さぁ、手に手を取って駆け出そう
廊下を歩きながらぺらりぺらりと手の中の紙を遊ばせ、烈は少しだけ眉を顰める。それでも溜息を吐き出さないのは、目の前の紙が確かに必要なものであり、尚且つ己の人生にとって重要な意味を持つものだからだ。
「烈君、どうかしたの?」
「J君」
ぽん、と後ろから肩を叩かれて振り向けば、同じくホームルームを終えて教室を出てきたのだろうJの姿があった。出会ってからもう七年。高校生になった二人は同じ公立高校に通っており、学年も一緒なことから様々な話をしたりしている。烈にとってひとつ年上のリョウは高校に通うことなく働き始めてしまったから、どことなく大人という印象があるし、弟の豪はスポーツ推薦で私立高校に、藤吉は小学校から同じエスカレーターの名門私立に通っているから尚更のことだ。謙虚であり気も使えて、明晰な頭脳を持つJは、もはや烈の親友と言ってもよいのかもしれない。性別の壁などというものは、共にミニ四駆で世界を相手に戦った際に綺麗さっぱりぶち壊している。
「進路希望調査の最終提出書?」
紙の一番上に印刷されている文字をJが読み上げる。僕のクラスも配られたよ、と続けた彼に、烈は今度はパフォーマンスとして溜息を吐き出してみせた。
「烈君は大学、どこにするの? 確か進学希望だよね?」
「うん。行きたいところはあるんだけど・・・」
「けど?」
「・・・・・・ちょっと、非、現実的というか。いや僕にしてみればずっと考えてきたことだし、それなりに準備もしてきているつもりだから突然ってわけでもないんだけど」
プリントをファイルに入れて、そのまま鞄にしまう。高校三年生の夏も終えた二人は所属していた生徒会も引退し、寄るところもないため帰路につく。昇降口に向かいながら、「あー」だの「うー」だの悩む烈を、Jは優しい笑顔で見守った。互いに別々の下駄箱で靴を履き替え、再び顔を合わせたところで烈はじっとJを見上げる。昔からのことだが、高校生になったことで完璧についてしまった身長差が少し悔しい。
「笑わない?」
「もちろん。僕が烈君のことで笑ったことがあった?」
「・・・・・・ないけど」
Jは昔も今も変わらず、紳士然としている。こんなところが女の子に人気の理由かも、と頭の隅で考えながら、烈は尖らせていた唇を解く。すっと変わった真剣な表情に、Jが嬉しげに微笑んだことには気がつかない。
「留学をね、しようと思うんだ」
したいではなく、しようという意思の表現に、Jは烈君らしい、と心中で思う。昔から男の子に混ざってミニ四駆を走らせていた彼女は気が強くて、とてもしっかりしていて、それでいて少しだけ意地っ張りで泣き虫だ。己のうちに溜め込んでしまう性格は、逆に言えば己のことは己で決めるという意志の強さの現われでもある。だからこそ岐路選択で、いつか烈がそう言うのではないかとJは密かに予想していた。
「僕はゆくゆくは土屋博士みたいに、ミニ四駆を作ることに関わりたいと思ってる。走らせる楽しさを、もっと多くの人に知ってもらいたい。そのためには物理の基礎理論から学んで、多くの知識を得るべきだと思うんだ」
「日本は、まだまだミニ四駆が学問として成立してないからね」
「アメリカとドイツの大学では、ゼミでミニ四駆を扱うところもあるみたいだし。出来ればそこに入って、基礎からしっかりと学びたい。そして日本に戻ってきて、TRFビクトリーズに今度はスタッフとして参加したい」
「アメリカとドイツ、どっちにするの?」
「・・・ドイツ、かな。アメリカも捨てがたいんだけど、でもドイツ語の方が習得できてるし」
「じゃあ僕はアメリカにしようかな」
え、と烈が顔を上げると、Jは柔らかな笑顔の中で少しだけ瞳を悪戯に輝かせている。そういえばJ君の進路って聞いたことなかった、と今更ながらに烈は思い当たった。
「僕もね、土屋博士から『大学は海外に出てみたらどうかな?』って言われてるんだ。やっぱりドイツかアメリカで悩んでたんだけど、烈君がドイツに行くなら、僕はアメリカにするよ。それでお互いに違う方面からミニ四駆を学んで、帰ってきてTRFビクトリーズの力になればいい」
「J君」
「留学するのは一人でも、同じ志の人がいればきっと寂しくないよ。だから一緒に頑張ろう、烈君」
まさか応援してもらえるとは考えていなかったため、烈はぽかんと目を見開いてしまった。海外に出て行くなんて、こんな進路はまだ親にも、ましてや豪にも話していない。きっと弟の彼は盛大に反対するだろう。そんな岐路を、Jは応援してくれた。しかも同じ道を、ルートは違うとはいえ辿ろうとしてくれている。寂しくないよ、という言葉に何故だか胸が詰まって、烈は泣きそうな顔で笑った。ありがとう、と告げた声が掠れて、Jが嬉しそうに頷く。
今まで黙っていた未来の展望を話せたことで気が軽くなったのだろう。それからは二人して、明るい話ばかりをして歩いた。
「アメリカならアストロレンジャーズ、ドイツにはアイゼンヴォルフがいるし、きっと楽しくやっていけるよ」
「・・・・・・でも僕、ブレットやミハエル君たちに、自分が女だって言ってないんだよね。公式レースは中学生に上がったところで止めちゃったし、それ以降は会ってないし」
どうしよう、と眉間に皺を寄せる烈は、WGPのときは登録時の主催者側のミスを逆手にとって、リーダーであることを舐められないように男の振りを通していた。そのまま二回の大会を終えてしまい、結局は誤解を解く機会もなく今に到ってしまっているのである。豪は変わらずミハエルやニエミネンたちと連絡を取り合っているようだが、彼も烈が本当は兄ではなく姉なのだと話している様子は見られない。うう、と悩んで溜息を吐き出し、烈は力なく肩を落とした。
「とりあえず今夜、父さんと母さんに話して、それでオッケーがもらえたらエーリッヒ君にメールしてみるよ・・・」
「大丈夫だよ。烈君のご両親ならきっと、烈君の選ぶ未来を応援してくれるだろうし。アイゼンヴォルフのみんなも案外簡単に受け入れてくれて、ミハエル君なんか烈君をお嫁さんに欲しいって言い出しちゃうかもしれないよ?」
「勘弁してよ、J君」
あはは、と笑いながら辿る帰り道は、徐々に秋へと変わりつつある。いくつもの選択をして歩んできた道を今後も誇りを持って進み続けるために、烈は小さく拳を握り締めた。隣を見上げれば、Jがいつものように穏やかに笑い返してくれる。
ソニックに負けない走りをしよう。夕日に向かって、烈は自分自身に誓った。
これでドイツではミハエル君の城にホームステイとかになるんですよ。
2008年8月8日