Shine or Dark - side dark -
「汝、久遠冬花を妻とし、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しきときも、この者を愛しこれを敬い、これを慰めこれを助け、共に生きる事を誓いますか?」
牧師の厳かな問いかけに、円堂守は深く頷き、宣誓した。
「―――はい、誓います!」
マリアヴェールの下、新婦の目元できらりと涙が光った。
その日、家族や多くの友人たちに祝福され、円堂守と久遠冬花は結婚した。
***
日を増すごとに大きくなっていくお腹は、確かにもうひとつの命が冬花の内に宿っていることを教えてくれる。医師の見立てでは、産まれてくるのは女の子らしい。きっと私に似て、パパが大好きな子になるわね。未来を想像すると楽しくて、自然と冬花の唇は微笑みを浮かべてしまう。
「ふゆっぺ、ただいまー」
「ありがとう、守君。ごめんね、買い物お願いしちゃって」
「何言ってんだ。出産と子育ては夫婦で協力してやるもんだろ?」
リビングにひょいと顔を覗かせた円堂は、その両手にスーパーのビニール袋をふたつ提げている。臨月を来週に控えて、動くのが大変になってきた冬花の代わりに家事をしてくれているのが、この夫だ。スーパーのチラシを眺めては値段を比較し、その自慢の脚力を活かして店を梯子するなど買い物にも楽しみを見出しているようだ。ゴミ捨てや風呂掃除なども進んでやってくれるし、最近では食事も作ってくれる。プロサッカー選手という大変な仕事に並行して家事をこなしてくれる姿に、申し訳ないと思ってしまう。だけど向けられる優しさがこそばゆくて嬉しくて、この御礼は元気な子を産むことで返そうと冬花は決めていた。
円堂の大きな掌が、そっと冬花の腹に寄せられる。強烈なシュートからゴールを守る手は、きっと産まれてくる子供のことも全力で守ってくれるだろう。内側からぽこっと起きた胎動に目を丸くして、そして円堂が優しく笑う。
「楽しみだな! 父ちゃんと母ちゃんが待ってるぞ!」
幸せ過ぎても泣けるのだと、冬花はそっと目尻を拭った。
***
月日はゆっくりと、それでも確実に流れていく。冬花の産んだ女の子は、やはり父である円堂と同じようにサッカーを好んで、母である冬花と共に何度も父の試合の応援に駆け付けた。大きくなって雷門中に入学し、懐かしい制服に身を包んだ娘を中央に、校門の前で写真を撮った。やはりサッカー部にマネージャーとして入部した娘は、部員たちのサポートを献身的に続け、フットボールフロンティアで優勝したときは大粒の涙を流して喜んでいた。高校生になり、大学生になり、いろんなことを体験しながら少しずつ大人になっていく姿に、日々嬉しさを感じていた。そうして娘がただひとり愛する男性を見つけ、結ばれ、孫を身ごもった頃に円堂もサッカー界から引退した。今では地元の小さな少年サッカーチームの監督をしている。冬花はやはり、変わらない太陽のような夫のために、今日も傍らで応援を続ける。
「お祖父様に、名前を付けていただきたいんです」
自分たちの娘の、そのまた娘が挨拶に来た際、彼女の夫に真剣な顔でそう言われて、円堂はきょとんと目を瞬いてしまった。八十歳を迎えて尚、その表情はどこか少年らしさが残っている。今でも折に触れてボールを蹴っているからだろうか。円堂は実年齢より十歳以上若く見られることが常で、そして妻の冬花も同じだった。病気とは無縁で、それでも現役時代に負った膝の怪我とは長い付き合いを重ねながら、今のところ元気に過ごしている。
「うーん・・・。でもなぁ。名前は親が子供にあげる最初のプレゼントだろ? 俺よりおまえたちでつけた方がいいんじゃないか?」
曾祖父の俺よりも、と円堂が続ければ、まだお腹の目立たない、それでも確かに母親の顔をした孫も、お願いします、と頭を下げる。
「私たちが出会えたのはお祖父ちゃんのおかげだもの。だから是非、名付け親になってほしいの」
「お願いします、お祖父様」
孫に揃って頼まれ、うーん、と円堂は頭を掻く。確かに日本人である孫と、外国人であるその夫の出逢いは、円堂がサッカーをしていたことに関係している。更に言えば娘夫妻の出逢いも円堂のサッカー関係に拠るものだった。どこまでもサッカーで繋がれているのね、と笑った冬花でさえ、サッカーがなければ夫とは出会えなかっただろうと考えている。あなた、と妻に柔らかく諭され、円堂は少しばかり照れながら頷いた。
「分かった。引き受けるよ」
「お祖父ちゃん・・・!」
