待ちわびる春の花
メールにて打ち明けられていたし、実際に納得もしていたけれど、それでもどこか現実的には捉えていなかったのだと、そのときになってエーリッヒは自覚した。クリスマスを終えて、年末年始を海外で過ごす人たちで賑わう空港の中、周囲を見回すようにしてターミナルから降り立った少女に、エーリッヒの目は奪われてしまった。赤い髪が柔らかに揺れて、こちらを見とめた瞳が嬉しそうに綻ぶ。
「久し振り、エーリッヒ君」
その高く心地の良い声を聞いて、エーリッヒようやく身も心も理解した。自分の知るレツ・セイバは、紛れもない女性なのだと。
「やっぱり寒いね、こっちは」
「そうですね、特に今年は雪も多いですし」
「だけど街が綺麗だ。日本とは全然違うけど、素敵だね。アイゼンヴォルフって雰囲気がする」
ふふ、と漏らされた笑いが白い吐息になって宙に溶ける。烈の一人用のトランクをエーリッヒが持ちながら、二人は並んでハンブルクの通りを歩いていた。エーリッヒが烈から、高校の冬休みを利用してドイツを訪れたいという旨のメールを貰ったのは、一ヶ月ほど前の話だ。二回のWGP以降、直接顔を合わせることは無かったけれども、まめな性格をしている二人は季節の折々に際してメールや手紙を交換している。その中で約三ヶ月前に、エーリッヒは烈からドイツの大学に進もうと思っている、ということを打ち明けられていた。驚いたけれども、諸手を挙げて歓迎した。エーリッヒは烈の礼儀正しさや機転の速さを好ましく思っていたし、何より中学生にあがって以降、レースに参加していない烈がミニ四駆への情熱を失っていなかったことを知れて嬉しく思ったのだ。是非来てください、とエーリッヒは誘い、今回のショートステイの宿も自分の家を使ってくれるよう申し出た。悪いよ、と遠慮した烈を、少し強引に押し切ったのは最近のこと。
「ごめんね。せっかくの休みを案内なんかに費やさせちゃって」
「いいえ。烈にドイツを見せることが出来て嬉しいですよ。前から、一度この国を見てほしいと思っていたんです」
「ありがとう。僕も一度、来てみたいと思ってたんだ」
ふわりと笑う烈は、空港に降り立ったときと同じく白いコートに身を包んでいる。その裾から僅かに覗いているのはスカートで、タイツに覆われた足がショートブーツへと吸い込まれていく。赤い髪は肩につくくらい長くて、化粧をしていないのに薔薇色の頬と唇が鮮やかだ。七年前にも十分あった身長差が、今ははっきりとしたものになってしまっている。先日測ったときに185センチを超えてしまったエーリッヒの、肩にも烈の額は届かない。小さくて細くて、頼りないほどにエーリッヒには見えてしまう。
「明日は確か、ヴィーデマン教授とお会いする約束でしたよね?」
「うん。土屋博士が知り合いで、今回の機会を作ってくれたんだ。明日話をして、僕がこっちの大学でやっていけるか見定めてもらうつもり。ついでに、ミニ四駆の世界で生きていけるのかも」
「教授には僕たちもお世話になっています。何よりアイゼンヴォルフは、ヴィーデマン教授の理論も多く取り入れさせて頂いてますし」
「ヴィーデマン教授はドイツのミニ四駆理論の権威だものね。Jaが貰えたら、留学生枠でドルノ大学を受験するよ」
「ゴー・セイバは何て?」
こちらは七年間の間に数回会っている弟の名を挙げれば、烈は明らかに眉を顰めた。むう、と尖らされた唇で、拗ねたように答える。
「留学の話を切り出した途端、猛反対で喧嘩勃発。それ以来口も利いてない」
「それはまた・・・」
「父さんと母さんは賛成してくれたんだけどね。好きなことにチャレンジしてみなさいって」
「ゴーも、レツと離れてしまうことが寂しいだけですよ。必ず分かってくれます」
「そうだといいんだけど。そっちこそ、ミハエル君やシュミット君は元気?」
「ええ、それこそ心配いらないほどに」
「あはは、それは良かった」
笑う烈が自分たちと同じ少年ではなく、異性の少女であったことをエーリッヒはミハエルにもシュミットにも告げていない。正確に言えば、この年末に彼女がドイツに来ていることさえも教えていなかった。それは烈自身の「まだ留学できるって決まったわけでもないし」という言葉もあるし、内緒にしておきたいとエーリッヒ自身が思ったからでもある。烈は、エーリッヒにとって良き理解者だ。ミニ四駆についての造詣が深く、理論的な話も可能だし、何よりチームメイトに対する苦労も分かち合うことが出来る。そんな存在をミハエルたちに渡したくないと考えてしまうのは、仕方のないことだろう。
「それはそうと、エーリッヒ君。明日、本当にアイゼンヴォルフのコースを借りてもいいの?」
「ええ、もちろん。一般の方にも解放しているコースですけれど、予約を入れておきました。ヴィーデマン教授にソニックを見せて欲しいと言われているんでしょう?」
「うん。久し振りに本気でメンテナンスしたよ。日本では土屋博士のところで走らせてもらってるけど、誰かの前でレースするのは久し振りだし」
「僕もご一緒していいですか? レツが来てくれると知って、僕もベルクカイザーを調整したんです。今度は負けません」
「僕だって負けないよ? 公式戦には出てないけど、今でも豪にだって勝ってるんだから」
勝気な言葉と共に見上げてきた烈に、エーリッヒは「楽しみです」と応えながらも嬉しくなって笑ってしまった。彼女と七年振りに再会してからこっち、抱いていた違和感が完全に溶けてなくなった。その感情が顔に出てしまったのだろう。不思議そうに首を傾げる烈に、エーリッヒは足を止める。
「どうかした?」
「いいえ。ただ、レツはこんなに魅力的な女性なのに、どうして七年前の僕は気づけなかったのかと反省していたんです」
「・・・・・・エーリッヒ君、ちょっと会わない間に口がうまくなったね」
「本当のことですよ? だけどレツは全然変わっていなくて、そのことに安堵したのも事実です」
微笑めば、烈が更に首を傾けて、赤い髪がさらさらと白いコートの上を流れる。愛らしい、美しいと感じながらも、エーリッヒの胸を満たすのは感動に近い歓喜だった。目の前に、烈がいる。鮮やかな存在感は七年前と変わらない。
「男性だろうと女性だろうと関係ありません。あなたはミニ四駆を愛している、僕の尊敬するレツ・セイバです」
「・・・エーリッヒ君」
「ドイツはあなたを歓迎します。必ず大学に受かってくださいね。レツと共に過ごせる日々が、今からとても楽しみです」
やはり、ずっと男だと偽っていたことから、軽蔑されるのではないかという危惧があったのだろう。目を瞠っていた烈が安堵したように目元を朱に染めて、零れるように破顔した。その姿はどこからどう見ても18歳の少女でしかなくて、内に強い決意と信念を秘めていると知っているからこそ、より一層魅力的に見えて仕方がない。ありがとう、と烈が涙に潤みかけた声で囁いた。彼女の愛らしさに、道行くドイツ人たちも微笑ましく視線をやりながら擦れ違っていく。
とりあえずミハエルとシュミットには可能な限り長く秘密にしておこうと、エーリッヒは心に誓うのだった。
エーリッヒは紳士であると信じています。でもって苦労人で微策士だとも信じています。シュミットは罠はちゃんと張る。ミハエル君は全部ちゃんと予定通りかつイレギュラーに遊ぶ。
2008年8月21日