊り上げて笑った。
「私は的場。的場静司といいます。以後お見知りおきを」
彼が妖祓いなのだと、田沼は父から後に教えられた。田沼の父はそういったものが見えるわけではないけれども、祓う法力だけは持っている。本人には無自覚のそれだが、噂を聞きつけて的場は見に来ていたらしい。あの人も妖が見えるのか。田沼は八ツ原の闇の中へ消えていった後ろ姿を思い出し、そんなことを思った。その日以降、九月の新学期まで、田沼は夏目と会うことは出来なかった。
何があったのか田沼は知らない。夏目が話してくれないのもあるし、無理に聞き出して彼女を傷つけたら、と臆病な気持ちもあったからだ。友人帳という彼女の祖母が遺品が関係していたらしいけれども、田沼を巻き込みたくないんだ、と夏目に泣きそうな顔をされたら田沼にはもう何も出来ない。巻き込んでほしいんだ。本心はそう叫んでしまいたかったけれども、そうするには田沼は余りに非力すぎた。妖の存在を見ることも出来ない、祓うことも出来ない田沼は、夏目にとって足手まといでしかないのだ。九月は余り一緒に帰れなかった。夏目君、どうしたのかな。心配そうな顔をする多軌と会話した数の方が、夏目とのそれよりも多かった気がする。
徐々に、徐々に、浮き彫りになってきたのは何だったのだろうか。異能の差か。世界の差か。それとも生まれ持った立つ場所の違いか。田沼には分からない。それでも、それでも。
「名取さん」
そう呼び、妖祓いの男に駆け寄っていく夏目を見ていたらもう我慢できなかった。その日、田沼は的場一門の扉を叩いた。出迎えてくれた的場はやはり恐ろしさを感じさせたけれども、その時の田沼の内を満たしていたのは憤怒にも近い激情だった。夏目に対してではない。何もできない、無力な己に対してだ。
力が欲しいんです。そう言った田沼に、手伝いましょう、と的場は手を差し伸べてくれた。断言しよう。田沼はその手を自ら望んで取ったのだ。脅されたのではない。田沼は進んで、的場の下に膝を折ったのだ。
秋は会えなかった。学校ですれ違うことはあったし、その際は言葉を交わしたけれども、田沼は毎日のように放課後は的場の屋敷へ通っていたため、夏目と帰ることは出来なかった。夏目自身の騒乱がいつ落ち着いたのか、正直な話、田沼は知らない。じゃあまた明日、と廊下で挨拶して別れる自分の背中に、夏目が手を伸ばそうとしてくれていたことに、田沼は終ぞ気づくことが出来なかった。
そうして二学期が終わり、冬休みがやってきた。その頃には田沼の力は開眼し、父にも負けぬ法力を身に着けていた。術を介して開かれた田沼の本質は強力で、その左手は触れるすべての妖を炎のように焼きつくし、灰のように跡形もなく消し去った。自分の指先で消えていった妖を前に、田沼はただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。そんな彼の肩に優しく手を載せ、耳元で的場が囁く。おめでとうございます、と。
「これで君も立派な妖祓いです。さぁ、我々と共に妖を滅していきましょう」
そこでようやく、田沼は愚かにも気が付いたのだ。この左手は妖だけでなく、力のある者にも害を加えてしまう。だからこそ的場は厚い手袋を常に身に着けるよう田沼に指示を出してきた。ああ。気づき、田沼は項垂れた。こんな手ではもはや、夏目に触れることも出来ない。罪なき数多の妖を葬り去った、こんな汚れた掌では、もはや彼女に触れられない。
弱さだった。すべては田沼の心の弱さが招いたことだった。卒業式の後、田沼は夏目に別れを告げた。どうして、と訴えてくる彼女をせめて最後に抱き締めたかった。けれどもう、それも出来ない。塔子との約束を破ることになってしまって、本当にすまないと思う。だけどどうか、幸せに。それだけを呟いて、田沼は夏目の元を去った。
