講義を終えて生徒たちの質問を受け、予備校を出る頃にはいつも23時近くになる。それでも講師を辞めようと思ったことは一度もない。過去に罪を犯した自分を正社員として雇ってくれていることに対する恩もあるし、何より直也は講師という職が好きだった。教師だった母親の影響も大きい。知識を吸収して成長していく子供たちを見る度に、その手助けが出来ることを嬉しく思う。学問ばかりで人生は生きられないけれど、少しでも自分のように間違えることがなければいい。
事務員の女性に声をかけて予備校を出れば、すでに空は黒く、街中のネオンのせいで星は見えない。残念に思いながら視線を下ろせば、通りのガードレールに高校生らしい少年が腰掛けている。予備校生だろうか。もう遅いし早く帰った方がいい。そう告げようとした唇は、少年のパーカーの端から覗いたセピア色の髪に遮られた。
「秋?」
漏れた知り合いの名に、少年がくつくつと肩を揺らし始める。立ち上がる動作は重力を感じさせず軽やかで、フードを払うことで露になった素顔は、やはり直也の知る深山木秋のものだった。
「やぁ、直也。コンバンハ」
「秋! いつ帰ってきたの? 元気だった?」
「帰ってきたのは今朝方。おかげさまでこの通りピンピンしてる。直也も元気そうだね」
「うん、おかげさまで」
駆け寄ると、身長差が記憶の中より少しだけ開いている気がする。それでも目の前の秋が元気そうだったから、直也はほっと肩を下ろした。予備校から出てきた女子高生たちが、直也に気づいて声をかけてくる。
「木鈴先生、さよーならー」
「あ、うん。さよなら。気をつけて」
「その子誰ですか? うちの予備校の子?」
「もしかして木鈴先生の彼女!? いけないんだー先生、高校生に手ぇ出しちゃ!」
「違うよ、彼は」
「彼ぇ!? ってことは男!? うっそー!」
どこから誤解を解けばよいのか直也が言い繕うよりも先に、美少女が美少年だと知った女子高生たちが騒ぎ出す。矛先が明らかに秋へと向いてしまい、直也はどうしようかと困った。最近の高校生のパワーを侮ってはいけない。けれど、秋はやはり秋だった。
「ねぇ、木鈴先生ってどんな先生? 厳しい?」
にこりと秋が笑いかければ、三人の女子高生たちは黄色い声を上げて顔を見合わせる。初めての呼ばれ方がくすぐったいというよりは居心地悪くて、直也はまるで通知表を貰う小学生のような心境になった。
「えー、そんなことないよ? 木鈴先生、面倒見いいしー」
「授業も分かりやすいし、人気あるよね」
「そうそう、女子にも受けがいいの! 地味だけど優しいから」
「そうなんだ? それは知り合いの僕としても鼻が高いな」
だけど、と続けて、秋は直也の腕を取った。
「予備校も終わったし、これからはプライベートの時間。直也、僕に貸してくれるよね?」
意識してのウインクがこれほど様になる人を直也は知らない。女子高生の一人はぽっと頬を朱に染めたけれど、残りの二人はきゃらきゃらと笑った。
「いいよー! 仕方ないから貸してあげる」
「もしも予備校に入るなら絶対にうちに来てね! 一緒に木鈴先生の授業受けよ?」
「それもいいかもね」
ちらりと視線を向けられて、直也は曖昧に笑う。秋が生徒としていたらと考えてみるが、普通に授業を進められる気がしない。秋の視線ばかりを意識して、簡単な物理の問題も間違えてしまいそうだ。取られていた腕を逆に取って、直也は彼を引っ張った。
「秋、行こう」
「うん。じゃーね、また機会があったら。直也のことよろしく」
「うん、任されてあげる」
「またねー!」
「バイバイ」
「気をつけて帰るんだよ」
最後にせめて講師らしい言葉を告げれば、「はーい!」と元気の良い声が三つ重なって返ってくる。若人はむやみに元気だ、という秋の言葉に直也も苦笑しながら頷いた。駅へ向かいながら予備校が見えなくなったところで手を放せば、秋は軽いステップで隣に並ぶ。揺れた髪の長さすら変わっていない気がして、直也は嬉しくなってしまった。
「秋」
「何?」
「おかえり」
振り向いた秋がぱちりと眼を瞬き、「あー」とどこか気の抜けた声を出す。視線を一度ネオンの方にやり、そして苦笑しながら直也に戻した。
「・・・・・・これだから、やっぱり直也には敵わない」
ただいま、と大切な友は笑った。





の夜に歓







(朝までバスケをしたら互いに練習を欠かしていなかったことを知り、余計に嬉しさが加速した。)



2007年8月11日