【 『愚か者の挽歌』を読むにあたって 】
○ R-18Gです。
○ エロじゃありません、グロテスクなGの方です。
○ 死体の描写が出てきます。
○ 伏見君が殺人を犯したかもしれません。相手はモブさんです。
○ 酷い話です。
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読む読まないの判断は皆様にお任せしますと同時に、読んだことによる責任も皆様にあることをどうかご理解ください。ぐにゃあと感じるものがありましても、それは皆様個人の中で昇華してくださるようお願いいたします。
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それでは何でもいけるという方のみ、どうぞお進みくださいませ。
▼ GO!
中学のときから、八田の背中を守るのは伏見の仕事だった。お世辞にも賢いとは言えない八田は、感情のままに突っ走っていく。それをフォローして立ち回るのは、常に伏見の仕事だった。学校をさぼっているところを補導員に捕まったときは適当な言い訳で交わしたし、喧嘩になって向かっていくがら空きの背後を取られないよう立ち回ったりもした。引き際を見極めて声をかけるのも伏見の仕事だったし、その後ぶつくさ言う八田を宥めるのも伏見の仕事だった。全部全部全部伏見の仕事だった。それは吠舞羅に入っても変わらなかった。八田と伏見の実力は抜きんでていたから、二人で先攻を任されることも多かった。だから伏見はいつだって八田の背中を守ってきた。守りたいと思ってきた。
八田の馬鹿みたいな単純さと素直さを、愛していた。
愚か者の挽歌
スケートボードがなければ、八田の機動力は段違いに落ちる。特に狭い廊下など最悪だ。路地裏のように上の空間を使うことも出来ず、そうなればもうボードなど荷物でしかない。故に建物への突入の際、八田はボードを置いてくる。外で待機する仲間に託して、自身はバッドのみを手に先へと向かうのだ。高揚にちりちりと赤い光が滲み出てくる。その力があれば十分だと八田は考えているのだろう。けれども、伏見は違う。
ああもう、また逃してやがる。視界の隅でひらめく八田の動きを把握しながら、眉を顰める。伏見は吠舞羅の中では貴重な頭脳派である。作戦立案を務める草薙にすでにそう言われているし、伏見自身も他のメンバーと比べて自分が賢いことを理解していた。それはもはや知識量の問題ではない。咄嗟の思考回路だ。目の前の事象と得ている情報を照らし合わせて、そのとき最も有効な判断を下す。見逃しがちな些細な出来事をどう繋ぎ合せて隠された事実を導くか。指揮官に必要な物を伏見は持っている。そう、草薙に評されている。おまえみたいな奴がおるとほんまに楽やわ。今まで吠舞羅の事務的な面を一人で支えてきた参謀はそう言った。冷めていると思っていた自分の思考がそのように言われることは、伏見にとって釈然としない出来事だった。
「この野郎、逃げんな!」
八田がバッドを振り回す。溜息を吐き出すのを堪えて、伏見は手にしているナイフを投げつけた。現状は四対二だ。自分たちと同じように、相手方も先攻なのだろう。本来ならば周防の足止めを命じられている相手を、八田が「ここは俺たちに任せて尊さんは先に行ってください!」と言ったために伏見も残る羽目になってしまった。勝手なこと言ってんじゃねぇよ。そう思うけれども、八田の背中を守るのは自分の仕事だと思っているから他の選択肢も選べない。守りたいと思っている自分がいることには気づいているけれども考えないようにしておく。
相手は四人、こちらは二人。ならば単純に考えてノルマは一人につき二人だ。伏見はすでに一人を気絶させて床に転がしている。残りの一人を相手にしていれば、先程よりも余裕があるから背後の八田に気を配ることが出来る。バッドが壁に当たる鈍い音がする。だから、馬鹿。伏見は舌打ちせずにはいられない。
