【「散らない花になりたかった」を読むにあたって】

この話は、映画「ナルニア国物語 第二章 カスピアン王子の角笛」のネタバレを含みます。
ネタバレが嫌な方は、どうかご遠慮ください。ちなみに原作は読んでおらず、今後も読む予定は今のところありません。あくまで映画をベースとしておりますので、どんな話でも大丈夫という方のみご覧くださいませ。
閲覧後の苦情は申し訳ありませんがお受け出来ません。少しでもやばいと思われた方は今すぐお戻りくださいませ。むしろレッツリターン!



▼ 大丈夫です、読みます ▼












































もっと一緒に。自分が必死の思いで飲み込んだその言葉を、彼はあっさりと口にした。だから、分かれた。違うのだと判ってしまったから。





散らない花になりたかった





図書室が好きだ。古い紙の臭いと、並んでいるでこぼこの背表紙、窓から入ってくる薄い日差しに、適度な距離を置いてぽつりぽつりと存在している人たち。得られる知識は大切なものだし、それらは血となり肉となりスーザンを生かしてくれる。もちろん書面から得られるものばかりではないと知っているけれども、それでもスーザンは読書という行為が好きだった。ひとりになれるその時間を、彼女はこよなく愛おしんでいた。
流れるようにして文字を追っていた意識の片隅に、慣れ親しんだ気配が入ってくる。もうそんな時間かと思い、スーザンは手にしていた本にポストカードを挟んだ。緑の草原と青い空、そして南米の遺跡の写っているそれを栞代わりとして使っているのだけれど、もう角が磨り減って汚れてきている。そろそろ新しいのに変えるべきなのかもしれないと考えながら、席を立ち、カウンターへと向かう。
「貸し出しお願いします」
自身の図書カードと一緒に本を出せば、係りの少年が目を見開き、そして慌てた所作でそれらを受け取る。裏表紙を開いて書き込まれていく己の名前は、意外なことに繊細な字をしていた。どうぞ、と差し出されて、ありがとう、と受け取る。鞄にしまって出口へと足を向ければ、図書室だというのに後ろから大きな声をかけられた。
「あのっ・・・! そのシリーズの新刊、来週入るから・・・・・・っ」
取り置き、しておきましょうか。上ずった声に図書室にいた他の数名の学生たちが、それぞれ目を通していた本から少しだけ顔を上げて視線を寄越してくる。野次馬的な好奇心に苦笑しつつ、スーザンは眦を下げた。係りの少年の耳朶が赤く染まっている理由を知らないわけではないけれど、新刊を誰より早く読めるのは魅力的だ。好意ではなく厚意の笑みで、スーザンは「ありがとう。お願い」と答えて、今度こそ図書室を出るため歩き出した。扉に背をもたれさせて立っていたピーターが、呆れたように肩を竦めたのが印象的だった。
放課後になって少し時間が経っているため、廊下は人通りがそう多くない。それでも擦れ違う同級生たちは、ピーターかスーザンのどちらかには手を振って挨拶をしていく。数ヶ月前までは反抗的な態度で問題を起こしていたピーターも、今では男女共に広く慕われていた。スーザンはその聡明さと美しさに磨きがかかったと囁かれており、この兄妹に共通しているのは、学生だとは思えない落ち着いた物腰と大きな器だった。まだ自己の形成されていない子供たちばかりの中で、二人は明らかに異質であり、けれど特異ではなかった。まるで導かれるようにして、二人を中心に人の輪が作られていく。その理由を当の二人は理解していた。
「大人気だな、スーは」
隣を歩く兄の言葉に、スーザンは小さく笑う。
「ピーターこそ大人気よ。『お兄さんを紹介して』って、何人のクラスメイトに言われたか」
「悪いけど断っておいてくれ。今はそういうことを考える気はないから」
「そう言うと思ったから、先に断っておいたわ」
ちらりと上から向けられた悪戯な眼差しに、スーザンも同じものを返す。恋愛に興味が無いわけではなかったが、特別誰かを想うには、まだ出会いを得ていない。正直、十代半ばの幼い少女たちに想われるのにはいささか辟易しているのだという兄の心情を、スーザンは適確に理解していた。
恋は確かに素敵なものだろう。誰かひとりを想うという、その精神には崇高ささえ感じる。けれどそれは同時に視界を狭くすることでもあり、そうして見えなくなってしまうものをピーターもスーザンも怖れていた。何かにのめり込むには、何かに独占されるには、自分たちはあまりに多くのことを知りすぎてしまった。世界の広さを学んだからこそ、ひとつのものだけに目を向けられない。これは大人になるということよりも、玉座に座り、国を支配した過去の経験に拠るものだろう。この手は多くのものの命を奪い、それでもこの足は最善を尽くすために歩み続けてきた。今更個として生きるには、あまりにこの世界は狭すぎる。それに。
「スーこそ、誰かいないのか?」
さり気無さを装ってかけられる問いかけは、まだ硬さを含んでいる。失笑するには傷跡が風化しきれていなくて、いつも形ばかりの応えになってしまう。鞄を握りなおして、スーザンは目を細めた。
「今はこれから先、自分がどう生きるかだけを考えていたいの」
「・・・・・・そうだな。僕たちはこの世界で生きていかなきゃいけない」
そう告げて前を向くピーターの横顔は、すでにあどけなさを削ぎ落として、男のそれになっている。スーザンの体躯も柔らかさと弾力を帯び、表情は陰翳を備え始めた。彼らは大人になろうとしている。



