伏せていた瞼を、田沼要は押し上げた。余所からの干渉は彼の精神にぴりぴりとした違和感を覚えさせ、そのことに溜息を吐きだして腰を上げる。からかうように遊ぶように、何度となく接触してくる相手には心当たりがあった。本堂を出れば陽はまだ高く、きらきらと差し込んでくる太陽が眩しくて瞳を細める。素足で回廊を進んだ。視界の隅で小さな紙が一枚、また一枚と焼かれたように炭と化しては消えていく。早くしろと急かすかのようなその行動に、田沼は再度溜息を吐きだして下駄をつっかけた。寺の入り口である山門までは、参道を歩いて行かなくてはいけない。澄んだ空気の先に、豊かな自然に囲まれて立っている姿がある。彼は、その線を超えることが出来ない。田沼の作り上げる結界の中に、式はおろか、彼自身も足を踏み入れることが出来ないのだ。山門のこちら、決して寺の敷地から出ることなく、田沼は足を止めて来訪者を仰いだ。
「こんにちは、名取さん。お久しぶりです」
「久しぶりだね、田沼君」
山門の向こうに立つのは、テレビの中で毎日のように目にする有名俳優だ。帽子と眼鏡で見てくれは多少変化すれども、彼の本質まで隠すことは出来ない。太陽だけでなく輝かしい光景に、田沼は自然と掌で日差しを作った。それに気づいた名取が笑って「きらめいててごめん」と軽く謝ってくる。スターに相応しい眩しいオーラだが、田沼にとって名取周一という男は、それ以前の知り合いだった。眼鏡を取り去り、名取が瞳に真剣な色を帯びて問うてくる。
「夏目は、元気かい?」
彼の口にした内容。それこそが田沼と名取を繋ぐ、唯一にして最大の理由だ。
うつくしいよるに
夏目が倒れたのは六年前、田沼たちが高校二年生の冬だった。寒い、吐いた息も凍りつきそうな、そんなある日のことだった。詳しい事情を、六年経った今でも田沼は知らない。それは共に帰宅していた多軌にしても同じだろう。ニャンコ先生にざっと説明してもらったけれど、当の夏目は未だ目覚めず、夏目を眠りにつかせた妖も未だ見つかっていないからだ。おそらくレイコに恨みを持った奴の仕業だろう。そうニャンコ先生は語り、どうせすぐに目が覚めるわい、と笑い飛ばした。しかし一日経っても、三日経っても、一週間経っても、一ヶ月経っても、夏目が目覚めることはなかった。それどころか周囲は夏目貴志という存在を、日毎に薄れさせていった。気が付いたとき、ぞっとした。
まずは田沼と多軌のクラスメイトだった。そのときの二人は目覚めない夏目のことで気が気じゃなくて、学校なんて授業は受けても内容なんてちっとも頭に入っていなかった。だから気づくのが遅れてしまったのだろう。ある日ふと口にした夏目の名に、二人のクラスメイトは首を傾げて答えたのだ。「それ、誰?」と。
違和感は徐々に浸透し、夏目から遠い場所にいる者たちから順に、彼のことを忘れていく。親友ともいえる西村と北本、それと委員長である笹田はさすがに忘れなかったけれども、教師が夏目の名を飛ばして出席を取ったときに、彼らもついに気が付いてしまった。その頃にはもう隠しきれなくなって、ニャンコ先生の許可の元、田沼と多軌は夏目が最も秘密にしたがっていた「妖が見えること」について三人に話した。彼らは驚きはしていたけれど、どこかで夏目が何か違うものを見ていることにも気が付いていたのだろう。そっか、と頷いたのは西村で、だからか、と納得したのは北本だ。笹田は、でも、と眉を顰めたが、さすがに人間の言葉をしゃべる猫を前にしたら信じないわけにはいかなかったのだろう。ニャンコ先生の存在に腰を抜かせて、分かったわよ、と声を張り上げた。
三人は驚きはしたけれど、でも夏目は夏目だし、それは変わらないと言ってくれた。友達だと言ってくれた三人に、田沼の方が泣きそうになってしまった。実際、多軌は少し泣いていた。今すぐ夏目に彼らの言葉を伝えたい。そう思うのに夏目の目覚める気配はなく、五人は心配を募らせて藤原家に毎日のように見舞いに通った。
徐々に、徐々に、夏目を覚えている人の数が減っていく。妖はその対象に含まれないようだったが、それこそが夏目をあちら側へ連れて行かれる証明のような気がして、田沼はわらにもすがる思いで過去に一度会ったことがある相手に連絡を取った。それが名取だった。妖の気配を辿ることの出来る田沼は名取の式を見つけ、夏目の現状を説明した。田沼にとって名取はうさん臭くて仕方のない人物であるが、彼の夏目に対する厚意は本物だったのだろう。忙しいだろうに彼はすぐに時間を作り、藤原家へ足を運んでくれた。そして夏目を見て、言ったのだ。