八田は確かに強いかもしれない。けれども一撃が軽いのだ。それは八田が小柄で細身であることを踏まえれば当然の結果で、だからこそ攻撃は決定的なダメージを与えられない。それを自覚してか、否、おそらく無意識だろうが、日頃は非力さをスケートボードの加速で補っている。バッドも同じだ。武器を得て初めて、八田は相手を押さえることが出来る。赤い力が更にそれを後押しして、八田を強い存在へと書き換える。
では、そこから先は引き算だ。狭い廊下。敵は割合と手練れが二人。すでに数で不利だからマイナスイチ。スケートボードの機動性がないからマイナスニ。バッドの加算は0.5だろう。そして最後に赤のクランズマンとしての力。以上、計算できない伏見ではない。
まずいな、と思考が廻った瞬間に、他者の動きが最悪の未来へと辿り始める。そこから防衛に走る決断は理性で、動く身体は感情だ。投げるつもりだったナイフを握り込んだ。八田は背後を振り返らない。決して。だからこそ伏見はその小さな背から離れないようにしていたのだが、ついに相手も痺れを切らしたらしい。肉を切らせて骨を絶つとでもいうのか、一人が八田の両腕を掴んだ。赤い輝きはそれだけでダメージを与えるだろうに、それでも離さず拘束する。
「なっ!?」
動揺する八田に、もう一人が襲い掛かる。バッドをいつ落としたのか、空手の八田は無防備だ。ちっ、と舌打ちして伏見は自分の相手に背を向けた。逃がすものかと鉄パイプが後を追ってくる。一撃は避けた。二撃は。
奥歯を噛み締めて、伏見は八田と敵の間に滑り込んだ。逆手に握ったナイフを、突っ込んできた相手の勢いを利用して突き出す。腕に刃が走り、赤い血飛沫が舞う。それに構わず伏見は八田の頭を鷲掴みして下へと押した。伏見を追ってきていた敵の鉄パイプが宙を切り、八田を拘束していた仲間の顔面へと激突する。両者の悲鳴が上がった瞬間を逃さずに、伏見は敵の首裏にナイフの柄を叩き込んだ。これで三人片付いた。先に伸している奴も含めて四人。仕事は完了だ。
「・・・俺一人でも出来たんだからな。余計な手ぇ出して来るんじゃねぇよ」
口ではそう言いつつも、助けられたことを理解しているのだろう。八田は唇を尖らせながら乱れた帽子を被り直している。怪我をしていないその様子に、伏見は悟られぬようほっと息を吐き出した。
「だったらもっと上手く立ち回れよ。見てるこっちがひやひやする」
「う、うるせぇな! いいから早く行くぞ! 尊さんと合流しないと」
誤魔化すように声を荒げて、八田はバッドを拾い上げる。その眼はすでに先に行った周防しか見ておらず、伏見も投げたナイフを回収して八田に続いた。足元で四人の男たちが転がり、呻き声を挙げている。それはもはや八田の意識外だ。伏見はちらりと見やった。一歩を踏み出す際、僅かに背が痛んだ。それから一時間もせずに事態は収束した。
「怪我した奴おるか? 掠り傷でもちゃんと病院に行くんやでー。ほな撤収や」
草薙の声に、あちこちで雄叫びが挙がる。戦いの後はいつだってテンションが高く、それに乗れない伏見はただ見ていることしか出来ないし、しない。八田は嬉しそうな顔で周防の傍にいる。その手にはスケートボードと折れ曲がったバッドがあり、誇らしげな様子で戦果を報告しているのだろう。伏見は集団の最後尾を歩いて、吠舞羅の根城へと帰還した。
その夜、シャワーを浴びた際に鏡で確認してみれば、背中にはすでに赤く細長い痕が出来ていた。腕を回して指先で触れてみれば、やはり鈍い痛みが響く。折れてはいないだろうが、この分では酷い痣になるだろう。一撃目は避けたけれども、二撃目を交わしている余裕はなかった。そんなことをしていたら間に合わなかった。強く擦ると痛いため、バスタオルで適当に拭い、ベッドに俯せに横になった。八田は今頃、バーHOMRAでの祝杯に参加していることだろう。伏見は断りを入れずにその場を去った。騒がしい場は好きではないし、もしも痛みを顔に出したら、八田はともかく観察眼の鋭い草薙や十束に気づかれそうで厄介だからだ。いつものことなので、きっと誰も気にしてはいないだろう。溜息を吐き出すと背中が痛む。それでも構わない。八田が怪我しなかったのだから。だから、それでいい。
