交差点の天女様





今日も今日とて世界会議だ。アメリカのフリーダム発言に始まりイギリスやフランスの対立と呼べない喧嘩やロシアの冷気発散などにより中断してばかりの議事だが、それでも国である限り参加しないわけにもいかない。めんどくせぇ、と後頭部をがしがしと掻きながら、トルコは会議場への道を歩んでいた。好んで着ているわけじゃないスーツが堅苦しくて堪らない。自然と足取りもたらたらとしたものになってしまうが、交差点に差し掛かったところでトルコはぴたりと動きを止めた。信号が変わるのを待っている、あの小さな背中は日本のものではないのか? 好意を寄せる相手の姿を見間違えるわけがなく、けれど確信するにはいささかの当惑が邪魔をする。そろりそろりと近づいて、艶のある黒髪に確信九割、疑問一割でトルコは華奢な背中へと呼びかけた。この割合はトルコの対日本において、非常に珍しい不審の高さだった。
「・・・・・・日本?」
呼びかけは車の往来に遮られず届いたのだろう。目当ての背中が振り返り、黒真珠のような瞳がトルコを見上げる。顔立ちを見てやはり日本だったという安堵が広がったが、しかし尚更に困惑も膨らんでしまった。言葉を失ってトルコは日本を見下ろす。心なしか周囲の人々も、ちらちらと日本を盗み見ている。それもそのはずだ。
日本は和服を着ていた。所謂、着物だ。日本の民族衣装。袖が長いので「振袖」と呼ばれる類のものだろうが、それにしても色鮮やかで白を基調とし、大輪の牡丹や菊、萩や桔梗などが種々様々散っている。彼女がこのような格好をしているのは珍しい。否、確かに国の式典などでは和服を纏うし、何より日本に似合っている衣服だとは思うのだけれど、それでも世界会議に出席する際の彼女はいつだってスーツだったのだ。黒かグレーの、シンプルなパンツスーツ。小柄な身体にとても似合い、長い黒髪を高く結い上げている様はストイックな雰囲気を醸し出しそれはそれで非常に美しいのだが。そこまで考えてトルコは被りを振った。いやいや、話が脱線している。
とにかく、時間と向かう方向から察するに日本も世界会議へ行く最中のはずだ。その彼女が華やかな振袖を身に纏い、加えていつもは纏めて簪で押さえるくらいの髪型さえ異なっている。額を見せ、左右を形作り、結い上げた後頭部にしゃらしゃらと音の鳴る簪をさす髪型は、ええと、何と呼ぶんだったか。四百年くらい前に何度か見たことがあるような。じっと見つめていると、日本が化粧も完璧にしていることに気づく。常のマナーを踏まえた薄化粧ではなく、色味の強い「魅せる」ための化粧だ。気圧されるほどの正装。古来の美が、今まさにトルコの前に繰り広げられている。日本はやっぱり歴史ある国家なのだと、すべてが明らかに語っている。
「天女様みてぇだ」
ぽろりと、唇から本音が零れ落ちてしまった。けれどトルコ自身、無自覚のそれに深く納得する。まるで絵巻物から出てきた天女のようだ。時代を超えて舞い降りた天女。美しい。トルコが魂を奪われたように見惚れていると、何を勘違いしたのか日本がさぁっと顔色を青褪めさせた。慌てて振られる指先さえ、今日の彼女は飾られている。
「す、すみません! すみません、すみませんっ! や、やっぱり会議にこんな格好で出席するなんて駄目ですよね!? 着替えてこようとは思ったんですけれど、すぐに出なくちゃいけない時間で! あぁでも今すぐ着替えてきます! すぐに着替えてきますからトルコさん、どうかここは見なかったことに!」
「は? ちょ、ちょっと落ち着け、日本。誰も悪いなんて言っちゃあいねぇよ。あぁでも初めて見るぜ、あんたのそんな格好。正装中の正装だよな? 惚れ直すねぇ。女神様が降りてきたみてぇだ」
「違うんです! 違うんです、本当! こんな見苦しい姿をお見せしてしまって・・・っ」
「何言ってんだ。今のあんたはどっからどう見ても最高の大和撫子にしか見えねぇよ」
何度も謝罪を繰り返す日本の頭で金色の簪がしゃらしゃらと優雅な音を立てている。芸術品のような着物に触れることは躊躇われて、トルコは言葉で謝罪を押し留め、訳を聞かせてくれねぇか、と問うてみた。日本は伏し目がちに視線を左右し、こくりと頷く。アイシャドウの色気にトルコの背筋がぞくりと粟立つ。
