「晴矢? 何してるんだい、こんな時間に」
「・・・何だ、風介かよ」
リビングの扉を開いて現れた家族に、晴矢は思わず肩を震わせて振り向いた。日付も変わった深夜、ひとりきりだと思っていた空間にドアノブの音はやけに大きく響いて、驚きに跳ねた心臓をそうと悟られないよう静かに治める。蛍光灯の明かりはついていない。カーテンが開けられていて、満月の光がダイニングに向かう風介の足元を照らしている。スリッパを嫌う彼女が歩く度にぺたぺたと間抜けな足音が響き渡って、晴矢は何とはなしに黙って耳を傾けていた。冷蔵庫を開き、閉める音がする。ビニール袋が破られ、ゴミ箱に捨てられる様がありありと想像出来た。そうしてリビングに現れた風介は晴矢の予想通り、ソーダ味の棒アイスを銜えている。いくら夏とはいえ、深夜一時を回ってアイスか。晴矢は呆れてしまった。
「太るぞ」
「誰が? 相手を見て言いたまえ」
アイスを右手に持ち替え、嘲笑する風介のタンクトップから覗く腕は細い。同じく細く、その所為か長く見える足でリビングを突っ切り、彼女は晴矢の隣に腰かける。三人掛けのソファーが僅かに軋んで音を立てた。がり、と風介が水色のアイスに歯を立てる。月光が横顔に降り注ぐ。
「それで? 何してたんだい、こんな時間に」
「別に・・・。ちょっと寝付けなかっただけだ」
「ふうん。珍しいね、単純な君らしくもない」
「おまえこそこんな時間まで何やってたんだよ」
「荷造りさ。明後日には韓国だからね」
がりがり。慣れた様子で風介はアイスを咀嚼していく。あっという間に木の棒の先が見えてきて、ちらりと赤い舌でそれをなぞる。晴矢が部屋を出て来るとき、同室のヒロトはもう寝ていた。隣の部屋も静かだったから、きっとリュウジも砂木沼も夢の中だろう。保護者である瞳子の部屋は一階の奥にあるから、彼女がまだ起きているのかどうかは分からない。リビングには晴矢がいる。その隣には、風介がいる。誰ひとりとて血の繋がっていない、けれど紛れもない家族だ。
風介がサッカーを辞めたのは、三年前、エイリア学園が崩壊を迎えたときだった。もともとスポーツを好んでいたわけではない彼女は、けれど養父である吉良のためにサッカーを始め、そうしてマスターランクのひとつ、ダイヤモンドダストのキャプテンとなった。女の身でありながらも自分と対等にプレーする風介を、言葉にはせずとも晴矢は認めていたし、僅かながらに尊敬もしていた。だからこそイナズマキャラバンに敗れてジェネシスを巡る争いから外された彼女に声をかけ、新生チームのカオスに誘った。しかし結果的にエイリア学園は敗北し、吉良の野望は打ち砕かれた。それでよかったのです、と今は独房の中にいる養父がそう言ってくれていることが救いだと晴矢は思う。サッカーを義務付けられていた子供たちは皆自由の身となり、全国各地の孤児院へと引き取られていった。その中で吉良の娘である瞳子が、自分が保護しますと言って手元に残したのが、かつてのチームのキャプテンたちだった。ヒロトと晴矢、風介、砂木沼にリュウジ。同じ屋根の下で暮らし始めて、もう三年になる。その間、ずっと風介はサッカーから離れていた。まるで仇を見るかのようにサッカーを睨み、白と黒のボールに決して触れることはなかった。そんな彼女を変えたのが亜風炉照美こと、アフロディだった。
「・・・チャンスウたちによろしくな」
三年前、一度だけ組んだチームメイトを思い返して晴矢が言うと、ふふ、と風介が小さく笑う。
「それは自分で言うといい。アジア予選、今年こそ韓国がFFIの出場権を手に入れてみせる」
「お、言うじゃねーか。イナズマジャパンだって負けねーぜ?」
