墺さんが女性で、洪さんが男性で、なおかつ墺←洪です。
屋敷では毎日、午後一時半になるとピアノの調べが流れ始める。もちろんそれは蓄音機なんていう味気ないものではなく、人の手による演奏だ。奏でられる曲は日によって違い、ひたすらショパンだけのときもあれば、モーツァルトやベートーベン、果ては聞いたことのない遙か異国の楽曲のときもある。ただ美しく情感豊かなところは常に同じで、エリザベータは聞き惚れてしばしば手を止めながら、洗濯物を取り込むのが日課だ。
しかし今日は洗濯籠の代わりにフライパンを持って、シーツのはためく広い庭ではなく裏木戸のある細道へと向かう。ピアノの音が少しずつ小さくなっていくけれども、それでも聞こえなくなる前にその存在はエリザベータの前に現れた。深い緑の木々を縫って落ちる日差しが、薄い金色の髪を輝かせている。ギルベルトが揶揄を含んで唇を吊り上げていた。
「よぉ」
気安くあげられた右手に、エリザベータは舌打ちする。この場所が木に囲まれていて良かった、と彼は思った。ここならばおそらく、屋敷内にいるローデリヒからは見えないだろう。ピアノの置いてある部屋はこちらにも面していないし、音もさほど大きくなければ届かないに違いない。
「何しに来た」
「はっ! 用がなきゃ来ちゃいけねぇってか?」
「おまえをローデリヒさんに会わせるわけにはいかない。さっさと立ち去れ」
鉄のフライパンを握り締めれば、ギルベルトが器用に片眉を跳ね上げた。今日は珍しく武器を手にしていないようだが、狡賢いと評判の相手ゆえ気を抜くことは出来ない。庭に入ってきている時点で、すでに領土は侵されているのだ。聞こえてくるピアノの美しさを奪わせないためにも、エリザベータは気を引き締める。そんな彼をただ疑問だとでも言うかのように、ギルベルトは問うてきた。
「・・・・・・おまえ、何であんな女に従ってんだよ」
ぴくりと、エリザベータの手が反応した。ピアノはまだ穏やかに歌っている。
「あんな高飛車で大した戦力も持ってない女、放っときゃいいだろ。おまえほどの力があれば独立だって出来るだろうし、もしその意思があるなら俺が」
「黙れ。これ以上あの人を愚弄する気なら、俺はおまえを許さない」
無意識の内にエリザベータの奥歯がぎり、と音を立て、フライパンが屈辱ではなく憤怒に震える。低くなった声音に本気を感じ取ったのだろう。言葉を遮られたギルベルトは一瞬不快気に顔を歪めたけれども、すぐに表情を消し去った。張り詰めた空気の中を交響曲がかすかに流れる。滑らかな旋律。エリザベータは知っている。こんなに美しく響かせるために、ローデリヒがどれだけ練習してきたのか。高いプライドを持つ彼女は決してそんな姿を見せはしないけれども、ずっと想っていれば見えてくることもある。
「・・・交渉は決裂か」
「そんなもの最初から成り立ちはしないさ。俺は何があろうとローデリヒさんの傍にいる」
ギルベルトがジャケットの内側に手を入れる。エリザベートは右足を一歩引いた。このピアノが奏でられている限り、負けるわけにはいかないのだ。
和音がひとつ、ふたつ、みっつ鳴る。四つ目に彼らは地を蹴った。
「・・・・・・何て姿をしてるんです、エリザベータ」
高い声音に名を呼ばれ、エリザベータはびくりと全身で飛び上がってしまった。冷や汗を覚えながら顔を上げれば、窓を開いた廊下にローデリヒが立っている。ひとつに編んで肩に落としている髪が日差しを浴びて輝いており、その美しさに思わず見惚れてしまった。エリザベータの主とも呼べる彼女は、眼鏡の奥の瞳を細めて溜息を吐き出す。
「ギルベルトが来ていたのですね」
「・・・はい。あ、でもちゃんと追い返しましたから! 俺がいる限り、貴女に傷ひとつつけさせはしませんっ!」
「お馬鹿さんが。それであなたが怪我をしてどうするんです」
はぁ、とローデリヒが額を押さえる。その手はつい先程まで白と黒の鍵盤をなぞっており、その小ささにエリザベータの内をぞくりとした感情が湧き上がる。庭と室内の差があるため、いつもは見下ろしているローデリヒの身体が同じ目線の上にある。白いブラウスに包まれている胸が、呼吸のために浅く隆起を繰り返している。うっすらと刻まれている下着のラインに気づいてしまって、エリザベータは勢いよく顔を伏せた。ざぁっと顔に頬が集まり、先程の喧嘩で負った擦り傷が今更ながらに痛みを訴え始めた気がする。それでも細い腰が目に入り、紺色のスカートに視線が奪われてしまって目が離せない。
「早くお入りなさい。傷の手当くらいなら私にも出来ますから」
指先が触れて、エリザベータの髪をかすかに流し、そして離れていく。静かに窓ガラスが閉められても、エリザベータは足を動かすことが出来なかった。でこぼこのフライパンを片手に、顔を真っ赤にして立ち尽くす。少しして彼は、ずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。やばい、と小さく呟きながら。
あなたを護る騎士でありたい
(この状態でローデリヒさんに傷の手当なんかされたら、俺、マジで耐えられそうにないんですけど・・・!)
2008年8月11日