日本が歩いている。小さな歩幅と共に少しだけ乱れる着物の裾が、韓国は好きだ。自分の国の民族衣装とはまた違って、これはこれで趣があるんだぜ、と日本には言わないけれどひっそりと思う。韓国は着物を着ている日本が好きだ。振袖、浴衣、小袖はもちろん袴なんかもいい。何度か見たことのある喪服姿には、やつれた表情と相俟って不謹慎にも興奮したのを覚えている。あと見ていないのは白無垢姿くらいのものだが、それを見る気は今のところ無い。
その日本が部屋を出て廊下に消えると、ずっと鳴り響いていた電話の音が止まる。「もしもし」という声が聞こえてきた。以前は「おいおい」と言っていたと、韓国は兄に等しい中国に聴いたことがある。
「トルコさん? はい、おかげさまでどうにかやっております。・・・・・・世界史ですか? はい、ブリタニアの。分かりました。少しお待ちください」
木の床を歩いて日本が戻ってくる。けれどすぐに平机の上の教科書とノートを持つと、早足で電話の方に戻っていく。
「属州の成り立ちですね。ええと、これは・・・・・・」
日本の玲瓏な声が歴史を紐解いていく。韓国はそれを聞きながら参考書をめくって数学の問題に取り掛かった。勉強は嫌いではないのだ。運動だって好きだ。
五分くらい経つと、ようやく説明も終わったらしい。「こちらこそ下手な説明で申し訳ありません」と日本が謝っている。きっと彼女は電話越しだというのに丁寧に頭を下げているのだろう。相変わらずなんだぜ、と韓国は赤ペンを引っ張り出す。
参考書の末尾に載っている回答を見ながら丸をつけていると、やっと日本が帰ってきた。教科書とノートを下ろし、着物の端を押さえながら腰を下ろそうとする。しかしまた電話が鳴り出して、日本は結局座ることなく廊下へと出て行った。むう、と韓国は唇を尖らせ、その上に赤ペンを載せてバランスを取る。
「イタリア君? どうしたんですか、一体。・・・・・・数学、ですか? ドイツさんはいらっしゃらないのですか? ・・・・・・上司の方に呼ばれて。大変ですね、試験の前だというのに」
電話の向こうのイタリアの泣き声が、部屋にいる韓国のところまで聞こえてくる。うるさいんだぜ、と思いながら、韓国は不正解だった一問を再度解きなおす。
「ロマーノさんとスペインさんもお手上げと・・・・・・。分かりました。問題をファックスで送ってくださいますか? 一年生の私がどこまでお役に立てるかは分かりませんが、それでもよろしければ協力させてください」
二度目の挑戦では、問題もちゃんと正解することが出来た。試しに同じ公式を用いる別の問題をやってみると、少し悩んだけれども正解にたどり着く。完璧に解けるよう、韓国は参考書をぺらぺらとめくった。
受話器の置かれる音がして、すぐに機械の声がファックスの受信を知らせる。それが終わると日本は部屋に戻らず、書庫になっている倉庫の方へと向かっていったようだった。足音が聞こえなくなって、韓国のペンを動かす音だけが響き渡る。
しばらく経つと足音が戻ってきて、日本が部屋に入ってきた。今度は邪魔されずに畳に正座をする。その所作が実は結構好きで、韓国は問題を解いている振りをしながら垣間見ていた。この姉に等しい存在は一挙一動が流れるように整っている。品って言うんだぜ、とそんなことを韓国は思う。
書庫から持ってきたのは二年生用の教科書と参考書らしい。本来ならば三年生になっているはずの日本が、不登校だった間もずっと勉強していたことを韓国は知っている。そのときも中国と共に日本の家に来ては、ご飯を食べたり、他愛ない話をしたりしていた。それなのに、と韓国は眉間に皺を寄せる。
五分で問題を解き終えた日本は、それを解説も含めて分かりやすく紙に清書している。成績は学年でも下から数えた方が早いらしいイタリアとロマーノにも分かるように、それは懇切丁寧なものだった。読み返して満足し、ファックスを送るために立ち上がる。さらさらと流れる黒髪も韓国は好きだ。昔みたいに伸ばせばいいのに、と常々思っていたりする。機械の声がファックスの送信を告げると、すぐに電話がかかってきた。