情けない男だと詰ってくれていい。馬鹿な男だと笑ってくれて構わない。力を求めた結果が彼女を悲しませることに繋がっただなんて、本末転倒にも程がある。けれどどうか、せめて祈らせてはくれないか。
好きだよ、夏目。好きだよ。大好きだ。だから、どうか。
君はどうか、幸せになって。
死と後悔で穢れ切った俺とではなく、明るく眩しい光の下で、愛してくれる他の誰かと。
妖祓いの会合は定期的に開かれている。誰が主催者になるかは場によって異なるけれども、的場は常に招待される側だ。強力な一門とコネクションを作っておきたいのだろう。車を降りれば、いつだって主催者が頭を下げて出迎えに来る。的場の背に付き従って歩む田沼は今日も和服だ。まだ若い当主、そして彼が傍に置く更に若い青年の姿に、会場は僅かに騒がしくなる。けれどこれでも大人しくなった方だ。的場が田沼を引き連れて現れた最初の会合では酷かった。何だあの小僧は、と至る所で囁かれたし、的場一門に対して全員が好意的というわけではないから、侮蔑を投げつけられたこともある。しかしそれらも、的場のパフォーマンスによって強制的に断ち切られた。捕えられた妖を、田沼君、消しなさい、と大多数の前で的場が命じたからだ。主であり師でもある男の言葉に逆らえず、田沼は左手の手袋を外して、妖を一瞬で灰へと化した。それ以来、田沼は同じ妖祓いにでさえ気味悪がられ、恐れられるようになってしまった。けれども近付いて来ないその距離を、今は楽だと思ってしまう。
日頃は表舞台に立たない妖祓いも、こんなにいるのか、という数が集まる。茶や酒を囲んで、やれどんな妖を滅したとか、どんな妖を捕まえたとか、交わされるのはくだらない自慢話ばかりだ。的場はそんなものには欠片も興味がなく、彼が会合に参加するのは、常に裏の世の動向を把握しておくためである。その証拠に、いつだって的場は会合の終わりまでいたことがない。適当に場を辞して、疲れましたね、と車に乗って帰ってしまうのだ。けれども今日はどうやら、その他に目的があるらしい。
「やぁ、的場。元気そうで何より」
「久し振りですね、名取」
いくつかの部屋を抜けたところにいたのは、妖祓いとしてよりも、おそらく俳優として名が知れているだろう男だった。傍に式は連れておらず、眼鏡をかけた頬を蜥蜴の痣が這っている。名取は的場の後ろに従う田沼にも朗らかな笑顔を向けてきた。
「田沼君も久し振りだね」
「御無沙汰しております」
無礼にならない程度に浅く頭を下げて、田沼も応えた。かつて目の前の男に感じていた劣等感は、今も僅かながらに田沼の身の内に残っている。けれども名取は、限りなく夏目の側に近い男だ。この人なら任せられる。そんな思いもあるからこそ、田沼は決して名取に対して悪意を表出したりはしない。
的場と名取は高校の同級生だったと聞いている。的場自身が夏目とも関わりがあると知ったのは彼に師事してからだけれども、狭い妖祓いの世界だからそれも仕方がないのかもしれないと田沼は思う。身に着けて分かる。夏目の力は強すぎる。彼女の存在を危険視する的場の懸念も、田沼には仕方のないことだと捉えられてしまうのだ。
「おや、今日は式は連れていないのですか?」
的場の問いかけに、名取は小さく笑った。
「今は庭の鯉を観に行っていてね。田沼君、悪いけれど呼んできてもらえるかな?」
「・・・・・・」
「行ってきなさい、田沼君」
「・・・分かりました。失礼いたします」
的場に言われて、田沼は重い腰を上げた。襖を開けて部屋を出る。廊下の空気は冷たく、縁側を降りれば肌に突き刺すような寒さを感じる。それはまるで夏目に告白をしたあの年の瀬のような、そんな寒さだ。けれど見上げても空は晴れており、雪の降ってくる気配はない。見下ろす地面には、あの日の夏目の代わりに、丸い猫が立ち塞がっている。ふと、田沼は笑ってしまった。
「久し振りだな、ポン太」
