凍てつく大地と厳かなる氷雪、すべてを震えさせる冬の季節。その称号を戴くのがロシアだとしたら、春を冠するのは日本だ。日差しが暖かみを帯びて生き物が顔を出し、数多の色で溢れかえる春。その季節が来る度に、日本の黒髪黒目の目立たない容姿は艶を放ち目を奪って離さなくなる。一日経つごとに綻んでいく美しさは、日本の春をまさに体現しているようだった。





願わくは、望月の頃





「だから言ってるだろ! おまえの案はいつも計画性が無くて夢物語みたいなんだよ!」
「うるさいなぁ、イギリス! 君だっていつも俺の案に反対してばかりじゃないか!」
「だからそれはおまえが―――・・・っ!」
喧々囂々と繰り返されるやり取りは、もはや世界会議では見慣れた光景だ。アメリカとイギリスの兄弟喧嘩にも等しい会話に、フランスが面白がって茶々を入れるからこそ余計にヒートアップしてしまう。他の国々はやれやれ、といった感じで世間話を始めたり内職をしたりし、ドイツの堪忍袋の尾が切れるまでのカウントダウンも、やはりこれまた見慣れた光景だった。
しかし、その日は違った。場を沈めたのは、ぽつんとした独り言に近い呟きでありながらも、彼にしてみれば滅多にない情感に溢れた声だったのだ。
「―――ああ、吉野」
瞼を下ろして、まるで誰かと言葉を交わすかのように頷いた日本に、隣席のスイスが訝しげに振り向く。議場の誰もが彼に目をやった。小柄な身体をスーツに包んでいる日本が、深く一度首肯する。
「分かりました。今、参ります。ありがとう」
緩やかにあらわになっていく黒目は、いつもは曖昧に本心をはぐらかしているのに、今は限りない意志を湛えている。それがさも当然のように日本は広げていた書類を片付け、丁寧にファイルへと収める。そんな所作だけが几帳面な彼らしく、だからこその違和感を与えていた。感情を表すことの少ない顔でアメリカとイギリスを見やり、日本は席を立つ。
「これ以上時間を費やしても進行度合いは知れているでしょう。私は先に失礼させて頂きます」
「に、日本?」
イギリスの驚いたような、焦ったような問いかけに、日本は僅かに唇を綻ばせた。常には無い色香に、イタリアとロマーノがごくりと唾を飲み込む。誇りを告げるように、はっきりと日本が答える。
「吉野が時を迎えました」
「・・・・・・ヨシノ?」
首を傾げたイギリスを他所に、中国はあっさりと頷く。
「桜あるか」
「ええ。我が家を代表する春の証です」
桜。その花は各国たちも知っていた。白や薄紅の小さな花が、木にたくさん花開く。アジアを中心として見られる植物だが、世界には日本の花として知られていた。己の首都にも桜を持っているアメリカが、ワオと歓声を上げる。
「日本、ついにサクラが咲いたんだね!? 今年こそは俺を呼んでくれよ!」
「いやいやいや、ここは芸術の俺だろ?」
「日本日本日本、俺もサクラ見たーい!」
フランスとイタリアもこぞって手を上げ、招待を希望する。その波紋はじわりじわりと議場に広がり、それこそ季節の訪れのように伝わっていく。「俺も呼んでやー!」とスペインがロマーノの手を引っ張って挙手すれば、隣のギリシャも「行きたいデス」と控え目ながらもはっきりと主張し、ポーランドが「俺もサクラ見たいしー!」とはしゃいでリトアニアに止められている。言葉にはしていないけれどもドイツやカナダでさえそわそわとしていて、ロシアは当然呼ばれるような顔をしており、エストニアとラトビアは縋るように日本を見つめた。スウェーデンとフィンランドは桜について想像しており、ハンガリーは期待に目を輝かせ、エジプトでさえ興味深げだ。
それだけ日本の春は素晴らしいものだと、各国には知られていた。日本には四季があり、一年の間に種々様々な顔を見せるけれども、国そのものである彼が最も艶やかになるのがこの季節なのだ。黒髪は光り輝き、瞳は深く強さを帯びる。肌は透き通るように薄くなり、小さな身体はしなやかさを帯びて凛とする。日本の春は美しかった。春の日本は美しかった。
しかし、日本は己の春を見せる相手を毎年限定していた。もちろんやって来る相手は歓迎するし、丁寧に持て成す。それでも自ら招いて、そして「吉野」を披露するのは極少数。二人か、三人。ひとりも呼ばない年さえあった。それは今年も例外ではないようで、彼はまた瞳を閉じて、誰かと意思を交わしているような仕草を見せる。赤い唇がひらめいた。
「今年の春は・・・・・・・・・中国さんと、トルコさん。それとオーストリアさんに」
歓声と悲鳴が上がった。イギリスがぎらっと睨みつけ、中国はそれを無視をする。ギリシャが敵意剥き出しで見やり、トルコは仮面の上からも分かるほど自慢げに笑った。オーストリアだけは左右のハンガリーとイタリアから羨ましがられ、写真をねだられている。スイスが背中の銃を不機嫌に背負い直し、アメリカは不満そうにブーイングした。
「どうしてだい、日本! 去年も一昨年もその前も、俺を呼んでくれたことが一度もないじゃないか!」
「選ぶのは私ではなく、吉野です。あの子が自分の一番美しい姿を見て欲しいと思う人だけをお呼びしますので」
「兄貴ばっかりずるいんだぜ! 俺も呼ぶんだぜ!」
「中国さんは我が家に馴染みが深いですからね。あの子も己の成長を見て欲しいのでしょう」
韓国の訴えも日本はあっさりと受け流す。彼に従って中国もトルコもオーストリアも手荷物を整えた。行きましょう、と供を従えて歩き出した日本は、一度だけ振り返って微笑んだ。艶麗な表情は、見惚れてしまうほどの儚さを秘めている。
「誇り盛るが美学なれば、散りゆくもまた美学なりけり。桜に限らず、この季節の我が家は美しきに溢れています。よろしければ皆様、足をお運びくださいませ」
帰りたくなくなってしまうかもしれませんが、と悪戯に瞳を輝かせる所作さえ色めいているのが、この季節の日本だった。



