1.はじまりの日
「すみません。その子、俺の友達なんですけど何か用ですか?」
細い肩に手を置いて、にっこりと渾身の笑顔を浮かべてみせれば、振り向いた男はあからさまに顔を引き攣らせた。疾しいことをしている自覚があるのだろう。くたびれたスーツに身を包んだ風体は四十代と見られ、もしかしたら妻や子供など家族を持っているのかもしれない。だからこそ十束は多くは語らず、ただにこやかに笑うだけにしておいた。男の腰が引ける。しどろもどろに情けなく顔色を変えて、別に何でも、なんて裏返った声で言うと逃げるように走っていった。夜の雑踏に紛れて遠ざかっていく姿を見送り、十束はほっと肩を落とす。もしも喧嘩になったら確実に負ける自信があった。そうならないよう回避するために有無を言わさぬ笑顔を浮かべてみせたのだが、これが功を奏したらしい。見えなくなったサラリーマンを意識から切り捨て、十束は溜息を吐き出した。そうして向きを変える。男がいたときは僅かにしか見えていなかった細い身体が、今は十束の目の前にある。
「・・・それで、伏見は何してたのかな?」
自然といつも浮かべてしまう笑顔が、常のそれと異なっている自覚が十束にはあった。それでも伏見は脅えることなく、舌打ちして視線を逸らしただけで、答えを返そうとはしない。
「俺には援助交際を持ちかけてきた男についていこうとしていたように見えたけど?」
「・・・そう見えたならそうなんじゃないすか」
「駄目だよ、伏見。もっと自分を大事にしなきゃ」
「そーいうのいーんで。説教なら辞めてください。それじゃ」
「八田が心配してたよ」
鬱陶しいと鼻白んでさっさと去ろうとする伏見に、十束は引き止めるべく名前を挙げた。途端にぴくりと肩を震わせて反応したが、伏見の表情はすぐさま嘲笑へと変わり、常の倦怠からは思いもよらない顔を覗かせる。
「自分で切り捨てたくせに、よく言う」
ああ、と十束は嘆息してしまった。これは、初めて見る伏見の表情だ。出逢ったときから、吠舞羅に入り、バーの片隅にいたときまでに見ることのなかった、見せることのなかった顔だ。戸惑いでも呆れでも脅えでも悲しみでも苛立ちでも詰まらなさでもない。伏見が浮かべたのは明らかな敵意と憎悪で、それらは八田へと向けられている。今までは、口では何とでも言おうと、伏見が本当の意味で八田を否定することはなかった。けれどそれも数日前を機に、変わってしまったのだろう。
伏見は吠舞羅を抜けたいと言った。周防のクランズマンでいることが、吠舞羅のメンバーであることがもう嫌になったのだと、伏見はついに告げたのだ。当の周防や十束、草薙は彼女のその心情に気づいていたけれども、八田にとっては寝耳に水だったのだろう。想像もしていなかったに違いない。何せ中学の頃から、八田と伏見は同じだったのだから。世界に対して抱く不満が同じだったから、喜びも同じだと思っていたのだろう。けれどその伏見は八田の誇りである周防を、吠舞羅を否定し、抜けたいと言った。良く言えば実直、悪く言えば単純な八田が、それに黙っていられるわけがない。最初は何で、どうして、と訳を問うたけれども、この約二年間ですでに伏見の心は頑なに冷え切っていた。辛いのだと、もう無理なのだと一言でも弱音を吐けたのなら、きっと彼女とて楽になることが出来ただろう。けれどそう出来るほど伏見は器用ではなかったし、周防を崇拝する八田は、彼を否定する伏見を認めなかった。怒りに身体を赤くし、裏切り者、と罵った。だから伏見は裏切り者らしくあろうとし、八田の前で吠舞羅の徴を焼いた。それが、一週間前の話だ。
「この一週間、どこで何をしてたの?」
怒り心頭の八田から、伏見が裏切ったのだということは吠舞羅にすでに伝えられている。十束や周防や草薙など、伏見の心中を察していた僅かながらの者は「裏切り」という表現は適切ではないと思っていたが、そう教えてやってもきっと八田は理解することが出来ないだろう。だから伏見は大半の吠舞羅のメンバーから裏切り者というレッテルを貼られてしまった。それは、例え伏見自身が最後までそう思うことが出来なかったとしても、彼女を仲間だと思っていた十束たちにとって、少し悲しいことだった。
「八田のアパートから出て行ったんでしょ? 草薙さんの情報網にも引っかからなかったし。みんな心配してたよ」
「よくもまぁ、そんな嘘がつけますね。俺を心配するような奴が吠舞羅にいるわけない」
「いるよ。少なくとも俺と草薙さんとアンナ、それにキングは心配してる。吠舞羅を抜けたとしても知り合いに変わりはないんだから、心配するのは普通でしょ?」
