光の渦へ
酷く、心が高調している。手足が冷たくなっていく一方で、頭はとても冷静だ。胸に手を当てればとくとくと常より早い鼓動が感じられて、烈は己の浮き立ちように苦笑してしまう。広い通路の片側に張られている鏡で、全身をくまなくチェックする。黒い半袖のカットソーに、グレーのノースリーブカーディガン、赤いチェックの巻きスカートに似たキュロットに、手袋は少し厳つい皮製で、髪は下ろしたままピンで何箇所か留めている。足元のロングブーツ風のインラインスケートすら特注で、これらはすべてミハエルによる見立てだ。烈君のためにデザイナーを呼んだんだよ、と嬉々として準備していた様子が思い出され、烈は小さく苦笑する。腰に巻いているポーチを開いて忘れ物がないか確認していると、大きな声がスピーカーを通して響き渡った。
『レディース・アーンド・ジェントルマン! 只今より第十回WGP開催記念、スペシャルレースを開催するぞ! 今回はなんと、第一回WGPに参加したレーサーたちの登場だ! 大きくなった彼らが再び、この舞台に帰ってきたぞ!』
わああ、と会場の盛り上がりが控え室であるここまで聞こえてくる。足元を揺らすような歓声に、烈は思わず天井を見上げてしまった。時を経てなお若々しいファイターの声に懐かしさが込み上げてくる。
『今回は二人組みによるリレー形式だ! 途中のポイントで交代し、最も早くゴールに辿り着いたペアが優勝だ! かつて世界の頂点にいたレーサーたちの熱い戦いを見逃すな!』
「『かつて』とは言ってくれるな。我々とて今WGPに参加しても優秀する自信は十分にあるというのに」
「仕方ありませんよ、シュミット。僕たちの世代は大半が公式戦から遠ざかっていますし」
肩を竦めるシュミットと、宥めるエーリッヒを烈は振り向く。今回ペアを組んでいる彼らは、互いのユニフォームをワインレッドで固めていた。それはかつてのアイゼンヴォルフを思い起こさせ、ふわりと微笑を誘われる。ちなみにミハエルは不参加で、プロのミニ四駆レーサーになったため出場禁止の豪と共に、今は客席にいるはずだ。
『一組目から優勝候補の登場だ! 誇り高き鉄の狼! アイゼンヴォルフの双璧と呼ばれた、シュミット・ファンデルハウゼン・フォン・シューマッハ! そしてエーリッヒ・クレーメンス・ルーデンドルフ!』
歓声と拍手が先程よりも大きくなる。中でも女性による黄色い声が大きく、シュミットが肩を竦めるのに烈は笑った。そんな彼女をちらりと見て、シュミットはインラインスケートを滑らせ始める。
「レースはレース。手加減はしないぞ」
「もちろんだよ。負けないから」
「先に行ってます。大丈夫ですよ、レツなら」
「ありがとう。いってらっしゃい、エーリッヒ君」
光の中へと消えていく背を見送る。一層客席の反応が大きくなって、二人の姿がコース上へと現れたのだろう。通路のモニターにも二人の手を振る姿が映し出される。その様は実に堂々としていて、彼らがこういった注目の場に慣れていることを感じさせた。次々に選手の名が呼ばれて、彼らも会場へと向かっていく。
シルバーフォックスからは、ユーリがセルゲイと共に来ていた。彼らは今、ロシアでミニ四駆を布教するべく事業を立ち上げているのだと言う。サバンナソルジャーズからは、ジュリアナとサリマが来ていた。彼女たちは今、それぞれ教師と看護婦という仕事についているらしい。小四駆走行団光蠍からは、ポンとリーチが来ていた。彼らは今、香港で働きつつ、ポンの方は結婚も決まっていると語った。オーディンズからは、ワルデガルドとニエミネンが来ていた。彼らは今、学生をやっているのだと笑っていた。ARブーメランズからは、ジムとシナモンが来ていた。彼らは今、プロへの試験を受けている最中らしい。クールカリビアンズからは、ピコとリタが来ていた。彼らは今、ミニ四駆と音楽を合体させた新しいダンスを考えていると言う。
