1.六月





高校三年の夏の挑戦が終わった。結果は準優勝。県二位の成績に終わり、全国大会へ出場することは叶わなかった。今年も。今年も。そうして何度目かの準優勝の盾を受け取り、青葉城西の、岩泉の夏は終わったのだ。
閉会式が終わった足でそのまま学校に戻り、体育館で全体ミーティングを行った。良かった点について、反省点について。改善すべき点を挙げ連ね、今後の課題として各々が認識する。解散となったのは結局のところ、学校に戻ってから二時間も経った後だった。ビデオを見ての検討はまた後日行うが、とりあえず夏の大会は終わった。良く頑張った、今日はゆっくり休みなさい。監督の入畑の言葉に見送られて、部員たちは家路についた。
岩泉の家は、及川の家から近い。というか、はす向かいなので、お互いの部屋が窓から普通に見える距離にある。故に一緒に帰るのは当然の流れで、それはいつだって変わりがなかった。及川が女子に囲まれているときは話が別だけれども、こと部活という一点が関われば、常に岩泉と及川は一緒だった。一緒に通い、一緒に帰った。だから、その日も同じだった。ミーティングでは出来ない、少し突っ込んだ反省会を行いながら家への道を辿る。会話は途切れがちになったし、沈黙は重かったが、涙はない。すでに岩泉と及川には負け癖がついていた。否、そんなことはとんでもない。だけど慣れてしまいそうになるくらいの回数、白鳥沢にに敗れてきたのもまた事実だった。
初めては中学一年生のときだった。夏の大会のときは岩泉も及川もレギュラーではなく、試合には出させてもらえなかった。白鳥沢に自分たちと同じ一年でレギュラーになった選手がいる。そう噂で聞き、大会で実際にその牛島若利を目にし、あいつに勝って俺たちが県ナンバーワンになると誓い合った。けれど秋にあった新人戦で北川第一は、岩泉と及川は負けた。二年春の選抜も、夏の大会も、秋の新人戦も、そのどれもで敗れ、当たる試合はことごとく負けた。中学三年生の夏の大会で初めて白鳥沢を相手に一セット取ることが出来たけれども、負けは負けだ。そうして青葉城西高校に進み、一年のときはふたりともレギュラーにはなれなかった。当時の三年生セッターが春高まで残らずに引退したため、及川は一年の後半でレギュラーを勝ち取ったけれども、岩泉が同じコートに立つようになったのは二年の夏の話で、その頃は三年生がいたからエースでも何でもなく、やはりインターハイ予選では白鳥沢に敗北し、春高予選でも同じように敗れ、そうして今年の夏の大会。この六年間で、少なくとも片手の指では足りなくなるくらいには負け続けている。
それでも泣いたのは、中学三年の大会のときだけだった。あのとき確かに、岩泉と及川は大きな山場をひとつ越えて、心身ともに成長して挑んだ試合だった。だからこそ勝てなかったのが悔しくて悔しくて悔しくて、涙を堪えることが出来なかった。けれどそれ以降は、負けても涙まで流すことはなかった。まだ終わってない。そう考えていたからだ。高校三年生の一月にある、春高。その最後の機会までに勝ちを得ればいい。そう考えて、敗北も決して無駄にすることはせず、どうして負けたのか、何が悪かったのかを検証し、それを克服すべく練習に打ち込んできた。けれど、勝てなかった。
夏の大会は終わってしまった。もう、次の夏はない。岩泉は大学でもバレーを続けようと思っているけれども、きっと牛島は強豪大学に進むだろうし、大学は一気に全国区にもなるから対戦することは難しくなる。だから、勝つなら今しかないのだ。最後の最後、半年後にやってくる春高しか、残されたチャンスは、ない。
じゃあまた明日。おう。そんなやり取りを交わして、それぞれの家の門扉を開いた。ここから先は個人で昇華する時間だ。ただいま、と眉間に深い皺を刻んで、岩泉は靴を脱いだ。
そんな彼はずっとずっとずっとずっと考えていたことがあった。今までは一度も口にしなかったし、行動に移すこともなかったけれど、必要なのではないかと、そう考えていたことがあった。勝つためには何でもするべきではないのか。だけどそうすることで生じるだろうデメリットを考慮すれば、簡単に踏み切れなかったのもまた事実だ。だけど、もう残された機会は一度しかない。ならば思いついたすべてを実践して、後悔のないようにしなければならない。
だから翌日、岩泉は言った。練習の後、自主練習の前。監督の入畑とコーチの溝口を捕まえて、はっきりと。
「俺にリベロをやらせてもらえませんか」
そう、岩泉は告げたのだ。





久堂の2013年12月を席巻した超絶信頼関係コンビをお送りします。
2014年1月5日(pixiv掲載2014年1月3日)