伏見が怪我をするのは仕方がない。だって、八田は前だけを、周防だけを見ているから。伏見の背を守ってくれる人はいないのだから。
プライドが高くて意地っ張り。人との馴れ合いを拒むから、自然と周りには誰も近寄らなくなる。そんな自分の面倒な性格を、これほどまでに都合がいいと思ったことはなかった。バーカウンターの隅で動かずじっとしていても誰も気にはしないのだ。せいぜいが時折カウンターの中にいる草薙に声をかけられるくらいで、他の輩は伏見がそういう人間だと知っているから最初から相手をしようとはしてこない。それはとても楽だった。本当ならバーHOMRAには顔を出したくないくらいだったけれども、ここに来ないと八田の顔が見れないし、それに来なければ来ないで草薙や十束が目敏く気を配ってくる。不審に思われるのは本意ではなかった。だから伏見は以前と変わらぬ割合で、週に三度ほどHOMRAに足を運んでは、無意味にうるさい喧騒を眺め、草薙の作った食事を摂り、食べ切れずに残し、そして店を後にする生活を繰り返していた。
「伏見は夏なのに長袖だね。暑くないの?」
十束の問いかけは突然だったけれども、動揺を見せることはせずに済んだ。その問いは想定の範囲内だったからだ。わざと眉間に皺を刻んで、煩わしいといった空気を放って伏見は答える。
「暑くないです。他人と肌が触れ合うの、嫌いなんで」
「あー確かに電車の中とかぶつかるもんね。それが綺麗なお姉さんならいいけど、サラリーマンのおっさんだと俺もちょっと嫌かなぁ」
元より伏見に潔癖の気があることは十束も感じていたのだろう。それ以上深入りすることはなく会話を終わらせてくれた。
夏の日差しがきつくなり、日中の最高気温が三十五度を越えるようになっても、伏見は未だ長袖を着ていた。流石に薄手のパーカー、あるいはカーディガンにしているけれども、中に着ているのだって七分袖のカットソーだ。理由は簡単だ。例えば左腕。二の腕の肘に近い位置に、今は包帯を巻いている。これは先週、路地裏で絡まれた際に負った傷だ。今はもう黄色い痣に変わったけれども、右肩には一ヶ月前の大きな出入りで作った傷がある。半袖だとそれらを隠すことが出来ないから、伏見は夏でも長袖を着ていた。もちろん十束に語った理由も少なからず含まれるけれど、それだって一割以下だ。怪我をしているとばれたくないから、伏見は半袖を着ないし、余りHOMRAにも顔を出したくない。
八田の楽しそうな声を聞きながら、伏見はジンジャーエールのストローに口をつけた。前述の二つ以外にも、うっすらといくつもの傷が伏見の身体にはついている。これらはすべて、八田を庇った傷だった。八田は吠舞羅の陰口を言っているような集団がいれば、どんなに多勢に無勢でも突っ込んでいく。一度も後ろなんて振り向かずに。だから伏見がその背を守るしかないのだ。正面よりも後ろから殴りかかってくる輩の方が多いことを、八田はおそらく知らないのだろう。だから影で、こうして伏見は傷を負う。前しか見ていない八田は気づいていないに違いない。馬鹿だからな、と伏見は考えていた。おまえのせいで怪我してるんだけど、なんてことを言うつもりはなかった。八田の背を守るのは伏見の仕事だからだ。
――けれどそのことに、疑問を抱くときが来た。
「――え?」
伏見は思わず目を見開き、呟いてしまった。何て言えばいいのだろうか。感覚が違う。そう、感触が違ったのだ。皮と肉の表面を切り裂くのではない。この、手のひらから手首、腕へと伝わる痺れ、重み。そう、重いのだ。見下ろせばナイフの柄までが肉の中に埋まろうとしている。・・・え? 伏見は相手を見上げた。暗がりで良く分からない。けれどもその全身からはゆっくりと力が抜け、ナイフが抜け、後ろへと崩れていく。がん、と物凄い音を立てて頭が何かとぶつかった。階段の段差だろうか。その勢いのままに、身体は階段を転がり落ちていく。砂袋が落ちるような音を遠くで聞いた。
