宵闇と幸福の始まり
烏森の任務のために借りていたアパートは、久方ぶりだというのに埃っぽさはまったく無かった。限がいつでも戻れるように掃除をしておいたのよ、と笑っていた亜十羅を思い出し、心中で礼を呟く。必要最低限しか物のない殺風景な部屋に鞄を下ろし、限は箪笥の戸を開いた。ハンガーにかかっている黒い学生服。明日からまた、これに袖を通す。取り出してカーテンを開き、レールにハンガーを引っ掛けた。もう夕方だが、少しは陽の光を吸って柔らかくなるだろう。そんなことを限は考える。
ズボンの後ろポケットに携帯が入っている。取り出して、少し液晶の画面を見つめ、かち、かち、とボタンを押す。出てきた名前をまたしばらく見つめ、通話ボタンをかち、と押した。呼び出しの機械音を聞いているうちに、もしかしてこの時間は寝ているんじゃないかと思い当たって限は焦った。けれど切るよりも先に繋がってしまい、彼女ではない朗らかな男の声が出迎える。
『はい、墨村です』
「あ、」
よく考えれば、彼女が電話に出る確率は少ないだろう。それすら想像しなかった自分が信じられずに、限は言葉に詰まってしまう。けれど回線の向こうで、彼女の父親は「もしかして」と声を弾ませた。
『もしかして、志々尾君?』
「は、はい」
『正守と良守から聞いてるよ。怪我が治ったんだってね。良かったねぇ!』
「ありがとうございます」
『良守に用かな? ちょっと待っててね』
声が遠くなりかけて、限は慌てて「すみません、待ってください」と半ば叫んだ。首を傾げる雰囲気が伝わってきて、申し訳なさに言葉を募らせる。
「すみません、いいんです。良守さん、に、伝えてください。今夜から仕事に復帰するって」
『いいのかい?』
「はい」
『それじゃ良守にお弁当を持たせるから、志々尾君も一緒に食べてね。今度お夕ご飯も食べにおいで』
答えに困っていると、相手は『約束だよ』と勝手に決めてしまう。そこでようやく限は、彼が良守だけでなく正守の父親であることを思い出した。
ありがとうございます、と途切れ途切れに礼を言い、どうにか通話を終わらせる。目覚めてからこっち、礼を言ってばかりだと限は思う。けれどそれは不快なことではなく、自分が如何に周囲に良くしてもらっているのか、再認識する大切な機会だった。
夜、烏森に行くまでにはまだ時間がある。夜行で軽く食べてきたため、夕飯はいらないだろう。精神統一をするべく、限は携帯を畳の上に置き、座禅を組んだ。閉じた瞼の裏、夕焼けを受けて制服がはためいている。それだけのことが、とても嬉しい。
日付が変わる少し前、限は装束に着替えてアパートを出た。陽が沈むと同時にカーテンを閉め、制服は仕舞った。学校の準備はしていないが、もともと教科書など持っていっていなかったのだから、空の鞄で構わないだろう。そんなことを考えながら鍵をかけ、烏森に向かおうと民家の屋根に飛び乗ろうとして。
「・・・・・・おせーよ、おまえ」
道路の隅に結界を張り、そこから自分を睨み上げている良守を見つけて、限はまた泣きそうになった。こんなに幸せで良いのだろうかと思わずにはいられなかった。
ゲンゲンとよっしーによる学園編の始まり。
2007年9月8日