校門は多くの生徒で溢れていた。みな、これから寄宿舎に戻るのだろう。邪魔にならぬよう端の木に背を預けて今日の授業の内容を話していると、遠くから「スーザン! ピーター!」と高い声に名を呼ばれた。人混みを縫って駆けてくるのは末の妹であるルーシィで、その後ろからは二人分の鞄を手にしている弟のエドマンドの姿もあった。あっという間に二人の元に辿り着いたルーシィは、その勢いのまま姉に抱きついた。
「スーザン、スーザン!」
「どうしたの、ルーシィ」
「あのね、さっきわたしとエドマンド、ナルニアに行ってきたの! それで、これっ!」
興奮したまま、ルーシィは握り締めていた右手をスーザンの前に突き出した。
「カスピアン王から、スーザンにって!」
強く握られたせいか、少ししなびて鮮やかさを失っている一輪の花。その質素さに息を呑んで目を見開いたわけではない。ピーターがはっとして顔を向ければ、スーザンは表情を硬くして蒼白になっている。ルーシィはこの花を姉に渡せることが嬉しいのか、ただただきらきらと笑顔を浮かべている。ようやくやってこれたエドマンドは、ルーシィの分の鞄を地面に下ろして注釈した。少しだけ潜められている声だったが、そうでなくてもスーザンには届かなかっただろう。彼女はただ恐ろしいものを見るかのように、目の前に差し出されたスイートピーを見つめている。
「本当は、以前からいろいろ渡されてたんだ。手紙とか服とか・・・・・・アクセサリーとか」
「カスピアン王子・・・・・・じゃない、カスピアン王から?」
「そう。だけど今まではこちらの世界に持って帰ってこれなくて、今回初めて成功したんだ」
スーザンのためには失敗した方が良かったのかもしれないけれど。小さく付け足されたエドマンドの言葉に、ピーターは奥歯を噛み締める。懐かしいと語るにはあまりに生々しい記憶が、しなびた花を切っ掛けに堰を切ったように溢れかえってくる。美しい自然、頼れる仲間、偉大なるアスラン、そのすべてが愛おしい。去らなくてはならなくなったとき、もう二度と来れないと理解したとき、どんなに虚無がこの心を襲ったか。それでも分かれることを選べたのは、得たものが限りなく大きかったからだ。旅立つときが来たのだと、素直にそう思うことが出来た。
だけどスーザンはピーターと同じで、それでいてひとつだけ違ったのだ。それでも聡明な彼女は自身の存在について理解し、そして受け入れた。だからこそ望まれてもカスピアンの手を取らなかった。恋を殺したのだ。彼女は、自らの手で。
「ほらスーザン、早く!」
ルーシィは姉の手に花を押し付けて握らせた。うまく動かないスーザンの指を上から包み込むようにして、花を握らせてしまった。触れたことで確かな存在だと感じてしまったのだろう。スーザンの形の良い眉が歪に歪んで、泣くのを堪えるかのように唇を噛み締める。ルーシィはそれを喜びと取ったようだが、エドマンドは舌打ちして視線を逸らした。ピーターはじっと、妹の震える睫毛を見つめる。弟から聞いて、彼はまだ、カスピアンが妻を娶っていないことを知っていた。時の流れの違うナルニアでは、もう何百年も経っているだろうに、それでも。
未練ね、とスーザンが呟いた。その横顔は子供ではなく、もはや女のものだった。





スーザンが新しい栞を作るのを、ピーターはただ見つめた。そこには少し歪なスイートピーの押し花が、時を止めて飾られていた。
2008年5月25日