聞けば日本は今日、着物の虫干しをしていたらしい。葛篭を開ける度に年代ごとの懐かしい和服が顔を出し、次々と蘇る思い出に時を忘れることしばし。懐かしいですねぇ、と感慨に袖を通してみたら心が躍って、どうせならと髪を結い、紅まで注してしまったとか。そして気づけば会議場に向かわなくてはいけない時間になっており、遅刻と恥を天秤にかけた結果、国としての責務が勝ったのだという。服装だけなら、私が責められれば良いだけですから。
「本当に、興が乗ったしか言いようがありません・・・」
お恥ずかしい限りです、と日本は頬を羞恥に染めるが、トルコにしてみればそれのどこか恥じなのか皆目検討もつかない。綺麗な服を前にすれば着てみたいと思うのは女性の性だし、化粧だって髪型だって整えて悪いことなど決してない。己を律することに長けている日本にもそんな面があるのかと知れて、トルコは逆に嬉しくなってしまった。どんなに凛々しくあろうとしても、日本はやはり女性なのだ。トルコの愛する、美しく可愛い人。
「俺にしてみりゃ眼福以外の何もんでもねぇぜ? まぁでも、あんたがそう言うなら一肌脱ごうじゃねぇか」
「・・・トルコさん?」
「日本、ちょっとここで待っててくれや。あぁでも今のあんたをひとりにするっつのも心配でいけねぇ。すぐに準備すっから、俺についてきてくれねぇか?」
「え・・・ですが、会議の時間が」
「もちろん間に合わせる。あんたは何も心配しなくていい」
手を伸ばして、そっと白魚のような指を握る。触れられるということは、やはり天女ではなく生きている女人なのだろう。そんなことさえ考える自分に苦笑しながら、トルコは日本の手を引いて来た道を戻り始めた。周囲の視線はやはり日本について移り動く。確かにこれだけの装いをしていれば、自国民である日本人とて振り向かないわけにはいかないだろう。しかもそれが、日本のように美しい大和撫子であれば尚更のこと。そんな彼女の隣に立つのに、スーツ姿なんて野暮以外の何物でもない。
「トルコさん・・・!」
仮宿に戻って約十分、現れたトルコの姿に日本が目を見張る。それもそのはず、トルコは先ほどの無機質なスーツから己も民族衣装に着替えたのだ。所謂、帝国時代。オスマントルコとして強者の名を馳せていた頃。豊かな布に今とは違って口元すらも覆い隠す仮面。被った帽子で揺れるふわふわすら変わっておらず、久しぶりに袖を通したトルコ自身も懐かしく感じて肩を竦める。忘れかけていた。民族衣装は、やはり良い。
「これならあんただけじゃねぇ。恥ずかしさもちょっとは紛れるだろ?」
「・・・トルコさん」
「あぁでも、この格好で正装のあんたの隣に立てるなんざ思ってもなかったぜ。月日が流れるってのは悪いばっかじゃねぇんだなぁ」
「はい。本当に」
ありがとうございます、と日本が深々と頭を下げる。その顔には微笑みが広がっていて、常よりもはっきりとした化粧をしているからか柔らかというよりも艶やかなものだった。さて行くかい、と誘えば日本も頷いてついてくる。周囲から向けられる視線は先ほどとは比べ物にならないほど増えたが、トルコはそんなこと気にしない。日本の美しい姿を拝めただけでも今日は間違いなく幸せな一日だ。しかも誂えたかのようにふたりだけ民族衣装で現れたなら、きっと世界会議に出席する面々は度肝を抜かれ、そして歯軋りして悔しがるに違いない。想像するだに楽しくて、トルコは仮面の下でくつくつと笑った。
しかしそんな彼の思惑は、着飾ったままの日本が慌てて出掛けていく瞬間を目撃した韓国と中国がそれぞれチマチョゴリと漢服を着てきたことで泡となって消えてしまった。それでも日本が嬉しそうだったからまぁいいか、なんて思うトルコの元に、別の振袖を纏った日本が手作り和菓子持参でお礼に訪れるのは、また別の話である。





久堂はおそらく、食べ物と美貌を書くのが好きなのかもしれません。
2009年7月12日