7.九月下旬





及川にとって岩泉は精神安定剤のひとつである。ひとつというか、そのものである。確立されたのは中学三年生のときで、牛島と影山というふたりの天才に挟まれて自棄になりかけていた及川を、岩泉は頭突きして引き摺り立たせてくれた。六人で強い方が強い。及川だけが強くなくてもいい。及川が他の五人の能力を引き出し、そうして六人で強い方が勝つのだと。才能の限界をすでに目の当たりにしていた及川に、岩泉はそうして方向性を示してくれた。
本当はあのとき、「北川第一の選手」として、岩泉は言ってはいけないことを口にした。ライバル校の牛島と、同じチームに所属していた後輩の影山を、両方とも倒すべき相手であると言ったのだ。あれは、本当なら言ってはいけないことだった。少なくとも影山は岩泉のチームメイトであったのだから、倒すべき相手と認識してはいけない。共に戦う仲間だと言わなければならなかったのに、岩泉はそうしなかった。きっとあれは無意識だったのだろう。でも、その無意識が、及川を救った。
あのとき僅かでも岩泉が影山を内に入れた発言をしていたのなら、その言葉が及川まで届くことはなかっただろう。切磋琢磨し競い合った結果、ベンチで試合を見ているしかなかったとして、それで得た勝利を及川は自分のものだと喜べない。喜ぶことの出来る人間ではない。及川は自分の足でコートに立ち、プレーをし、そうして勝利を掴み取りたいのだ。そのために自分より上手いセッターにはチームにいて欲しくない。心が狭い? 何とでも言えばいい。及川は学校の勝利のためにバレーボールをしているわけではない。自分が自分のプレーで勝つためにバレーをしているのだ。そのために仲間を活かす必要があるのなら、いくらでも尽くし通そう。それが及川のチームプレーだ。自分がコートに立つために初めて、及川はチームのことを考える。他人から与えられる勝利を受け入れる人間ではない。
だからあのとき、岩泉が影山を倒すべきだと言ってくれて、及川は本当に救われた。あのときの岩泉は北川第一の選手ではなく、及川の幼馴染として在ってくれた。及川の味方であると言ってくれた。そのことがどれだけ嬉しかったか。
感謝している。頭が上がらない。岩泉はいつだって、ここぞというときに必ず及川を拾い上げてくれる。脱線しかけたとき、余所見をしたとき、余計なものを見てしまったとき。及川は自分の精神力が強くないことを知っているから気を付けるようにはしているが、どうしたって揺らぎそうになるときはある。だって、まだ高校三年生だ。完璧に強くなんてなれはしない。けれどそんな及川でいいと、岩泉は言ってくれた。一緒に勝てばいいと、言ってくれたのだ。
口を半開きにして、ぐうぐうと寝息を立てている横顔を、及川は見つめる。今日は我儘を言って岩泉を引き止め、及川の家に泊めさせた。生まれる前からご近所付き合いをしている及川の家と岩泉の家は、同じ歳の息子が生まれたことでより一層の距離を縮めた。今ではお互いの家は完全にフリーパスだし、及川の母は岩泉のことを自分の息子のように思っているだろうし、岩泉家における及川も同じ感じだ。だからこうして急なお泊りになっても、岩泉が多少抵抗するだけで困ることはない。むしろ及川の両親が嬉しそうに歓迎するものだから、岩泉も引くに引けなくなって「お邪魔します」と挨拶する羽目になる。そうして及川の自室に二人分の布団を敷いて、隣り合って横になっている。今までどれだけ、こうして並んで寝てきたか分からない。それくらいの時間、共にいた。
無造作に投げ出されている手に、及川は指を伸ばす。大きな手だ。身長差があるくせに、及川と大きさが大して変わらない。節くれだった、厚い手は少しかさかさしている。けれど温かい。岩泉が寝ているのを良いことに、及川は指を絡ませて手のひらを重ねた。この手がずっと、及川を導き続けてくれている。
及川は知っている。岩泉は本当は、バレーボールなんかよりも別のスポーツをした方が好成績を残せるのだということを。身長と体格差がある割に、岩泉は及川よりも走るのが速いしジャンプ力もある。パワーだって同じくらいだ。技術面と頭脳面に関しては及川に分があるけれども、つまり、アビリティだけを鑑みれば、岩泉はバレーボールよりももっと単純な、例えば短距離走などの陸上競技の方が向いているのだ。実際に百メートル走などは陸上部の部員並に速いし、走り幅跳びも同様だ。単純なスポーツにおいてこそ、岩泉はその真価を発揮することが出来るだろう。けれどそんな岩泉はバレーボールを選んだ。否。及川が選ばせた。小学生の頃、テレビで見た試合に釘付けになり、岩泉との虫取りの約束を反故にしてまで買ってもらったばかりのボールでサーブの練習をした。遊びに行くぞ、という誘いを何度断ったか知れない。毎日バレーボールとばかり戯れている及川を見ていた岩泉が、自身もバレーに触れようと考えるのは当たり前で、少なからずそうなるよう誘導した自身を及川は覚えている。幼い頃から一緒だった。だから岩泉とバレーボールが出来たら楽しいだろうなと思ったのだ。
そうやって岩泉の可能性を奪ったのは自分だという自覚が、及川にはある。口にしようものなら殴られるだろうから絶対に言わないけれども、この握り締める手のひらから可能性を奪ったのは紛れもなく及川だ。だけど手放すつもりはない。三年以上前ならともかく、今となっては尚更だ。及川がバレーボールを続ける上で、岩泉の存在は決して欠かすことは出来ない。
だからこそ必ずやこの手に勝利を握らせてみせると、及川は決めている。奪った分は、勝利の喜びで返してみせる。岩泉にバレーボールを選んで良かったと言わせることこそが、及川の秘めたる目標だ。触れる、温かい手のひらは、及川の宝であり、何物にも代えがたい幸福である。この手にスパイクを決めさせるために、及川はトスを上げているのだ。岩泉のスパイカーとしての能力が、例え牛島に劣っていようとも構わない。及川のエースは昔から、中三のときから、岩泉ただひとりだけなのだから。他は、いらない。
岩泉の手を握り締めて、及川は眠りに落ちる。これ以上に安心できる方法を、今の彼は知らない。





白鳥沢に行けば、牛島のセッターになれば、確かに及川徹は勝てたかもしれない。上に行けたかもしれない。だけど、おまえたちは知らないだろう。及川徹がどうして今こう在れているのか。岩泉なしのバレーボールなんて、もはや及川徹には考えられない。
2014年1月5日(pixiv掲載2014年1月3日)