いつかこの手を放される日が来ても





蜈蚣の乗り物から降りてきた良守は、学校帰りだからかセーラー服を身につけていた。それは限の知らない半袖の夏服で、時が経っていることを否応無しに悟らせる。ひらりとスカートの裾を翻して庭に降り立ち、彼女は正守の横を通り過ぎた。
「あんまり虐めるなよ?」
「うるせぇ。これは俺と志々尾の問題だ」
常人より性能の良い耳が、そんな会話を拾い上げる。大股で近づいてくる良守は肩を怒らせているけれども、それでも限には何故か泣きそうな顔に見えた。三メートルの距離に立ち、良守は素肌の腕を組む。
「・・・・・・覚悟は出来てんだろうな」
「・・・・・・あぁ」
抑えられたアルトの声に、限は頷いた。良守が限を殴りに来たという噂を聞きつけて集まった大人たちが、面白そうににやにやと笑っている。子供たちはいささか心配そうな顔をしているが、目覚めてから初めて見た閃は、中性的な顔立ちに表情を浮かばせていなかった。
「俺が何で殴るのか、おまえ分かってんのか」
・・・・・・いや、と答えるべきか否か迷ったのが分かったのだろう。良守はばっと腕を払うと右手の人差し指と中指を揃えて立てた。
「結っ!」
甲高い少女の叫びと同時に、左から立方体が限の身体を突き飛ばした。視認できていたし、受身を取ることも可能だったが、限はそうしなかった。あえて身に受けて地に転がる。見上げた良守はやはり泣きそうに眉を顰めている。
「・・・・・・おまえに全部任せることになって、悪かった」
「ちげーよ馬鹿っ!」
結、と今度は下から立方体に襲われる。弾力によって宙に放られ、見下ろした良守はまだ泣きそうだ。
「俺はなぁっ! 別におまえが一人で戦ったことを責めてんじゃねーよ! 火黒にやられたことだって、その後のことだって! そんなの全然責めてねーよっ! 俺が怒ってんのはぁ!」
左右から、上下から、結界によって殴打される。けれどどれも限は避ける気にならなかった。泣き出しそうな良守の表情だけが気にかかってしまい、病み上がりの身体も気にならない。泣くな、と唇を動かしたけれども、声にはならなかった。
「俺が怒ってんのは、おまえが勝手に満足して死を受け入れたからだっ!」
上から落ちてきた立方体が、限を地面に叩き落した。縁側で亜十羅が悲鳴を上げている。大人たちは目を細め、慈しむように二人を眺めている。正守が小さく、小さく笑った。
「だいたい何で満足すんだよ!? あのとき満足するような何かがあったか!? 全然ないだろ! それなのに満足してんじゃねーよっ!」
馬鹿じゃねーの、と怒鳴り散らす良守に、限は自らも泣きたくなってしまった。満足するような何かがあったかと、彼女は問う。あったのだ。確かにあった。化け物じゃないと言ってくれたこと。完全変化した自分を恐れずに、隣に立ってくれたこと。共に戦ってくれたこと。傷ついた限に、涙を流して「死ぬな」と言ってくれたこと。そのどれもが自分には決して得ることの出来ないものだと思っていた。だから満足したのに、良守はそうじゃないという。特別なものじゃないと、そう言う。
あぁ。限の瞼が熱くなってふるりと震えた。泣きそうだ。良守よりも先に、限の方が泣いてしまいそうだ。嬉しくて、嬉しくて。
「・・・・・・でも、俺は」
声は震えた。もしかしたら良守も、震えを堪えるために大声を張り上げていたのかもしれない。
「俺はあのとき、満足だったんだ。十分に、満たされて」
「―――ふざけんなっ!」
今度は結界は飛んでこなかった。代わりに、良守のきつく握り締めている手が小刻みに揺れていることに、限は気づいてしまった。泣くな、と音になりかけた言葉は、良守の訴えに遮られる。
「何で満足なんかすんだよ・・・! 俺たち全然、楽しいことやってないじゃん・・・・・・っ」
ふるりと、震えたのは良守も瞼か、限の心か。立ち上がり、伸ばした手を触れさせて良いものか一瞬躊躇い、けれどそれは良守の手によって答えを得た。触れ合った指先が酷く温かい。少女にしては傷だらけで硬い手のひらだけれど、限にとっては何にも代えがたい大切なもの。
「屋上で一緒にさぼって、弁当とケーキ食って、ときどき話して、それだけじゃん・・・・・・。後はずっと妖と戦ってばっかで、碌な思い出もないのに」
なのに何で、と良守は呟く。俯いた彼女の表情は見えず、触れ合っている指先だけがすべてに思えて、限は唇を噛み締めた。碌な思い出だなんて、そんなことはない。何気ない日常が、恐れずすべて受け入れてくれた彼女が、特別じゃないなんて、そんなことはない。
「来年、は、同じクラスになるんだよ。修学旅行だって、一緒に行くんだからな。テスト勉強だって一緒にやって、時音に教えてもらって、一緒に高校生になって、いっぱいいっぱい思い出作るんだよ。夜には妖を、退治して、朝また学校でおはようって言って」
ぐす、と微かな嗚咽が聞こえる。泣くな、泣くなと、限は唇を動かした。
「生きてりゃ、いいことなんかいっぱいあるよ。おまえ、いい奴だから、優しいから、これからいいこと、もっともっとあるよ。俺が保証する。絶対だから。絶対だから」
―――だから、満足なんてすんな。
とん、と項垂れた頭を肩に押し付けられる。ふわりと揺れた黒髪に、感じるほのかな温かさに、優しい、優しい、優しい言葉の数々に、限は泣きたかった。こんなに幸福で良いのだろうか。こんなに幸福を与えてくれて、良守は大丈夫だろうか。触れたら、かつてと同じように傷つけてしまうかもしれない。だけど堪え切れなくて、限はそっと、宝物に触れるように、目の前の肩に指を伸ばした。見ているよりも細い肩は壊れてしまいそうで怖かった。だけど良守が身を預けるように体重をかけてくれたから、救われた。
「・・・・・・いいか、もう絶対に満足なんてすんなよ。今度勝手に死のうとしたら許さないからな。絶対に、絶対に許さないからなっ!」
「―――あぁ」
約束する、と限は囁いた。良守にこんな顔をさせるくらいなら、こんな悲鳴を上げさせるくらいなら、いくらだって死を選ばずに生を選ぼう。例えそこに彼女の言うような良いことなどなくても。それでも、この思い出さえあれば生きていける。自分のために泣いてくれた良守。彼女さえ幸せなら生きていける。そのために、生きていける。
「だから・・・・・・泣くな」
ようやく声に出来た言葉に、何故か良守は逆にぶわっと涙を流し始めた。慌てた限に彼女は泣きながら笑った。その笑顔を守るためなら何でも出来ると、限は思った。





俺のために泣いてくれた、怒ってくれた、笑ってくれたおまえのために。
2007年7月29日