「いえ、お役に立てたなら幸いです。出来る限り詳しく説明を書いたつもりなのですが・・・。はい、はい。いえ、お気になさらずに。ロマーノさんとスペインさんにもよろしくお伝えください」
受話器の置かれる音がする。ふう、と吐息が聞こえて、日本が廊下から顔を覗かせてきた。
「韓国さん、一息入れませんか? お茶を淹れますから」
「分かったんだぜ」
それではこれを最後の一問に、と韓国はペースを上げて問題を解きにかかる。すでにこの公式は完璧だ。次の試験は頂きなんだぜ、と赤ペンで大きな丸をつけていると、盆を手にした日本が戻ってくる。広げられていたノートと教科書を、韓国は日本の分まで適当に片付けた。ありがとうございます、と日本が笑う。
「今日は玄米茶にしてみました」
「こっちの菓子は何なんだぜ?」
「そちらはフランスさんに頂いたマカロンです。美味しいですよ」
どうぞ、と湯のみが置かれる。白磁に韓国の国旗が描かれているそれは、韓国専用の湯のみだ。同じように中国専用の、中国国旗の柄の湯のみも日本の家には存在する。これが特別ってことなんだぜ、と韓国はすでに馴染みとなっている日本茶をすすった。間にクリームの挟まれている菓子をばくばくと咀嚼するが、少ししつこい甘みは韓国の好みではなかった。日本菓子の方がいいんだぜ、と茶で喉に押し通す。それにしても、と韓国は向かいに座っている日本を見やった。
週明けから始まる試験のために、一緒に勉強をしようと韓国は日本の家を訪れていた。学校に復帰してから初めての試験のため、日本も不安があったのだろう。来訪を知って目を瞬いたけれども、すぐに日本は「ありがとうございます」と照れたように笑った。韓国はそんな日本の表情も好きだった。
しかし、では勉強を、と教科書を開いたけれども、実際に問題に取り組んでいるのは韓国だけで、日本は座っていることすら出来ていない。これは彼女自身が理由ではなく、さっきからひっきりなしにかかってきている電話のせいだった。トルコやイタリアだけでなく、いろんな生徒から何度も電話がかかってきている。いつの間にこんなに知り合ったのかと疑問に思う一方で、韓国はふつふつと苛立ちも感じ始めていた。日本はさっきから全然勉強に取り組めていない。開いたノートは真っ白で、シャープペンシルは芯も出ていない。自分の前に座っていた時間など、この二時間で十分にも満たないだろう。
「さて、それじゃあそろそろ始めましょうか」
湯のみと皿を片付けて、今度こそと日本がペンを握った。それでいいんだぜ、と韓国も少しだけ気分を上向かせて教科書を開く。けれどそれも、またしても鳴り始めた電話によって今まで以上に下向いた。日本が立ち上がり、廊下へと足早に消えていく。むかつくんだぜ、と韓国は声に出して呟いた。
「ああ、ギリシャさん。どうかなさったんですか? ・・・・・・経済の試験範囲? ・・・・・・今から始められるんですか? いえ、やりようによっては間に合うと思いますが、範囲が少し広いので・・・。経済は明日の一時間目でしたよね? ・・・・・・分かりました。頑張ってください。・・・はい、応援しております」
日本は丁寧に、おそらく出されそうな問題を示しながら範囲を教えている。甘やかしすぎなんだぜ、と韓国はペンをぐるぐると回した。日本が甘やかすのは俺と兄貴だけでいいんだぜ、と勝手なことを呟いて主張する。
かちゃ、と受話器の置かれる音がして、今度こそと韓国が意気込むと同時にまたもや電話が鳴り出す。日本が取らないわけはなく、呼び鈴はワンコールで治まった。
「・・・・・・アメリカさん? え? 今からですか? ・・・・・・申し訳ありませんが、今は試験勉強をしている最中ですので。試験が終わりましたら改めて拝見させてください。・・・・・・申し訳ありません。・・・いえ、そうも出来ませんし。アメリカさんこそ勉強の方は・・・? ・・・・・・やった方がよろしいかと思いますよ。特に地理を。アメリカさんは地理を学ばれるべきだと思います。ええ」