唯一ロッソストラーダからは誰も来ていなかったけれど、それは仕方のないことかもしれないと烈は思う。感慨深いライバルだったカルロは、今や豪と並ぶ有名なプロレーサーだ。バトルレースから一切足を洗ったカルロの走りをテレビで見る度に、烈は何故か我がことのように誇らしくなる。
『そして最後の一組はなんと! WGPでも伝説になっている、最強の二人が手を組んだ!』
この日のために改造した、新たなソニックをそっと地面に下ろす。モーターの回り始める音がする。ドイツに留学し、物理を基礎から学び、自ら理論を組み立てて、何度も何度も失敗に失敗を重ねて、それでも今の烈に作り出せる最高のマシンだ。いくよソニック。囁いて、スタッフたちに見送られ、烈は光の中へ向かって駆け出す。
『コーナリングの貴公子! 第一・二回WGPでTRFビクトリーズを優勝に導いたリーダー! 音速のソニック―――星馬、烈!』
わあああ、と歓声は怒涛のようだった。その中には少なからず戸惑いも混ざっていて、それが烈の身を硬くさせる。けれども豪の「烈姉貴、負けんなー!」という声が鮮明に聞こえて、地を蹴る足に力を込めた。久し振りのコースはとても鮮やかで、見回す周囲はあまりに広くて、ドームはこんなに大きかったのかと今更ながらに実感する。ああ、と烈の唇から喜びの吐息が零れ落ちた。
『第一・第二回WGPでは登録ミスで少年として出場していたけれども、烈君は紛れもない女性! 今はドイツの大学に留学して、ミニ四駆の開発に携わっているぞ! ソニックの華麗なるコーナリングも衰えていない! みんな、瞬きして見逃すな!』
烈様、とチイコの黄色い声が届いて、振り向けば招待席で藤吉と並んでいる彼女が見えた。その隣には土屋博士がいて、仕事で忙しいだろうにリョウも次郎丸来てくれている。Jが頑張ってと伝えるかのように手を振ってくれたので、小さく振り返せば、何故か彼らではなくその後ろの観客たちが盛り上がってしまった。烈ちゃん、という初めて向けられる歓声の呼び名に、頬が自然と紅潮してしまう。それでもスケートを走らせて、烈はパートナーの元へと向かった。並んでいるレーサーたちの中、一際目立つ存在が迎え撃つようにして立っている。
『そして烈君の相方を務めるのは、こちらも凄い! 最年少宇宙飛行士! 元アストロレンジャーズのリーダー! クールな天才―――ブレット・アスティア!』
喝采にドームが揺れる。辿り着いた先、かつてと同じようにバイザーをつけているブレットを、烈は申し訳無さそうに見上げた。
「ごめんね、ブレット君。忙しい君を引っ張り出しちゃって」
「カリキュラムはすべて計算している。この程度のレースは負担にもならないな」
シンプルな服装に身を包み、ブレットはあっさりと答える。照明を浴びて輝いたバイザーの下、青い瞳が挑発的に笑った。
「それに言う言葉が違うんじゃないのか、レツ・セイバ?」
ふっと烈も笑みを浮かべる。懐かしい大舞台を前に高まっていた緊張が、すべて興奮へと摩り替えられた。小さな手のひらを拳に変えて、目線の高さまで持ち上げる。
「腕は鈍ってないだろうね? コースアウトなんかしたら指差して笑ってやるから」
「オーケー。それでこそ俺の知るレツだ」
「嘘。頼りにしてるよ、ブレット。これ以上ないって程ね」
ブレットも手を上げ、二人の拳が軽い音を立ててぶつかった。それぞれのスタート地点に向かうため背を向け合い、離れる。
ソニックを拾い上げ、烈は愛機を抱き締めた。公の場に戻ってこれたことで鮮明に感じている。この世界に携われることが、こんなにも嬉しい。ミニ四駆が愛しくて、烈は心から微笑んだ。今なら誰にも負ける気がしない。大観衆の中、ソニックに唇を落として、彼女はスタートラインに並んだ。ファイターのカウントが始まる。スリー、ツー、ワン。
いくつもの夢が、光に向かって駆け出した。
パートナーとして考えるなら、烈君にはブレットかなぁと思いまして。
2008年8月28日