「そういうの、本当にうざい」
伏見が嫌悪と侮蔑を浮かべる。ああ、本当に彼女は吠舞羅に溶け込もうとしてくれていたんだな、と十束は今更のように再確認した。あの、互いの距離がゼロに等しいような集団は、きっとパーソナルスペースがないと生きていけない伏見にとって苦しいものでしかなかっただろうに、それでも彼女は今のような負の感情の底値を見せることはなかった。つまり、それだけ気を使ってくれていたのだろう。だからこそ伏見が吠舞羅に馴染むことの出来なかった本質の差異を、十束は心から残念に思う。
「実家に帰ったの?」
「まさか。あんなところに帰るくらいなら公園で野宿でもしますよ」
「さっきみたいなこと、まさかしてないよね?」
「エンコーですか? どうぞ好きに想像してクダサイ」
「伏見」
「・・・ネットカフェとか漫喫とかカラオケとかスポーツジムとか、そういうところを梯子してましたよ。吠舞羅の息のかかってないところを選んだから、草薙さんも見つけられなかったんじゃないすか」
強めの声で呼べば、そこまで意地を張る気もなかったのだろう。伏見は激しく舌打ちしてから、ここ一週間の仮宿を教えてくれた。十七歳の女の子が夜な夜な一人で街を彷徨っていたことは感心しないが、最悪の事態には至っていなかったようでほっとする。先程、サラリーマンについていこうとする伏見を見たとき、十束は血の気が引いた。男の下心に気づいていなかったわけがない。それでもどうでもいいと流れに身を任せてしまうほどに伏見が自暴自棄になっているのだとしたら、もはや状況は最悪だろう。それほどまでに追い詰めてしまった八田に、自分たちに、十束は怒りすら覚える。
人は一人一人違って当たり前だ。多くを共有することの出来る者もいれば、決して相容れない者もいるだろう。だが、それは非難出来るようなことではない。異なる場所で生まれ、異なる人生を送っている以上、人は違って当たり前なのだ。生理的に許容できないことがある一方で、決して譲れないこともある。今回は伏見のそれと、八田のそれが最悪な形で重なり合ってしまった。今までがぴったりと二人で一人であるかのように同じであったからこそ、その反発は決定的だった。そうして二人は互いを傷つけ合い、離れた。
「――うちにおいでよ」
気づけば、十束は伏見の手首を握っていた。パーカーを着ていても分かるほどに伏見は細身で華奢だ。加えて、彼女はその袖口の中に何本かのナイフを常に備えている。だからこそ握って初めて分かった本当の細さに、十束は泣きたくなってしまった。こんなに頼りない、まるで骨と皮だけのような身体に、伏見はどれだけの負荷を一人で抱えてきたのだろうか。そのことを思い、胸が痛む。
無意識のうちに口にした言葉に、伏見が怪訝な顔をする。けれど言った十束自身、遅れてさも名案だと思った。だからこそ次は意志を持って強く誘う。
「そうだよ、うちにくればいいんじゃないか! どうせ行くとこないんでしょ? その点うちなら俺一人だし、伏見ひとりくらい増えても何ら問題ないよ!」
「・・・いいです。オキモチダケデ」
「あ、つれない返事。大丈夫だよ、取って食ったりしないから」
「そこらへんは気にしてませんけど」
「それはそれで男として微妙だなー」
「っつーか、もう吠舞羅と関わりたくないんで」
きっぱりと冷たく言い放たれたが、そこに覗いた僅かな気遣いに十束は気づけた。本当に、優しい子なんだよね、と心中で思う。だからこそ伏見はいつだって他人を傷つけるような言葉を吐きながら、誰より自分が傷ついてきた。でも、それではいつまで経っても伏見自身が幸せになれない。だから十束は、伏見の両手を労わるように握った。
「じゃあ今この瞬間から、俺たちは『ただの十束多々良と伏見猿比古』だね」
幸せに出来る自信なんてないし、そんな烏滸がましいことは思わない。けれど、あの日、関わらなくていいかもしれないと下した決断を、十束はずっと後悔してきた。他の新入りと同じように、もっと伏見の深くにまで介入していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。だからこれはすべて十束のエゴであり、贖罪なのだ。
「家族になろう。ねぇ、伏見?」
逃がしはしないと握る手に力を込めて、十束は笑った。眼鏡の奥でたれ目がちの伏見の目が瞬く。愛を返されないことに慣れてしまったその姿が遣る瀬無くて堪らなかった。
どこか似てるって、出会ったときから思ってた。
2014年11月8日(pixiv掲載2013年3月3日)