「・・・は?」
伏見は何が起きたのか理解することが出来ず、呆然と立ち尽くした。
吠舞羅に入って何度目かの、能力者を相手にした事件だった。事の始まりが何だったのか、きちんと把握はしているけれども意味はないと伏見は考えている。有事になればきちんと働く。命令がないのに首を突っ込むほど、伏見は吠舞羅という集団の輪に融け込んでいなかった。だから今回、出入りになると呼ばれて駒になるためにやってきていた。どうやらコモン・クラス数名と暴力団の絡んだ事件らしく、数が必要だったらしい。そうして今日も八田と伏見に先攻が任され、ナイフの数を確認し、伏見は八田の背を守っていた。変わらない日常だった。
八田が振り返ることなく敵に突っ込んでいって、がら空きの背を狙われて、そこを伏見がフォローして。変わらない日常だった。変わらない日常だった。変わらない日常だった。変わらない日常だった。変わらない、変わらない。
「猿比古!」
「っ・・・」
廊下に響いた八田の声に、伏見は反射的に握っていたナイフを袖口に隠した。どん、どん、と鼓動が今更のように大きな音を立てて鳴らされている。血の気が引いているのかもしれない。全身が冷たくなっている気がして、何だか頭がくらくらとした。右手首の内側にぬめりを感じている。ナイフについていた何かが、伏見の肌へと移っているのだ。温かい。冷たい。気持ち悪い。八田が伏見の肩を掴んで振り向かせる。
「何で何も言わねぇんだよ。何かあったのか?」
「・・・みさ、き」
「おまえの相手は? いねぇってことは倒したのか。じゃあいいよな、早く尊さんのとこに行こうぜ!」
自分たち以外に立っている輩がいないから、そう判断したのだろう。八田は笑ったようだった。生憎と廊下は電気がついておらず暗くて、視界が悪くて、だから戦うのも気配を読まなくてはならず大変だった。だけど、だからこそ今の八田からは伏見がどんな顔をしているのか見えなかったのだろう。見えなくて良かったと、後に伏見は思った。
心臓の音は未だ鳴りやまない。それどころかどんどん大きくなってきている。慄きそうになる奥歯を噛み締め、伏見は先へ進む八田の後を追った。暗がりで小さな背中は良く見えない。見失わないように必死に追った。階段に背を向けて。
結局のところ周防が出れば、結果は常に同じだ。勝利しかない。参謀である草薙や古参である十束にとっては、周防の気が晴れることが重要なのだろう。だからこそ小さな案件であっても、吠舞羅は火種を大きくしたがる。今回の件もそれに当たったらしく、コモン・クラスの能力者も暴力団もすべてが周防の力に震え、立ち向かってきた者は王の拳に沈められた。
「監視カメラは全部壊したやろ? 記録も削除済み。ん、これでええかな。厄介事はお断りやしなぁ」
吠舞羅の仕業だと、まぁばれないことは不可能だろうけれども、物的証拠は残したくない。草薙の指示を受けて、鎌本が最後のパソコンを粉砕した。ほな帰ろか、と草薙が振り向き、周防が頷いて先に歩き出す。その後を勝利の余韻に浸るメンバーたちが足取り軽く続いていく。伏見はその最後尾を歩いていた。いつものように。けれどそれが暗い廊下の、階段の前に来て止まってしまった。前を行く集団は振り返らない。八田は今日も周防の傍で戦果を報告している。いつも通りだ。だけど、確かめずにはいられなくて、伏見は一路を離れ、下りの階段へと足を踏み入れた。
電気がないから暗い。一段下がる度に、どんどんと暗さが増していく。吠舞羅の、八田の、喧騒が遠ざかっていく。震える足で伏見は階段を降りて行った。手にはまだ、感触が残っている。
手摺りが途切れる。足が、多分、最後の段を踏み締め、下の階へと辿り着いた。すり足で進めた爪先が何かに引っかかり、思わずバランスを崩す。
「っ・・・!」