日本の地を踏んだトルコとオーストリアは、眼前に広がる薄紅の花に目を奪われた。何度と無く来訪している中国でさえ見惚れてしまうのだから仕方がない。街中でも多々見られる木々を通り過ぎ、彼らは自然の多く残る里へと誘われた。山の中腹の小さな丘で、一本の桜がその花を満開にさせている。幹は太くありのままの芸術を示し、花びらは山の緑と空の青を引き立て役に、まさに春を語り表している。言葉すら失わせる美が、そこにはあった。初めてこれほどの桜を目の当たりにしたトルコはただ硬直し、オーストリアはうっすらと涙さえ浮かべた。
「寒い冬を終え、梅、桃、桜と順に花たちが春の訪れを知らせてくれます。特に桜は日本でも馴染みが深く、今では花といえば桜を指すほどです」
短い草の上に茣蓙を敷き、靴を脱いで車座に腰を下ろす。広げられたのは伝統工芸品のような重箱で、中は筍やふきのとうなどのこれまた春を象徴する食材で占められていた。花見団子は桜色が桜を、白が冬の名残の雪を、緑が初夏の葉を示しているのですよ、と日本が語る。
「これは・・・・・・確かに、見事ですね。いつもは控え目なあなたが自慢したくなる気持ちも分かります」
「ありがとうございます、オーストリアさん」
小さな盃を日本酒で満たしていく。遠くで鳥の鳴く声が聞こえ、日本がふと顔を上げた。
「ああ、風が吹きますよ」
言葉に違わず、ふたつみっつの間の後に強い風が吹きすさんだ。思わず目を閉じかけるけれども、視界を舞う薄紅にはっとして顔を上げる。花びらが散っていく。次から次へと風に攫われるようにして、青空へ緑の山へと消え去っていく。桜が、舞う。
「かつては、この美しい春に、花の下で死を迎えたいと詠った方もいるくらい、春は我が国で愛でられているのです。自信を持って咲く姿も魅力的ですが、桜はやはり散り際が一番見事と思いませんか? 自然に抗わず、ただあるがままに。散りゆく姿さえ潔く、見る者の心を奪って止まない。私も願わくは、桜のように在りたいものです」
ゆるやかに日本は唇を吊り上げた。トルコは遠く消えていく花びらを眺め、中国は酒を僅かに舐める。懐から扇子を取り出し、日本が立ち上がった。
「今年も美しい姿を見せてくれたあなたに、感謝を込めて」
足が音もなくすべり、手のひらが返される。桜の衣をまとい、日本は緩やかに舞った。薄紅の花が風に煽られて木を離れ、その一枚がオーストリアの盃を飾った。瞳を細めて日本が見送る。美しき、春。

「・・・また来年、お会いしましょう」





日本の春は綺麗なんだよ、というお話。
2008年4月3日(2008年4月5日mixiより再録)