「このままでは夏目は、いずれ妖になってしまう。人間から忘れ去られ、あちら側の住人になってしまうだろう」と。
考えたくないことではあったが、頭の片隅でわずかに想像もしていたことを口にされ、田沼の身体は震えた。どうすれば、と拳を握りしめた田沼を見ずに名取は立ち上がり、「私は夏目を襲った妖を探す」と言って出て行った。夏目、夏目。指を伸ばして触れた夏目の頬は、透き通るような白だった。
その三日後、多軌と並んで見舞いに訪れた藤原家の前で、田沼は黒い長髪の男と出会った。雨でもないのに古風な番傘を差した男は右目に文様の描かれた眼帯をつけており、「あれは術だわ」と多軌が警戒するように呟く。男は田沼と多軌を振り返り、見定めるように上から下まで眺めまわした後に背を向けた。おまえは誰だ、という田沼の声に、男は薄ら笑いしか返さなかった。男が眺めていた、二階にある夏目の部屋を見やる。その人物が的場静司といい、妖祓いとして有名な的場一門の当主であることは、後に名取から教えられた。
夏目が目覚めないまま、田沼と多軌は進級して三年生になってしまった。田沼は毎日欠かさず見舞いに行っているし、多軌は陰陽師だった祖父の遺品から何か手立てはないかと蔵をひっくり返して漁っているが、それでも夏目は目覚めない。名取の方でも収穫はなく、ニャンコ先生や夏目の知己の妖たちも四方で調査をしているらしいが、芳しい結果は得られなかった。
夏目という存在はすでに、大半の人間の記憶から消えて行ってしまった。それでも我が子の目覚めを信じて、憔悴しながらも夏目に話しかけ、毎日を耐え過ごしている藤原夫妻の存在に、田沼は胸が痛くなって仕方がなかった。だが、ついに時は来てしまったのだ。
登校した教室で、西村と北本と笹田が「夏目って誰?」と首を傾げた。まさか、と真っ青になって田沼と多軌が向かった先、藤原家の玄関先で塔子は微笑んで出迎えてくれた。けれども彼女も言ったのだ。優しくいつものように笑いながら、首を傾げて。「貴志、君? うちには息子はいないけれど・・・」と。
それは田沼も多軌も恐れていたけれど、それ以上に夏目にとって最悪の事態に違いなかった。これ以上夏目を藤原家に置いておくわけにはいかない。夏目のためにも、藤原夫妻のためにも。失礼します、と田沼は強引に上り込み、階段を上って夏目の部屋を目指した。どうして、どうして、と心は悲鳴を上げるけれども、それでもせめて自分たちは夏目を守らなくてはいけない。短い距離なのに息を切らせて襖を押し開くと、畳に敷かれていた布団はもぬけの殻で、開いた窓がカーテンを揺らしていた。遅れてきた塔子が「うちに子供はいないのに、どうしてこんな部屋があるのかしら?」と不思議そうにしており、多軌が「この部屋はこのままにしておいてください。夏目君は必ず戻ってきますから」と涙ながらに頭を下げいてた。
その晩、ニャンコ先生によって、夏目は田沼の父が住職を務める寺へと運び込まれた。夏目の頬は夜目にも分かるほどに青ざめていて、本堂の奥まった一室に寝台を用意し、田沼はそこへ彼を寝かせた。父に話すことは出来なかった。ニャンコ先生が術をかけ、その部屋は許された輩しか見ることも入ることも出来なくなった。
以来、夏目はずっと、寺の中央で眠り続けている。
「・・・おかげさまで、いつも通りです」
いつの間にか慣れてしまった笑みで返す田沼の法力が目覚めたのは、高校を卒業する直前だった。もともとの素養はあったのだ。強い願いに引きずられて身体が目覚めたのだろう。ニャンコ先生はそう言って、田沼の力に感嘆を示した。もはや朧だった妖の姿もくっきりと見え、その気に中てられて体調を崩すこともなくなった。けれど田沼の力は、例えば名取のように、誰かを攻撃する類のものではなかった。結界を作り出し、浄化する。ただの人間ならばともかく、妖力や霊力を携えた者ならば、その一線に触れるだけで皮膚がただれ落ちるだろう。田沼の法力は守護のために存在し、彼はその力でもってして己の寺を、否、夏目を守っている。何人にも傷つけさせない、その堅い意志でもってして。