床に打ち付けるはずの膝は、脹脛は、何か分厚いものを下敷きにするだけで伏見に痛みを与えない。そのため逆に態勢を整えることが出来ず、伏見は無様に転がってしまった。分厚いものの向こうは床で、放り出した手が反対側の壁にぶつかる。打ち付けたのか手首が少し痛んだ。何なんだよ、もう。ずれた眼鏡を直しながら、伏見は床に尻もちをついたまま体勢を立て直す。聞こえるのは伏見の呼吸する音だけだ。他には何もない。他には、誰も、いない。見上げた階段の上、あれだけ暗いと思っていた廊下が今は外のように明るく見えた。それほどに階下は闇だったのだ。自分の指先の輪郭すら見えやしない。ふう、ふう、と伏見の息を吸い込み吐き出す音だけがその場に響き渡っていた。もはや吠舞羅の、八田の声は聞こえない。
ジャケットを探り、タンマツを取り出した。ポケットの入り口に引っかかって出すまでに少し手間取った。簡単に外せるはずの指に馴染んだロックが、エラー音を二回鳴らした。ついてはすぐに消えていた液晶画面が正確に動き出す。いつもは自分に向ける画面を反対に向けて、伏見は床を照らした。闇の中でそこだけが不気味な白い輝きを放っていた。喉は渇ききって、すでに貼り付いてしまっている。それでも伏見は、確かめないわけにはいかなかった。
タンマツの光を、徐々に移動させていく。床から、階段の側へと。何かあるのならそこだと、分かっていた。先程躓いたときから。違う、もっと前から。つい数十分前に階上の廊下で争ったときから。ここにあるのだと、分かっていた。だから、確認しに来ないわけにはいかなかった。
床ばかりだった白い光の中に、黒い布が入り込む。細いストライプを刻んでいるそれは何となく安っぽい布地で薄汚れていた。タンマツを右に移動させれば、浅黒い肌の指先が見えてくる。太い。爪が四角い。関節の大きい、武骨な大人の男の手だ。肌は乾燥している。手首には腕時計をしていて、デジタルは今もなお秒を刻んでいた。その先、腕を覆っているシャツは紫だった。布が何かは分からない。肘から二の腕、肩、鎖骨。縁をなぞるように光を当てていき、そして。
「ひっ・・・!」
伏見は闇の中、一人、その男と対面した。だらしなく舌を伸ばし切り、眼球が白目を剥いているその顔は、生きた人間のそれではなかった。
男の後頭部が床に接している面に、暗い水溜りを作り出している。伏見は強張る身体を動かして、横からそれを覗き込んだ。もはや堪えることは出来ず、歯はかたかたと鳴り続けていたし、全身は震えていたけれども、そんなことに気づく余裕など欠片もなかった。タンマツの白い光では良く分からない。人差し指で僅かに触れ、自身の親指と擦りあわせてみれば、赤黒いことに気づく。血だ。伏見は息を呑んで、男の身体へと光を向けた。気の所為でなければあるはずだった。胸、もしくは腹のどこかに。正面であるのは確実だった。ナイフの刃渡りは十五センチメートル弱。身体を貫通するほどではない。だから、きっと。タンマツを激しく左右に動かしながら伏見は探した。そしてそれは、見つかった。
男の左の脇腹に、それはあった。鋭く深いその傷は、伏見が先程、目の前の男を刺した跡だった。
動揺し、硬直し、震えあがっていた思考回路が、徐々に動き始める。男の死体を前にして、伏見の脳はめまぐるしく回転していた。焦点はただ一つ。伏見が刺した傷と、階段を転げ落ちてぶつけた後頭部と、どちらが男に死を齎したのかということだ。いくら知識があれど、医者でもない伏見には男の傷がどれくらいの深さで、どんな臓器を傷つけ、どの程度の失血を齎したのかなんて分からない。それは後頭部の傷にしても同じだ。検死でもすれば分かるのだろうけれども、そんなこと出来るわけがない。紫のシャツは脇腹を中心に濃く色を変えている。けれども床に作られている赤黒い水溜りだって相当の量だ。どっちだ。どっちが致命傷だった。伏見は必死で考えた。これは彼にとって大きすぎる問題なのだから。
――人を、殺したかもしれない。
「・・・消さないと」
