スタート、ラヴ・ソング!
『エーリッヒ、反省会だよ。五分後に集合ね』
携帯電話が特定の着信音を鳴らし、嫌な予感を覚えながらも出てみれば、懐かしい台詞が端的に用件を述べて通話を切った。ツーツーと無機質な音を鳴らす機械を見つめながら、エーリッヒは突如やってきた眩暈を堪えるべく額に手を当てる。
「・・・・・・ここからミハエルの家まで、どれだけの距離があると思っているんですか・・・」
それでもリーダーの命令は余程のことがない限り絶対のため、エーリッヒは力なく身支度を整え始める。これは多分、ばれたんですね、と小さく呟き、彼は自分ひとりだけの幸福だった時間に泣く泣くと別れを告げた。
「遅いよ、エーリッヒ。二時間三十五分十七秒の遅刻だよ」
「・・・・・・すみません」
大学に通うため借りているベルリンのアパートから、ミハエルの自宅というより城と言った方が相応しい豪邸のあるバイエルンまで、どこにも寄り道せずに特急列車に乗ってきたというのに、開口一番与えられたのは遅刻に対する叱責だった。どんなに理不尽だろうとミハエルの言い分には逆らえないため、謝罪を口にすれば「まぁいいけど」という言葉が返される。誘われて部屋に入れば、ミハエルの向かいでシュミットが涼しい顔で紅茶のカップを傾けていた。エーリッヒと同じ大学に通い、アパートも近い彼が自分より早くこの場所に来れるわけがない。そう考えれば、この呼び出しがミハエルだけでなくシュミットからのものであることも明白で、輪をかけてエーリッヒは脱力してしまいそうだった。メイドが紅茶を入れて、そのまま一礼して下がっていく。しばし広がった沈黙も、エーリッヒにしてみれば嵐の前の静けさにしか感じられない。
「何で呼び出されたか、分かってるよね?」
ビロードのソファーに背を預け、にこりと微笑むミハエルは、WGP第一回の頃と比べて見違えるほどに成長している。身長は175センチメートルを超えたくらいだろうが、もともと華やかだった顔立ちはより鮮明になり、何より彼の持つ独特の強者たるカリスマが確固たるものになっていた。幼少期の身体の弱さも克服し、今やヴァイツゼッガー家の次期当主として、広く財政界で知られている。
「・・・・・・一体、何のことだか」
「言い訳は見苦しいぞ、エーリッヒ。そこまで言うのならば二週間前の12月27日、どこで何をしていたかタイムテーブルにして提出してもらおうか」
ぴしゃりと言い放つシュミットは幼い頃から冷静だったが、成長するにつれて更に貫禄を備え始めた。他者を見下すような態度は相変わらずだか、それ相応の努力をし、実力を備えているのだから誰も文句は言えない。涼やかな容姿に引かれる少女も多いらしく、大学に入っての約一年で、すでに告白を二桁数されているのをエーリッヒは知っていた。そんな彼自身も、想いを告げられる回数はシュミットと似たり寄ったりなのだが。
「論より証拠。言い逃れ出来るなら、してくれても構わないよ?」
パチン、とミハエルが指を鳴らせば、シュミットがDVDの再生ボタンを押す。巨大プラズマテレビに映し出された映像には、エーリッヒも覚えがあった。アイゼンヴォルフの練習用コースだ。高低差やオフロード、数々のコーナリングなどを備えているそれは、土日の休みには一般のレーサーにも公開されている。位置からして、コース内に仕掛けられている監視カメラの映像だろう。映っている自分の着ているセーターにもパンツにも、エーリッヒは覚えがあった。その隣にいる、小柄な赤い髪の少女にも。スーツ姿の初老の男が、瞳をきらめかせながらスタートのフラグを振った。
「ヴィーデマン教授を呼ぶなら、先に言っといてもらわなきゃ。教授には僕らもお世話になってるし、挨拶もしないなんてアイゼンヴォルフの品位を疑われちゃうよ」
「・・・・・・申し訳ありません」
「おまえが走らせているのはベルクカイザーだな? しかもこの加速、開発されたばかりのエンジンを載せているだろう。一軍をすでに退いているとはいえ、おまえが機密を漏らすような真似をしてどうする?」
「・・・・・・返す言葉もありません」
「謝るより先に、言うことがあるんじゃない?」
エーリッヒが俯けていた顔を上げれば、ミハエルもシュミットも、ただじっとテレビ画面を見つめていた。細いコースを、二台のミニ四駆が競うようにして先を争っている。赤いマシンは直線で風を切り、コーナーで余計な膨らみを見せずに滑らか且つ鋭く抉り、さらにスピードを上げてゆく。その車体を追って走る少女の顔は、カメラには映らない。ただマシンと同じ燃えるような赤い髪が、楽しそうに左右に揺れている。マシンがまたコーナーを曲がり、エーリッヒのベルクカイザーを突き放した。