「違うわい! ・・・夏目なら、この先の池のほとりにいるぞ」
「行かないわけにはいかないのか? 俺はもう、夏目に会わせる顔がない」
正直な心を吐露すれば、ぐわっとニャンコ先生の顔が般若のように変化した。本来の姿ではなく猫だというのに、まるで怒りが塊となってぶつかって来るようで、実際に猫の身体がボールように飛び上がって田沼へと体当たりしてきた。
「おまえの都合など知ったものか! 夏目が会いたいと言っているのだ! 行かなければ食うぞ!」
「・・・それは困るな」
手袋をしているけれども、左手を咄嗟に身体の後ろに隠して、田沼は大人しくニャンコ先生の体当たりを甘受した。砂袋のように重みのある身体は、田沼の右腕だけでは抱えきれない。くるりと本物の猫のようにバランスを取って着地したニャンコ先生は、ぎらりと田沼を睨み上げてきた。
「小僧、夏目をこれ以上泣かせてみろ。許さんからな」
「・・・すまん。その期待には、応えられそうにない」
ニャンコ先生の目が鋭くなったが、それ以上何か言われることはなく道を譲られた。無言で立ち去ることは許されず、田沼は池へと向かって足を踏み出す。吐き出す息が白い。涙すら凍ってしまいそうな寒さだ。
数メートル進んだ先、小さな生垣を超えたところに池はあった。高校を卒業すると同時に的場の屋敷へ移った田沼は、その後夏目がどうしていたのか知らない。大学受験に合格したのは聞いていたけれど、それだって卒業する前の話だ。自宅のある八ツ原へは年に数回帰るけれども、高校の同級生とはもうほとんど連絡を取り合っていない。だから田沼は、夏目がこの二年、どうやって過ごしてきたかを知らない。けれど池のほとりに立つ女性が夏目なのだと、すぐに気が付くことが出来た。髪が伸びたな、と思う。綺麗になったな、と思う。頼むからどうか泣かないでくれ。そう、思う。
「田沼・・・!」
名取の式として連れてきてもらったからなのか、着物の裾を翻して夏目が駆け寄って来ようとする。左手を前に出して、田沼は笑った。
「駄目だ、夏目。それ以上近づかないでくれ」
びくっと肩を震わせて夏目の足が止まった。見上げてくる顔が少し遠く、身長差が開いたのだと田沼は改めて気が付いた。二年の月日は夏目を美しく成長させた。けれども今にも泣き出しそうなその表情は、あの卒業式の日と変わらない。
「俺の噂は聞いているだろう? 俺の手は、妖だけでなく力のある者も滅することが出来る。だから、それ以上は近づかないでくれ」
「田沼・・・どうして。どうして的場さんのところにいるんだ・・・」
「夏目」
「何か理由があるのか? 俺が今まで、どれだけ探して・・・!」
唇を噛み締めて、苦しそうに訴えてくる姿に、ああ、と田沼は嘆息する。自分はまだ、彼女に想われていたらしい。少なくともこうして、会合に紛れて会いに来てもらえるくらいには。嬉しい。純粋にそう思う。けれど田沼には、言っておかなければならないことがある。
「俺が今ここにいるのは、自分で選んだ結果だ。俺自身もちゃんと納得して受け入れている」
「田沼!」
「何も言わずに姿を消してすまない。心配させたな」
笑いかければ、夏目は伸ばしかけていた手のひらをぎゅっと握って自身の胸元へと引き寄せる。互いに腕を伸ばして、ぎりぎり触れ合えるか否かといった距離だ。ううん、と首を横に振って、田沼が元気そうで良かった、と夏目は仄かな笑みさえ浮かべてくれた。想われていると思う。自意識過剰かもしれないけれど、もしそうなら、次に会うときもそうだったのなら、田沼にはしなければならないことが一つだけあった。言わなければならないと決めていたことが一つだけあった。
向かい合うすぐそこに夏目がいる。見下ろす地面は綺麗な芝生だけれども、田沼はすでに、そこに深く底のない亀裂があることを知ってしまった。かつての溝なら飛び越えることも出来たかもしれない。けれど、こんな亀裂ではそれも不可能だ。田沼はもはや、夏目の傍に戻ることは出来ない。世界はすでに隔たれたのだ。それならば、残された道はただ一つ。