ぽつり、伏見の声が闇の中に響き渡った。死体、なんて、流石に見つかったら拙い。赤のクランであっても、殺人ともなれば警察の介入は免れないだろう。消さなくてはいけない。骨も残さず、血も残さず、灰も残さず。それこそ吠舞羅の雄叫びのように、塵一つなく葬らなくてはいけない。でも、どうやって? 赤い力で、炎で燃やせるだろうか。それに無事に消せたとして、その選択は本当に正しいのだろうか。もしかしたらこの後やってくるだろう警察が検死して、死因は刺傷ではなく後頭部をぶつけたことによる失血死と判断するかもしれない。そうしたら伏見は無罪だ。わざわざ死体を消すような危険な真似をしでかさなくていいかもしれない。でも、もしも死因が刺傷だったら。やっぱり消しておくべきかもしれない。いや、でも。
いくら伏見でも、きっと参謀である草薙でも、正確な判断を下すことなど不可能だったに違いない。結論の出ない思考に捕らわれ、伏見はただ闇の中、ぼんやりと死体を前に座り込んでしまった。無防備になっていた。自身が殺人者になったかもしれない。その動揺は余りに大きく、伏見の警戒をゼロにまで引き下げていた。だから彼は気づけなかった。
背後から近づいていた影が、伏見に向かって武器を振り下ろす。伏見はそれを無抵抗に食らうしかなかった。衝撃に霞む。霞んでいく。分かっていたはずなのに、忘れていたのだ。分かっていたはずのことなのに。
八田はもういない。振り向かない。伏見の背を守ってくれる人はいないのだと、分かっていたはずだったのに。伏見は一人、闇の中。赤い力を解き放った。
限界まで絞り出した力は、もう指先にすら炎を宿してはくれない。それでも足を、身体を引き摺りながら戻ってきたバーHOMRAの窓からは、明るい光が夜の路地へと溢れていた。祝杯だろう。馬鹿騒ぎをしているメンバーの声がいくつも聞こえてくる。伏見の額には血がこびりつき、腕も足も背中も、どこもかしこも激しい痛みを訴えていた。眼鏡は割れて、その意義を成していない。はぁ、と息を吐き出すだけで切れた唇が引き攣った。表道に出ることは出来ず、伏見は狭い路地裏で、光の当たらない場所で、その声を聞いた。
「ねぇ、八田。伏見は?」
「あいつならいないっすよ。いつもみたいにふらっと家に帰ったんじゃないすか?」
「ふーん。せっかくだから一杯くらい飲んでいけばいいのに」
「そうっすよね! ったく協調性がない奴だぜ。ちゃんと着いてこいっての」
十束と八田の会話だった。分かっていた。分かっていたことだった。八田は振り向かない。伏見がついてくると信じて疑いもしない。無防備な背中を晒しても、敵がどんなに強かろうと、多かろうと、伏見がフォローするのが当たり前だと思っている。分かっていた。分かっていたことだった。八田のその馬鹿みたいに愚直なところを愛していた。その背中を守るのは自分の仕事だと思っていた。守りたいと、思っていた。
伏見の両手から、ぱりぱりと小さな赤黒い欠片が剥がれていく。雨でも降っていたのなら、そこに大きな血だまりを作ったことだろう。けれど空は晴れていて、星が出ていて、それらから逃げるように伏見はHOMRAに背を向けた。身体の節々が痛んで堪らない。それでも八田は振り返ってくれないし、伏見のことを見てはくれないのだ。八田は当然のことだと思っている。伏見が自分についてくるのを。背を守るのを。人を殺してまで背を守るのを、きっと当然のことだと信じているのだ。もしくはそんな可能性さえ考えもしないほど信用されているのだとしたら、ああ、何て馬鹿らしい。
伏見はその日、初めて八田の単純さを憎んだ。自分を見てくれない八田の背を守り続けて、何か意味があるのだろうか。そこに伏見の喜びはあるのだろうか。殺人と引き換えにするほどの何かを八田は、今の八田は、伏見に与えてくれるのだろうか。――否。
褒美もなく献身できるほど伏見は出来た人間ではない。神様でも聖女でもない。血と肉で出来た、ただの人間だ。欲して何が悪いのか。痛みの中で伏見は笑った。何かの壊れる、音がした。
挽歌 / 葬送のときに柩を挽く者が歌った歌。悲しみを歌った詩・歌・楽曲のこと。
2013年7月28日(pixiv掲載2013年1月27日)