「それこそ代表に残ってから言いたまえ。どうせ単純な君のことだ。明日からの選抜合宿が気になって眠れなかったんだろう? 大雑把に見えて意外と神経質な性質なんだから」
「・・・悪かったな、神経質で」
言い当てられて罰が悪いのが、思わず声に現れてしまった。むすっとした返事に風介がやはり笑う。そのまま彼女はぽんっと晴矢の肩に頭を載せてきた。いや、もはや身長差は座っていても分かるほどに開いてしまったから、肩というよりは二の腕に近いのかもしれない。は、と思わず振り向いて見下ろしてしまった晴矢の視界には、風介の色素の薄いふわふわの髪と、彼女の手の中で揺れているアイスの木の棒しか見えない。ソーダと同じ水色の瞳は、晴矢の位置からは臨めなかった。左半身だけが温かい。
「ふう、すけ?」
「嫌なら退く」
「いや・・・別に、嫌じゃねえけど・・・」
「ならいいだろう」
どうした風の吹き回しか。今まで風介がこうして近づいてくることなど一度もなかった。そもそも、おひさま園の子供たちは複雑な事情で親の愛情を知らない子供が多かったから、彼らに抱擁をくれる者などいなかったのだ。晴矢自身、誰かに抱き締められたという記憶はない。あるのはせめて同じチームでプレーしたプロミネンスの皆くらいで、シュートが決まったり勝利したときに喜びを分かち合った、それくらいだ。今一緒に暮らしているヒロトたちにしてもそうだろう。触れ合うことはない。それが当たり前なのだと、きっと誰もが知らないうちに信じている。
「晴矢」
「・・・おう」
「代表から外れたりなんかしたら、許さないよ」
甘い言葉も、優しい態度も、そんなものは与えられてこなかった。褒めてもらうにはそれ相応の成果を残さなくてはいけなくて、無条件で与えられる愛情なんて有り得なかった。だからかもしれない。晴矢は一位になることに拘り続けたし、風介は逆に自分を裏切ったすべてを捨てた。だが、時を経て癒されていくものもある。純粋にサッカーが楽しめるようになり、晴矢がイナズマジャパンの招集を受け入れたように。アフロディに誘われて、風介が韓国チームのマネージャーを引き受けたように。これを成長というのかは分からない。だが、少しずつ気づき始めている。世界はもしかしたら自分たちが思うほど、辛く悲しいものではないのかもしれない。
窓から月光が差し込み、ソファーを淡く照らし出す。間もなくして隣から小さな寝息が聞こえてきて、晴矢は知らず張り詰めていた肩の筋肉を緩めた。その拍子にずり落ちかけた頭を気遣い、そっと直してやる。指先に風介の髪が触れる。真っ白な処女雪の中に一滴の空を落とした、そんな色だ。撫ぜれば柔らかい。寄り添っている身体は温かい。タンクトップから覗く鎖骨は細くて、ショートパンツから伸びる足は無防備だ。きっともう、風介は晴矢の当たりに耐えられない。かつて同じフィールドでプレーした頃とは違うのだ。月日はふたりを少しだけ大人に変えた。そしてこれからも変えていくだろう。
伸ばした指先で、晴矢は風介の頬に触れた。厚い皮を通して頼りない感覚が伝わる。・・・柔らかい。そう、思う。・・・柔らかい。細い。軽い。小さい。・・・いい匂いがする。
ぎゅう、と晴矢は拳を握り締めた。顔が無意識の内に緩んで、どうにかしようと力を込めると変に歪む。笑いを堪えるような、面映ゆさを隠すような、恥ずかしいのを打ち消すような、そんな自分に眉根を顰めて顔を背けた。風介が隣にいる。晴矢はもう、三年前の子供ではない。風介が隣にいる。ちくしょう。晴矢は己の髪を掻き毟り、泣きそうになって目を瞑った。
かわいい。かわいい。かわいい。・・・・・・可愛い。想うのはもう、それだけだ。風介が、風介だけが晴矢にとっては、かわいい。





いとしいとしというこころ。
2011年8月10日