涙の川を渡れなかった
志々尾限が目覚めて最初に見たものは、いささか懐かしい木目の天井だった。仮宿としている古ぼけたアパートではなく、和造りの家屋。本来の生家よりも立派なそれは、夜行の「家」だ。懐かしい。そんなことをぼんやりとした頭で考え、限は僅かに不思議に思った。どうして懐かしいなどと感じるのだろう。あまり言うことを聞かない身体のうち、どうにか首をめぐらせて横を見る。閉じられている障子の向こうには、確か縁側が広がるはずだ。その先には庭。薄紙を通じて光が差し込んでくる。今は昼なのかと理解していると、ぱたぱたという足音と共に影が現れた。それは限の見ている障子の前まで来ると、ノックもせずに戸を開く。己の指導を任されていた相手に、限はやはり懐かしさを覚えた。彼女は信じられないように目を見開いている。手の中の盆と乗っていた急須と茶碗が、板張りの廊下へと音を立てて落ちた。そんな彼女を不信に思ったのか、遠くで「花島?」と誰かが呼びかけている。そうだ、彼女の名は。
「・・・・・・アト、ラ」
動かした唇は乾いていて、口内が少し粘ついた。それでも言葉は音になり、届いたのだろう。いつだって気丈だった彼女が、ぼろりと大粒の涙を零し、限、と己の名を呼んだ。亜十羅の様子を受けてか、多くの気配が駆けてくる。ぼんやりとそれを感じながら、限は零れる雫に思い出していた。
覚えている最後の記憶。死にゆく自分に泣いてくれた少女―――墨村良守を。
あいつは、今。
2007年7月22日