韓国はついに、ばん、と教科書を閉じた。ペンも放り出して立ち上がり、チマチョゴリの裾が絡むのも跳ね除けて廊下に出る。ちょうど電話を終えたらしい日本が振り向いて、ぱちりと目を瞬いた。その黒い瞳に、苛立ちに染まっている韓国の姿が映って見える。
「日本は他の奴らに構いすぎなんだぜ!」
「・・・・・・はぁ」
「そんなんじゃ自分の時間が取れないんだぜ! 他の奴に構ってばっかで、日本はいつ勉強するだぜ!?」
「ええと・・・・・・夜、とかにでも」
「それじゃあ肌が荒れるんだぜ! 日本の肌は真珠じゃなきゃいけないんだぜ! それ以外なんて俺と兄貴が許さないんだぜ!」
怒鳴った韓国はまたしても鳴り始めた電話を睨みつけたため、日本がぽかんとした顔になったことに気がつかなかった。勢いのまま受話器を掴み上げ、通話口に噛み付くように喚き散らす。
「いい加減にするんだぜっ! 日本は勉強してるんだぜ! おまえなんかに構ってる暇なんかないんだぜ!」
「か、韓国さんっ!」
我に返った日本が止めようと腕にしがみついてくるけれども、韓国は受話器を高々と上げて渡さない。むしろ「やったんだぜ!」と満足していた。これで日本は邪魔されずに勉強することが出来る。自分の向かいに座って、静かに一緒に勉強することが出来るのだ。電話の向こう、沈黙していた相手が口を開く。
『・・・・・・我にそんなこと言うとはよい度胸あるね』
「兄貴っ!?」
「中国さん!?」
ぎゃっ、と韓国と日本は飛び上がった。
『そうあるか、そうあるか。おまえたちは我に構ってる時間なんかねーあるか。そうあるか、そうあるか。可愛がってやった恩も忘れて』
「ううう嘘ですっ! 違います、中国さん! 今のは中国さんに言ったわけじゃありません!」
「そそそそうなんだぜ兄貴! 今のはさっきから電話ばっかかけてきて日本の邪魔をした奴らに言ったんだぜ! 兄貴に言ったわけじゃないんだぜ!」
「そうです! 信じてくださいっ!」
『別に本気にしてねーから気にすんなある』
あっさりと笑った兄に、韓国と日本はほっと肩を撫で下ろす。遠ざけていた受話器を、今度は二人でぴったり寄り添って耳を当てた。
『それよりどうあるか? 二人とも勉強は進んでるあるか?』
「それが聞いて欲しいんだぜ、兄貴! 他の奴らが日本に頼ってくるから、日本がいつまで経っても勉強出来ないんだぜ!」
『やっぱり、そんなことだろうと思ったある』
「でもそれは、皆さん試験に関して分からないことがあるからで」
『自分のことは自分でやる、これ常識あるよ。他の奴らにかまけて日本が勉強出来なかったら意味ねーある』
「兄貴の言うとおりなんだぜ!」
中国と韓国の両方から言われ、困ったように日本は眉根を下げる。しかしこの様子ではかかってくる電話を無視することは出来ないだろう。どうしたものかと韓国は対策を考えるが、中国はすでに結論を出していたらしい。
『おまえたち、今すぐ勉強道具を持ってうちに来るよろし。家にいなければ電話に出ねーで済むし、そのうち他の奴らも諦めるあるよ』
「え」
「それがいいんだぜ! 今すぐ行くんだぜ!」
「で、でも、洗濯がまだ干したままで」
『さっさと取り込むある』
「夕飯の下拵えももう」
『鍋ごと持ってくるあるよ! 明日の制服と鞄も持ってくるある!』
「分かったんだぜ、兄貴!」
嬉々として韓国は受話器を置いた。さっきまでの苛立ちが嘘のように吹き飛んでいる。せめてもの情けとして留守電にしてやろうかとも考えたが、このまま中国の家に泊まってしまうのなら意味のないことになるだろう。勝手に困ればいいんだぜ、と韓国は日本の手を引いた。日本も戸惑っていたようだが、結局は「降参です」と肩を竦めて笑った。それでいいのだと韓国は思う。
どんなに世界各国が出てこようとも、自分たち三人に勝るものは無い。ざまぁみろなんだぜ、と韓国は笑った。アジアを舐めたらいけないんだぜ、と。
宿敵をぶっとばせ!
ファックスには突っ込まないでやってください・・・。時代背景は適当です。
2007年12月29日