3.九月上旬
「岩ちゃんさぁ、俺に隠れて何やってんの?」
及川がそう尋ねてきたのは、二学期が始まって二週間が経った頃だった。夏休みはイレギュラーだったからともかく、そこで覚えていた違和感を、この二週間で確たるものにしていたのだろう。一週間ではなく二週間で習慣性を見ようとしたところが及川らしいと岩泉は思う。普段はへらへらとお世辞にも真面目とは言い難い態度を取っているが、バレーボールに関してのみ及川は真摯だ。痛いほどの情熱を傾けていることを岩泉は当然ながら知っている。
「何って何が」
着替え終えたティーシャツなどを適当に纏めてビニール袋に入れ、エナメルバッグに突っ込む。素のまま入れると鞄の中が汗の臭いでとんでもないことになるからだ。母親からの計らいで、岩泉のエナメルバッグの隅っこには、こっそりと携帯型の消臭剤も収められていたりする。ロッカーの扉を閉めれば、ひとつ置いた向こう、窓側のロッカーから及川がじっと自分を見ているのが分かる。
「ふーん、そんなこと言うんだ」
「うるせぇな。言いたいことがあるならさっさと言いやがれ」
「じゃあ言うけどー」
ばたん、とロッカーを閉めて及川は怒涛のように喋り出した。
「岩ちゃんここ最近居残り練習する頻度が減ったよね。火曜と木曜と金曜だけじゃん? 前は俺と一緒に毎日遅くまで残ってやってたのに。かと思えば家に帰るのは遅いみたいだしさぁ。昨日とか部屋の電気がついたの十一時近かったでしょ。早寝早起きが信条の岩ちゃんらしくない。勉強するにしても岩ちゃんはテレビとか邪魔になるタイプだからリビングでしてたってこともないだろうし。それに土曜と日曜、俺、母ちゃんに頼まれて岩ちゃんちにスイカと素麺を届けに行ったんだけど岩ちゃんいなかったよね。俺より先に上がったっていうのにさ。極めつけが月曜。オフの日なのにどこで何やってたの? 次の日にジャージとかティーシャツとかハーフパンツとか部活で使う一式が普通に岩ちゃんちのベランダに干してあったし。自主練でもあんなに使わないよね? 岩ちゃんのクラスの女の子に聞いたけど、授業中も寝そうになってること結構あるみたいだし。練習量が減ってたらそうはならないよね? 今は上手く調整出来てるみたいだけど、夏休みの終わりとか随分疲労が溜まってた。エースの不調はチームの出来に直結するんだから気を付けてもらわないと。っていうか不調になるような理由があるなら話してもらわないと困るんだけど。ねぇ岩ちゃん、これでもまだ内緒にするわけ? 俺にも言えないようなことが、岩ちゃんにはあるの?」
「・・・ストーカーかよ」
滔々と一方的に止まることなく話し倒されて、岩泉は反論するよりも引いてしまった。女子に騒がれる、岩泉にしてみれば長年連れ添っている余り何がどうイケメンなのか分からなくなってしまった顔を、及川は拗ねに染め上げている。不服と言い換えても良いかもしれない。けれどそれは怒りではなく、不貞腐れてると言った方が正しい。及川の言葉を借りるなら「俺に隠し事する気? 岩ちゃんのくせに生意気!」とでもいったところだろう。元より岩泉に隠しておくつもりなどなかった。まぁ、聞かれないなら言わなくてもいいかとは思っていたが。それにしても気持ちが悪いな、と思う。セッターとしての及川の視野の広さや観察眼は認めるが、それが私生活で発揮されるとこうも犯罪の香りを感じるものなのか、と岩泉はしみじみ思った。
「別に隠してたわけじゃねぇ」
「ふーん。だったら言えるよね? 岩ちゃん、どこで何してんの。俺に隠れて」
「だから隠してたわけじゃねぇって言ってんだろ。大学チームの練習に混ぜてもらってんだよ。月曜と水曜と土日の少しだけだけど」
「大学?」
きょとんと及川が目を丸くした。はぁ、と溜息を吐き出して、岩泉はパイプ椅子に座り、エナメルバッグを床に置く。こうなった及川は自分が納得するまで岩泉から聞き出すことを止めない。昔から意地汚いくらいに諦めの悪い奴なのだ。
「大学の練習って、何で? 誰に紹介してもらったの? 監督? 溝口君?」
案の定、及川は自身のエナメルバッグを放り出して、岩泉の前のパイプ椅子に飛ぶように座った。詰め寄ってくる目は爛々と輝いている。他の部員たちはすでに帰宅しており、ふたりも部誌を書き終えたので後は着替えて帰るだけだった。今日は金曜日なので岩泉も大学チームが練習している体育館まで行くこともない。仕方ない、と吐き出した溜息は諦めだ。
