9.十月中旬
春高予選を間近に控えていようと、学生である以上試験を避けることは出来ない。中間試験は三日間で、その前の五日間は部活動も完全に休みとなる。青葉城西の場合、試験は予選の二週間前に設定されており、直前でなくて良かったとバレー部の誰もが胸を撫で下ろしていた。ちなみにこの間も岩泉や花巻たちは大学チームの練習に参加しており、学校での自主練が出来なくて場所を求めていた及川も、この数日ばかりは彼らに同行してレシーブ練習を行っていた。
そうして今日、及川は自宅ではなく岩泉の家へと帰宅していた。及川の両親が泊りがけで出かけており、一晩岩泉の家に厄介になるためだ。岩泉の母の作る夕飯を喜んで食べ、風呂に入り、洗濯は一緒に洗うから出してというお言葉に甘え、そうして首にタオルを引っかけたまま岩泉の部屋へと戻ってきた。
「岩ちゃん、お風呂空いたよ」
「ん。入ってくる」
月刊バレーボールを開いていた岩泉が、惜しげもなくそれを閉じて立ち上がる。ふたりが着ているスウェットはどちらも岩泉のものだ。身長差は若干あるけれども、そこらへんは見てみない振りをする。岩泉が及川の家に泊まるときは及川のスウェットを貸し出すし、今更互いの服を着ることに何を感じることもない。岩泉家の洗剤の匂いも、及川にとっては心安らぐ香りのひとつだ。
しかし、今日はそんな微睡に浸っている時間はない。いってらっしゃい、と風呂に向かう岩泉を、及川は手を振って見送った。ばたん、とドアが閉まる。廊下を歩く音がして、階段を下っていく響きがして、微かに風呂場のドアを閉める音も聞こえた。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。忘れ物か何かで戻ってくる気配がないことを確認して、及川は立ち上がる。岩泉の入浴時間は二十分から三十分だ。悠長にしていられる時間はない。気合を入れて及川は岩泉のエナメルバッグに手を伸ばした。
チャックを開ける。鞄のサイズに反して中身は意外と空っぽだ。ジャージやティーシャツなどは帰って早々洗濯機に、弁当箱はシンクに放り投げてしまうから、残るのは部活ではなく授業関係。ペンケースにノートと宿題があるらしい数学の教科書。受験生らしく英単語集。岩泉はウォークマンなどの娯楽の類を特に好まないため、その代わりに個包装されている煎餅が三枚入っていた。気持ちは分かる。部活後は腹が減る。家に帰ろうにも空腹で動けなくなるし、それを紛らわせるための食料を常に及川も携帯している。まぁ、及川の場合はキャラメルだったりチョコレートだったりと甘いものだが。とにかく、今の目的はそれじゃなくて。
「あった・・・!」
エナメルバッグの奥底に埋まっていたクリアファイルを見つけ、及川はつい歓声を挙げた。学校で配られるプリントを、岩泉はすべてこのクリアファイルに挟んでいることを及川は知っている。授業で配られた類はノートに挟んでいるようだが、例えばホームルームで配れらた類のものは、すべてこのスカイブルーのクリアファイルに挟んでいるのだ。分厚くなってきたら、要る要らないを判別して捨てるらしい。岩泉らしい豪快さのクリアファイルの中身を、及川は遠慮なく引き抜いた。上から捲っていく。捲る。捲る。捲る捲る捲る捲る捲る。繰り返し切って、があっ、と及川は叫んだ。目的のものがなかったのだ。
「岩ちゃんのくせに生意気!」
言葉とは裏腹の丁寧な手つきでプリントをクリアファイルに戻し、元あったように鞄の底に入れる。上からノートと教科書とペンケースを載せるのも忘れない。チャックを閉じて形を整え、壁際に置いた。そして、ならば、と及川が次に向かったのは机だ。小学生の頃から使っている学習机は、いい加減にいろんなところにガタが来ている。落書きがあれば、傷もある。それでも岩泉はこの机を使い続けていた。ちなみに部屋はフローリングで寝具はベッドだ。和室に布団の及川は中学生の頃に羨ましいと駄々を捏ね、岩泉の部屋のクローゼットに住むと騒いでは容赦ない拳骨を食らわされた過去がある。
とにかく、今度は机だ。昨年までとは違って、流石に受験生らしく参考書の類が増えている。岩泉はどちらかと言えば理系寄りの人間であるため、数学系の背表紙が目立った。ちなみに苦手なのは英語で、これは及川の得意教科でもある。時間がないため、及川は見当をつけて棚に入っているクリアファイルを引き抜いた。岩泉の性格は熟知している。隠すような性質でもなければ、綺麗にファイリングするような几帳面でもない。全部一箇所にまとめておけばどうにかなると考えているだろうから、参考書の隣に挟まっているクリアファイルを掴めば、ビンゴ、そこには定期試験の成績表が透けて見えていた。裏返せば、あった。及川はごくりと唾を飲み込み、指を滑らせて一枚のカラフルな紙を引き出す。学校で刷られる三文判とは違う。少し厚手のそれは、先日行われた全国模試の結果だ。
ふう、と瞼をおろし、一度深呼吸をしてから、及川はその用紙に目を走らせる。同じ用紙を及川も持っている。三年生のみ受けさせられた模試は明らかに受験を意識したもので、現在の偏差値が記載されている。そして希望大学の名と、学科と、合格圏内かどうかの判定が。冷静な、落ち着いた眼差しでそれらに目を通し、及川は自身の携帯電話で写真を撮った。個人情報がどうとか、そこらへんは理解している。いくら相手が岩泉であっても、流石にこれはアウトだろう。間違いなく殴られる。こんなことしなくても普通に聞けばいいだろ、と岩泉なら言うだろう。だけど、違う、これは及川の問題であって、どうしようもないことなのだ。模試の結果をクリアファイルに戻し、それを参考書の隣に入れて、及川はベッドに転がった。スマートフォンに指を滑らせて、先程撮った画像を確認する。文字はきちんと読み取れる。岩泉の希望している大学と学科の、その名前が。
「ただいま」
「おかえりー」
ネットサーフィンしていると岩泉が帰ってきた。昔から何だかんだと及川が口酸っぱく言ってきたため、岩泉も濡れた髪にはドライヤーをかける習慣がついている。これは自分の功績だと、及川は胸を張って言える。自身を飾ることに興味の薄い岩泉を、及川がちょこちょこ手入れしてきているのだ。岩ちゃん頑張ればもっと格好良くなるのに及川さんには負けるけどー、というのが及川の主張でもある。
「じゃんけん」
「はーい」
出された手に対し、軽く拳を握る。最初はぐーだ。及川の部屋は和室だからいいけれど、岩泉の部屋は洋室なのでひとりがベッドに、もうひとりが床に布団を敷いて寝ることになる。どちらがどっちかはいつもじゃんけんで決めることにしていた。同じベッドで眠るには、及川も岩泉も体格が立派になり過ぎている。気持ちとしては今でも同衾で構わないのだけれど、と及川は勝利したチョキを翳してにこにこと笑った。どうやら今夜は岩泉のベッドで、岩泉の匂いに囲まれながら眠れそうである。これは及川の安眠法のひとつでもあった。
えーっと、この大学は駄目、この大学も駄目、ああ、中々条件に合うとこがないなぁ。
2014年1月5日(pixiv掲載2014年1月3日)