「WGPは、今年を含めて八回開かれた。チームもレーサーも代替わりして、マシンも進化して、コースだっていろいろ変わってきたけれど、それでも僕は、このマシン以上に美しくコーナーを回る存在を知らない。誰も、この存在以上には成り得ない」
ミハエルの声は重い。その感情の深さを感じながら、エーリッヒは思い返していた。初めてのWGPで、ミハエルの築いていた不敗神話を打ち破ったのは誰だったか。その存在に、己を第一としてきていたミハエルが固執しなかったわけがない。日本に行く度に家を訪ねていたのだと聞いている。弟の豪に願い出たけれど、何度となく断られていたことを知っている。振り向いたミハエルの瞳は真摯で、エーリッヒはこれ以上誤魔化せないことを悟った。
「―――エーリッヒ、彼女は誰?」
いつしかシュミットもこちらを見ており、偽りを許さない目を向けられている。自然と唾を飲み込み、エーリッヒは膝の上の手を握り締めた。息を吸い込み、吐き出す。それは溜息となる前に苦笑に変わり、エーリッヒは柔らかに二人を見返した。
「・・・・・・ご推察の通り、彼女はレツ・セイバです。その画面に映っているマシンは彼女の愛機、ソニックに違いありません」
ほう、と吐息が漏れた気がした。眉を顰めてシュミットが問うてくる。
「・・・・・・レツ・セイバは男じゃなかったか?」
「いいえ、女性です。WGPの際は主催者側が登録ミスをし、そのまま男の振りをしていたそうです。初めての世界との対戦において、自分が女であることを舐められたくなかったそうで」
「なるほど。だから中学以降の公式戦には出てこなかったのか」
「はい。今回はドルノ大学に留学するべく、下見としてドイツを訪れていました。ヴィーデマン教授とも、その縁で」
「大学はこちらに来るのか。それは面白そうだな」
「何でもTRFビクトリーズ以外に自分が女性だと知らせたのは、僕たちが初めてだそうですよ」
「ということは、アストロレンジャーズはまだ知らないということか。それはいい」
腐れ縁でありライバルでもあるブレットの存在を思い描いたのか、シュミットが楽しげに唇を歪める。その間もミハエルはずっと沈黙を保っていて、エーリッヒはそわそわと気になって彼を見るけれども、リアクションは返されない。豊かな金色の前髪が瞳を隠し、すっと通った鼻筋はまた、テレビ画面へと向けられている。ソニックがゴールへと到着し、ようやく映し出された少女―――星馬烈は、鮮やかな笑顔を浮かべていた。実力主義を掲げるミハエルのことだから、烈が女性であったとしても彼女を蔑視することはないだろう。そう信じてはいるけれども、無言はあまりに居心地が悪い。その様子に気がついたのか、シュミットが「ミハエル?」と呼びかけるけれども返事はなく、代わりにその手はサイドテーブルの電話を持ち上げた。何をするのかと見守っていれば、ミハエルはボタンを押した後、受話器に向かって話し出す。
「あ、もしもしパパ? 僕だけど。うん、ミハエル。あのね、ギムナジウムを卒業したら、やっぱり大学に進学するよ。え? ああ、どこでもいいよ。ベルリンでもハイデルベルクでも、どっちでも。だから今すぐ家を出て、ベルリンの別邸に移るから。そこにレツ君もホームステイさせたいんだけど、いいよね? 部屋はいっぱい余ってるんだし」
え、と二つ重なった驚きなど構うことなく、ミハエルは唇を吊り上げていく。現れた瞳はきらきらと興奮に満ち満ちていて、頬は薔薇色に紅潮している。不味いですよ、と呟いたのはエーリッヒで、気の毒に、と囁いたのはシュミットだ。
「レツ君はレツ君だよ。日本人の女の子。うん、だからこの前の見合いの話も断っといて。えー、だって僕、そこらへんの子に興味ないし。その点、レツ君ならいいかな。可愛いし綺麗だし、頭もよくて礼儀正しくて、何より僕に勝ったこともあるんだよ。きっとパパとママも気に入ると思う」
「ちょ、ちょっと待ってください、ミハエル」
「やった、ありがと! じゃあ今度の日曜日に、一緒にレツ君の家に行ってね! ゴー君は僕が説得するから、パパたちはレツ君のご両親を説得してよ。大丈夫、そうしたらちゃんと大学も真面目に通うから!」
「ミハエル、そんな勝手に」
「ありがとう! さすがパパ、愛してるっ!」
幾度の待ったにも関わらず、ミハエルは上機嫌のまま電話を切ってしまった。エーリッヒの伸ばしていた手は中途半端に終わってしまい、シュミットはもはや諦めたのかDVDを巻き戻してレースを最初から見始めている。呆然としているエーリッヒに向かって、ミハエルはまるで華のように笑った。
「レツ君の卒業式の日が楽しみだね!」
・・・・・・卒業式当日に攫ってくる気ですか、とエーリッヒは顔色を失くした。その一方でシュミットは、春からの苦労が減りそうだな、と何気に喜んでいたという。
ドイツには疎いので、地理とかそこらへんには目を瞑ってやってください・・・。
2008年8月26日