「コーチの出身校だよ。つっても練習に全部参加するわけじゃねぇし、レシーブ練習のときだけだけどな」
もちろん時間が合えば他の練習にも混ぜてもらうが、メインはレシーブだ。それが目的で岩泉は監督に願い出たのだから当たり前だ。
「部活が終わってから行ってんの? 毎日遅くまで?」
「おう。大学は六時まで授業があって、その後練習だから遅くなるのも当然だべ」
「レシーブ練習ならうちでもしてるじゃん。あれじゃ駄目なの? 足りない?」
「――ああ」
知らず、岩泉の眉間に皺が寄った。膝の上の拳を握り締める。及川がそれに視線をやったことにも気づいたけれど、岩泉は喉の奥から唸るように声を絞り出した。
「全然足んねぇ。ウシワカのスパイクをレシーブ出来るようになるには、あれくらいじゃ全然足りねぇ」
「・・・岩ちゃん」
及川の声がトーンを落とした。夏の大会が終わって、残されたチャンスが一回となり、岩泉は前から考えていたことをついに実行に移すことにした。それは「牛島のスパイクを拾えるようになる」ということだ。いっそリベロに転身しようかと、それほどまでに真剣に考えたが、岩泉はあくまでスパイカーであり、及川の上げるトスを打つためにコートに立っている。だけど、けれども、リベロと同じくらいにレシーブが出来るようにならなければいけない。そう考えての、監督への申し出だった。勝つためにはもうこれしかないと思ったのだ。
先の白鳥沢との対戦。一セットも取れずにストレート負けしたが、セッター勝負は青葉城西の勝ちだったと岩泉は確信している。これは第三者の目から見ても明らかだろう。スパイカーに合わせた最上のトスを上げ、多種多様の攻撃を作り出す及川は、セッターとしてチームの力を十二分に引き出している。対して、白鳥沢のセッターは確かに技術はあるもの、「どんなトスでもとにかく上げれば、後は牛島がどうにかしてくれる」という考えが見え透いていた。それは余りに明らかな態度で、何だあれは、と岩泉がうっすらとした怒りを覚えたほどである。確かに攻撃の主権はセッターではなくスパイカーにあるが、それでもあれほど無責任なトスはない。だから、本当に、セッターだけを比べるならば、選手の力を際限なく引き出していた及川に軍配が上がる。ならば何故勝てなかったのか。それは、牛島のスパイクを拾うことが出来なかったからだ。
得点は第一セットが二十五対二十二。第二セットが二十五対二十三だった。接戦だった。得点力に大きな違いはなかった。そうなのだ。白鳥沢と青葉城西の得点力に大きな違いはなかったのだ。あちらには牛島がいるというのに。牛島がいるというのに、それでも接戦になるほどに得点力に差はなかった。馬鹿だと岩泉は思う。あの全国区で、ジュニア代表にも召集される牛島を擁しておきながら、白鳥沢は活かし切れていない。きっと及川が向こうのチームにいたのなら、間違いなく青葉城西は圧倒的な点差をつけられて敗北していただろう。白鳥沢のセッターは牛島を活かし切れていない。そして向こうに及川はいない。これは間違いのない付け入る隙だ。ならばどうする、と岩泉は考えた。得点力を挙げるのならば、更なる攻撃のバリエーションを増やせばいい。これは常に思考する青葉城西の十八番だ。後は選手ひとりひとりの向上だが、ここで岩泉は奥歯を噛み締めた。彼は理解していた。自分が選手として牛島には到底敵いはしないことを。身長もパワーも、選手としてのフィジカルが、岩泉は牛島より劣っている。これはもうどうしようもない。認めるしかない。技術を磨いたところでたかが知れている。むしろ技術を磨き続けてきた五年の結果が現状だ。残りの半年で急激な成長は望めない。ならばどうする、と考え、そうして岩泉は決心した。
得点力が挙げられないのなら、守備力を上げるしかない。牛島のあの強烈なスパイクの得点があっても、あの接戦だったのだ。牛島を止められるようになれば、逆転は容易いと思われる。だからレシーブだ。あの強烈なスパイクを拾えるようにならなくてはいけない。そのためには部活だけじゃ到底無理だ。もっと威力のある、速さのある、重さのあるスパイクを打てる人と練習をしなくてはいけない。そう言って岩泉が紹介してもらったのが、コーチである溝口がかつて所属していた大学の体育会系バレーボール部だった。