「・・・田沼は、どうして的場さんと一緒にいるんだ? それだけ教えてくれないか?」
問うてくる夏目に、答えることは出来ない。ただ、君の傍にいたかったのだと。君と同じ世界が見たかったのだと。危険なことに巻き込まれてしまう夏目を守りたかったのだと。苦しみを分かち合いたかったのだと。悲しみを分けてほしかったのだと。共に手を取り合って歩いていきたかったのだと。言えるはずがない。言ったらきっと、夏目は自身を責めてしまうだろう。俺のせいで田沼が、と悲しむ姿はもう見たくなかった。それに、真実はそうではない。
今になって分かる。きっと夏目は待っていてほしかったのだ。どんなに辛かろうと、帰ってきたときに「おかえり」と言って出迎えてほしかったのだろう。温かな抱擁と帰る場所が欲しかったのかもしれない。今なら分かる。けれど十七歳の田沼要は、それに気づくことが出来なかった。そうして力を欲した結果が今だ。愚かだと己自身を思うけれども、もはや戻ることなど出来やしない。それだけ田沼の手のひらは汚れてしまった。数多の妖を屠ってしまった。自らの選択で得た道だ。どれだけ悔やんだとしても、今更投げ出すことは出来ない。だから。息を吸い込んで吐き出し、田沼は笑った。
「好きだよ、夏目」
ずっと言おうと決めていた。もしも再び会うことが出来たなら。
「好きだよ」
顔を上げる姿に、愛しさばかりが募る。
「大好きだ」
言わなければならないと決めていた。もはや道は違えたのだから、言える言葉はたった一つだ。万感の想いを込めて、田沼は告げる。
「好きだよ、夏目。大好きだ。―――『友人』として、君の幸せを心から祈っている」
着物の袖口の下で、田沼はきつく左手を握り締める。見開かれた夏目の瞳から零れ落ちた涙を拭うことも、もはやこの手では不可能なのだ。ならば祈るしかないだろう。愛しい人の幸福な未来を。どうか、どうか、君が幸せでありますように。闇の中から乞い願う。
大切な人。どうか君は、幸せに。
会場に戻れば的場の姿はなく、聞けばすでに帰ったのだという。舌打ちをしたい気持ちで玄関に向かえば、黒塗りの車がまさに出発しようとしているところだった。田沼に気づき、後部座席のドアが開かれる。滑り込むように中へ入れば、すぐさま車が動き出した。屋敷が見る間に小さくなっていく。
「何だ、帰ってきちゃったんですか。せっかく逃げ出す機会をあげたのに」
言葉とは裏腹に、確信犯的に的場が笑う。この人のこういうところが厭らしいと田沼は思う。
「俺は逃げませんよ」
「そうでしょうね。まぁ、こちらとしては君がいる限り、夏目君もいずれ引きずり込めそうで願ったり叶ったりですけれど」
「夏目は来ません。俺が来させません。こちら側には、絶対に」
強く言い切れば、的場が楽しそうに声を挙げて笑った。
「いいですよ。今は君という強力な妖祓いで満足してあげましょう」
黒塗りの車は一路的場の屋敷へと向かっていく。薄暗く重苦しい空気に満たされたそこは夏目には相応しくない。もしも彼女が来ようものなら、傷つけて憎まれてでもいいから突き返すと田沼は固く決めている。それが例え、自分と一緒にいるためだと言われたとしてもだ。この手はもう彼女を抱き締められないのだから、自らの過ちに気が付いたとき、田沼の想いは行き場を失くして死んだのだ。今はただ墓場から、夏目の幸せだけを願っている。
的場の隣で、田沼は瞳を閉じて闇に浸る。瞼の裏では夏目の涙が滑り落ちては消えていく。泣かないでくれ。強くそう願う。愛している。その言葉は左手に殺されて、もはや口にする権利すら田沼には許されていないのだ。最初で最後の恋に、田沼は自らの手で引導を渡した。
最初で最後の、俺の恋人。
2012年5月9日