「精一杯考えるけど、変な名前になったらごめんな!」
「ふふ、大丈夫! 心配してないから」
「ありがとうございます!」
笑い声があがる。ケーキがあるから出すわね、と冬花が立ち上がれば、手伝います、と動こうとする孫を制して、その夫が立ち上がる。座っていろ、と言葉少なに示される優しさに、円堂は孫が大切にされていることを知って目を細めてしまった。優しい人なんです、と孫が照れくさそうに微笑む。甘えておけばいいんだよ、とアドバイスすれば孫は頬を掻いて笑った。
***
おぎゃあおぎゃあと元気な産声を上げて生まれたのは男の子だった。母親に抱かれ、父親に抱かれ、両祖父母に、冬花に、そうして最後にそっと差し出された赤ん坊を受け取り、円堂は柔らかな身体をそっと抱いた。浅黒い肌は父に似ていて、赤い目は母に似ている。おぎゃあおぎゃあ。泣く子供に、円堂は曾祖父の顔で笑った。
「よし! おまえの名前はバダップだ!」
おめでとう。祝福の鐘が鳴る。
***
円堂の曾孫、バダップは素晴らしいサッカーの才能を持っていた。否、それはサッカーだけでなく勉強や礼儀作法など各方面へと向けられており、同じ年の子供たちと比べても頭ひとつふたつ飛び抜けているほど出来が良かった。だが、それらすべてはバダップが努力を怠らないからこそ発揮される輝きであり、だからこそ円堂は曾孫を殊更に可愛がった。もちろんどんなにサッカーが下手でも馬鹿でも敬語が出来なくてもバダップが円堂にとって可愛い曾孫であることに変わりはなかったが。
「お祖父様、今日は何を教えてくださるんですか?」
忙しい両親に代わり、バダップの面倒を見るのは円堂の役割だ。妻である冬花は数年前、病に倒れて帰らぬ人となってしまった。守君に会えて幸せだった、と最後に告げてくれた彼女のことを、円堂は今も愛し続けている。ちらほらと、かつての仲間たちの訃報も届き始めていた。喪服を着る機会も増え始め、それも当然だと円堂は思う。目の前のバダップは今年でもう九歳になる。大きくなる分だけ自分が歳を取るのも当然で、それが自然で、当たり前のことなのだ。だからこそひとつでも多くのことを、この曾孫に教えていきたい。そう考え、円堂はバダップを様々なところへ連れ出していた。とはいえ、今日はいつものように公園でサッカーである。
「そうだなぁ・・・。バダップはキーパーじゃないからゴッドハンドを教えても意味ないし、フィディオのオーディンソードにしようか」
「ゴッドノウズは駄目ですか?」
「アフロディの技は独特だから、バダップにはまだ早いな」
大人びた表情の中にも拗ねを覗かせた曾孫の頭を、がしがしと円堂は笑ってかき混ぜる。公園は多くの親子連れで賑わっていた。中には子供たちだけで遊んでいるグループもあり、ちらりと円堂はバダップを垣間見る。この曾孫は下手に優秀過ぎる余り、周囲から遠巻きに見られることが多いのだ。バダップ自身もそれを理解しているからか、自ら好んで遊びに加わっていくことはない。それは少し悲しいけれど、いずれ時間と共に解決されるだろう。自分にとって豪炎寺や鬼道や風丸、そういった親友が曾孫にも出来ればいい。
「っ」
「あ、すみません」
「いいえ」
後ろからぶつかられて、バダップが小さくバランスを崩す。その際に抱えていたサッカーボールが地面をころころと転がって離れていったが、それよりも先にバダップは振り返り、ぶつかってきた相手である小さな女の子を支えた。ベンチから慌てた様子で母親が駆け寄ってきて謝り、大丈夫です、とバダップは頭を振って答える。優しい子なのだ。だから円堂はまったく心配していない。手を振ってくる女の子に控えめに振り返している姿に、円堂は緩やかに微笑んだ。そしてサッカーボールを拾いに行こうと歩き出す。
「お祖父様、俺が行きます」
バダップが小走りに脇をすり抜け、ボールを目指して駆けていく。その小さな背中を見送りながら、円堂はやはり微笑んでいた。けれどもそれも一瞬で凍りつく。
「バダップ・・・っ!」
次の瞬間、円堂は老体に鞭を打ち、走った。
サッカーボールが歩道を超える。
バダップの手のひらがボールを捕えようと伸ばされる。
走り込んでくるトラックのブレーキ音。
間に合え。間に合え。間に合え、間に合え、間に合え。
―――間に合え!
円堂は必死にバダップに向かって手を伸ばした。瞠られた赤い目。それが彼が最期に見た、曾孫の姿だった。
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2011年10月30日