「ウシワカのスパイクが拾えるようになるには、まず目で慣れる必要がある。そんで、その後は反応出来るようになって、そんでおまえにちゃんと返せるようにならなきゃ試合で使い物にならねぇ」
「うん」
「だから大学のバレー部に混ぜてもらってんだよ。体格がいいだけあって重いスパイクを打つ人が多いしな。すげぇためになる」
握っていた拳を解き、握り、解き、岩泉は己の手のひらを見下ろす。練習に混ぜてもらうようになって最初の頃は勝手が分からず疲労を持ち越すこともあったが、一ヶ月以上が経った今となっては慣れてきている。目でしっかり追えるようになった。後は身体を着いていかせなくてはならない。時間はまだある。焦るな、と岩泉は自身に言い聞かせる。
「・・・そっか」
及川の気配が緩んだのが見ずとも分かった。へにゃりとたるんだ顔をしており、何だその面、と岩泉は思う。
「岩ちゃんも小さな脳みそでちゃんと考えてんだね」
「おまえちょっとそこで待ってろボール取ってくる」
「持ってきて何すんの!? 俺ちゃんと褒めたじゃん!」
「褒めてねーよ!」
ぶつけるためのボールが見当たらず、鷲掴みにするため手を伸ばせば、及川が慌てて離れた。その額にデコピンを落としてやれば、痛い、と大袈裟な悲鳴を挙げる。及川さんの顔に傷が出来たら女の子たちが泣いちゃうよ、などと言っているが知ったことではない。
「でも岩ちゃん、何で俺を誘ってくんなかったのさ。ウシワカのスパイクを取れる選手はひとりでも多い方がいいじゃん」
「あ? おまえはセッターだろうが。レシーブ取ってどうすんだよ」
次に繋げられねぇだろ、と岩泉が言えば、及川はぷくっと頬を膨らませた。身長百八十四センチメートル越えの男がやっても可愛くないだけだと、岩泉は再度デコピンを食らわせてやった。
「痛い! でもさぁ、うちには渡っちもいるわけだし、俺もレシーブ覚えて損はないと思うんだけど」
「阿呆か。そんなもん覚えてる暇があったらサーブを磨け。適材適所だろ。レシーブはおまえより俺のが上手い」
「うぐっ。確かにそうだけどさぁ・・・」
「どんだけおまえのサーブ練習の相手をしてきたと思ってんだ。俺の方が上手いのは当然だろ」
中学の頃から及川が打つサーブを、せっかくだからと岩泉はレシーブ練習に使ってきた。だから及川を見て覚えたという影山のジャンプサーブも、岩泉はきちんと返すことが出来る。それで良いのだと思っている。及川はセッターだ。三度のボールタッチしか許されていないバレーボールにおいて、繋ぎの役目をするセッターにファーストタッチとなるレシーブをさせるわけにはいかない。
「おまえは攻撃のことだけ考えてろ。ボールを拾うのは俺らの役目だ」
「・・・うん。そんで、俺が上げたトスを打つのも岩ちゃんの役目だよね」
「あ? そんなの当たり前だろうが」
「うん、じゃあいいや」
今度はふにゃりと及川が笑った。何か押し込みやがったなこいつ、と岩泉は反射的に感じたが、多分大丈夫だろうと長年の勘が判断する。及川は我慢をすることが得意だ。日頃は好き勝手に行動しているように見えるけれども、実際どうしても譲れない何かのためには我慢することを選択できる。ある意味不器用な人間であることを岩泉は知っている。そうやって自分の中に押し込んで押し込んで押し込んで潰れそうになる前に蹴り飛ばしてガス抜きさせてやるのが自分の役目であるとも、岩泉は知っていた。
「ほら、もういいだろ。さっさと帰るぞ」
パイプ椅子をがたがた言わせて立ち上がり、エナメルバッグを肩にかける。及川も同じように立ち上がった。窓の鍵は閉めてある。忘れ物はない。部室の鍵を守衛に渡して、そして今日の練習が終了だ。八時半を回った空は暗く、星がいくつも瞬いて見える。
「俺も岩ちゃんに負けないよう頑張んなきゃね」
隣を歩く及川が、そう言ってくしゃりと笑った。あ、やっぱりこいつ駄目だな。そんなことを岩泉は思った。何がどうしてそうなったのかは知らないが、近々蹴り飛ばす必要がありそうだな、と見上げた横顔に察した。
おまえのトスを打つだけじゃ勝てない。おまえにボールを回さなければ、勝利に手が届かない。
2014年1月5日(pixiv掲載2014年1月3日)