「会わせてはもらえないのかな?」
「すみません・・・。俺の力は、そんなに器用じゃなくて。どうしても入りたいなら、多軌に護符を貰ってきてください」
「うーん、それは難しそうだなぁ。彼女には嫌われているわけじゃないんだろうけど、どうも警戒されてるらしくて」
この痣の所為かな、と名取は今は左頬にいるヤモリの形を指さして苦笑する。知識に関して群を抜く多軌は、それこそ名取に匹敵するくらいの情報を有しているのだろう。だからこそ名取に、的場に対して警戒する。そんな多軌自身の霊力も上昇し、彼女の作り出す札は様々な能力を備えるようになっていた。本来ならばその力故に多軌も田沼の結界には入れないのだが、二人は血の盟約を結んだ。夏目の友人として、彼の眠りを共に守らん、共に目覚めを待たん。互いの血を交わして誓い合い、それがあるからこそ多軌は寺の中にも入ることが出来る。彼女の作り上げた護符を持った者も入ることが出来るようになるが、多軌がそれを誰かに渡すことはない。例外としてニャンコ先生、ただ一人を除いては。
「この前の会合で噂に上がった西の妖。あれは外れだった」
「そうですか・・・」
「友人帳の名前を見ることが出来れば、もっとスムーズに事は進むんだろうけれどね」
「あれは夏目と、夏目のお祖母さんにしか読めない文字ですから。いつもありがとうございます、名取さん」
田沼は深く頭を下げた。結界を作り出して夏目を守護する役目を自身に課しているため、田沼はこの土地を動くことが出来ない。いつだって待っていることしか出来ず、こうして誰かが来てくれるまでじっと堪えなくてはならないのだ。眠り続けている、高校二年生のまま成長を止めた、夏目と二人。
「いや、礼には及ばないよ。夏目は私の友人でもあるのだから」
「・・・そうですね」
「また来るよ。夏目によろしく」
帽子を被り直し、踵を返して名取は自然の中を去っていく。追従するようにお面を被った式が一度振り返り、けれども前を向いて名取の後に従った。木々の中にその姿が見えなくなるまで見送り、田沼は振っていた手を下ろす。その動作は気落ちした分だけ重くなっていたけれども、もう、慣れてしまった。本当は慣れてしまったらいけないのに。
夏目はまだ目覚めない。幼い横顔を眺めながら、田沼は日々成長していく。今年でもう二十三になる。本当なら夏目と共に高校を卒業し、大学に通い、きっと今頃就職していたはずなのに。どこで道を間違えてしまったのだろうか。西村や北本、笹田とは今も連絡を取り合っている。藤原夫妻の元も時折訪れている。いつか夏目が眠りから覚めたとき、彼らの記憶も戻ると信じて。
田沼は今日も一人、友人の傍らに佇んでいる。
多軌と共にニャンコ先生がやってきて、夏目の様子を見て、少し報告などを話して、夕食を食べて、そして二人は帰っていく。多軌の護符を張り付けたニャンコ先生は、田沼の結界の中だとただの猫になってしまう。そのため日頃は多軌の家におり、昼間は夏目を襲った妖を探して姿を消しているらしい。周囲に家も店もない八ツ原は、夜となると完全に闇と同化してしまう。それでも慣れ切った足取りで参道を戻り、田沼は下駄を脱いで母屋に上がった。途端に電話のコール音が鳴り響いたので、少し慌てて回廊を進む。はいはい、と誰にも聞こえないのに返事をして、田沼は古めかしい黒電話の受話器を持ち上げた。
「はい、田沼です」
『こんばんは、的場ですが』
「? ・・・っ! 何で、あんたが」
名前は知れど、接触は六年前に一度、夏目の家の前でした限りの相手に、田沼は忘れかけていた記憶を取り戻した。多軌もニャンコ先生も名取も、誰もが的場には気をつけろと言う。彼の妖に対する姿勢はあくまで「使役する対象」であり、それは田沼の、夏目の意志に反する。警戒に語尾を強めれば、電話の向こうで相手がくつくつと笑う。
『おやおや、私にそんな態度を取ってもいいんですか?』
「何・・・?」
『せっかくいい情報を教えて差し上げようと思ったのに』
田沼が聞き返せば、楽しそうに的場が綴る。涼やかな声が回廊に響き渡った。
『見つけましたよ。夏目君を襲った妖』
それは美しい夜のことだった。
田沼と多軌が23歳。名取さんと的場さんは三十路かオーバー。夏目は永遠の17歳中。
2012年3月17日