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桜が間桐家の養子に入ったのは、雁夜が帰国する三日前のことだったらしい。間桐と遠坂の古き盟約がどうとからしいが、そんなことよりも雁夜にとっては桜の泣いている方が問題だ。この三日間は、切嗣が常に桜の傍にいてくれたらしい。だからこそ蟲蔵にやられることもなく済んだのだろう。本当に頭が下がる。いくら感謝しても足りず、雁夜は自身の膝を枕にして眠る桜の肩をそっと撫でた。頬に残る涙の痕が痛ましい。
「時臣の奴、何で桜ちゃんを間桐なんかに・・・っ」
葵とは違う意味で幼馴染とも呼べる存在に、雁夜は唇を噛み締める。魔術師然とあろうとする時臣について理解は出来ないが、彼は少なくとも葵を大切にしてくれ、凛と桜にもそれなりの愛情を注いでくれているように見えた。だから雁夜とて身を引いていたというのに、ここに来てどういうことか。間桐の魔術が蟲に犯される、遠坂の宝石魔術のような煌びやかなものとは正反対であることを知っていたのか。もしも知っていて桜を養子に出したのだとしたら許せない。怒りに強く拳を握る。
「君は必ず、葵さんと凛ちゃんの元に帰してあげるから・・・」
桜の髪を梳いて撫ぜる雁夜の前に、コーヒーのカップが置かれた。置いたのは他でもない切嗣だ。この家には大学を出た後に戻ってきた鶴野と、その息子の慎二がいるけれども、前者は雁夜たちに関わろうとしないし、後者はすでに時間も遅く寝ている。向かいのソファーに座る切嗣は今年で二十八歳になるはずだ。雁夜の記憶の中にいる切嗣は十七歳で、それに比べれば明らかに様変わりしていたけれど、きっと雁夜も同じだろう。面影が懐古を呼び起こす。けれども切嗣の声は平坦だった。
「それは止めた方がいいかもしれない」
「何でだよ」
「魔術師の家系は一子相伝が基本だ。才能にも拠るけれど、基本的には長子に魔術刻印を伝えて、その純度を保っていく。弟妹がいた場合は魔術の存在すら知らせずに育てるか、あるいは余所に養子にだすかだ。彼女の・・・桜ちゃんの場合は、才能が有り過ぎる余り、魔術と関わらせずに生きていくことは出来なかったんだろう。だから間桐家に養子に出された」
冷静な物言いに、雁夜はかっとなって言い返す。
「だったら俺が桜ちゃんを連れて逃げる!」
「・・・それは難しいだろうね。彼女の魔術素養は虚数だ。これを生まれ持つ魔術師は本当に少ない。協会の執行者に見つかれば、すぐさま封印指定を受けて標本にされるだろう。遠坂や間桐のような大家の庇護がなければ、普通に生活も送れない身だ」
「だったらどうしろって言うんだ! このまま桜ちゃんがあのジジイの言い成りになるのを黙って見てろって言うのか!?」
「静かに。彼女が起きる」
諭すような声音に、雁夜は机を叩きかけた拳を押さえて膝の上の存在を見る。今まで気を張っていたのが、知己の雁夜の存在で緩んだのだろう。疲労からか桜は深い眠りについており、目を覚ますことはなかった。そのことにほっとしながら、雁夜は切嗣を見据える。
「大体、あれは何だよ。あのガキは本当に・・・あのクソジジイなのか?」
雁夜の脳裏に、先程玄関ホールで見た子供の姿が思い浮かぶ。青みがかった緩やかな癖毛は鶴野に似通っており、その顔立ちは雁夜にも通じて、幼いながら利発さを感じさせる容姿をしていた。だが、問題はそんなことではない。何故、雁夜の父であるはずの臓硯が、あんなに幼い子供の姿をしているのか。問題なんて言葉では収められない異常さに、雁夜の頭は混乱している。けれどもあれは間違いなく臓硯だった。久方振りの邂逅だったけれども、雁夜が間違うわけがない。
「あれは紛れもない臓硯様だよ」
コーヒーを啜る切嗣は、どこか疲れた顔をしている。瞳は雁夜の記憶より暗く、あの雪の夜を思い起こさせた。そういえばまともに話すのはあれ以来なのだと、雁夜は今更ながらに意識する。黒いスラックスにグレーのシャツ。顎には無精髭が生えており、それさえなければ少し童顔に見えたかもしれない。
「二年前に、僕の研究がひとつの成果を示した」
「・・・根源に辿り着いたのか?」
「いや。そこまでは至っていない。だけど臓硯様にとっては、こちらの方が意味のあることだったんだ」
カップをテーブルに戻し、切嗣は俯く。不健康な頬は少しこけており、辛労を感じさせた。
「僕は人間の死徒化に成功した」
「死徒・・・?」
「人でありながら、人ではなくなった生き物だよ。基本的には他人の血を吸う化け物だけれど、僕は父さんの研究を引き継いで『吸血する必要のない死徒』の完成に至った。人は死徒となった瞬間に老いとは無縁になる。身体能力が底上げされ、回復力も桁違いになる」
「ジジイが、それになったっていうのか・・・?」
「違う。臓硯様はなっていない。・・・少なくとも、今はまだ」
自嘲気味に切嗣が唇の端を歪ませる。言葉も声音も冷淡で、感情の起伏は昔ほど見られない。それでもやはり目の前の男は切嗣なのだと、雁夜は思った。
「僕が時間操作を使うのは雁夜も知っているだろう? 臓硯様はそれを使って、新たな自分の身体を僕に調整させている。成長の度合いを確認して、そして最も力を振るえると判断した年齢で死徒化するおつもりだ」
「何で、そんなこと・・・」
父親が、戸籍上は父親で、雁夜自身はジジイと呼んでいるけれども、その臓硯が見かけ通りの年齢ではないことは気づいていた。だって彼は雁夜が小さい頃から、その容姿に変化がなかった。それこそ切嗣が言うように時を止めているかのように。けれどそうではないと知ったのはいつだったか。当主しか入ることの許されない部屋で見つけた記録だった。臓硯の肉体はすでに人のものではなく、魔力と蟲で成り立っている。それも今は老朽化しており、一定期間で身体も変える必要がある。だからこそ臓硯は切嗣の研究に目をつけたのだろう。雁夜にとっては何が良いのか知らないが、臓硯の目指す不老不死にとって、これほど魅力的な研究もあるまい。だから臓硯は。
「一年後、この冬木で聖杯戦争が起こる」
己の思考に耽っていた雁夜は、続く話に顔を上げる。
「万物の願いをかなえる聖杯を奪い合う争いだ。七組の魔術師とサーヴァントが争い、最後に勝ち残った者が聖杯を手に入れる。だけどそれは表向きの話で、実際はサーヴァントを聖杯に捧げることで通じる孔から根源へと至ること、それが本当の聖杯戦争の目的だ」
「・・・・・・」
「間桐家も古くから関わってきた争いだ。その聖杯戦争に、臓硯様は自らが参戦し勝者となることで悲願を果たそうとしている。そのために僕は定期的に臓硯様を『成長』させているし、助力は惜しまないよ。根源への到達は僕の願いでもあるから」
切嗣の視線が、ちらりと桜に向けられる。雁夜の膝を枕にして眠っている少女は本当に稚い。ふと、切嗣の表情が僅かに緩んだ。
「臓硯様が聖杯戦争に夢中で良かった。でなければその子は、次の聖杯戦争を担うための母体にさせられていただろうから」
「っ・・・ジジイの、あの身体は誰のものなんだ? 蟲じゃないんだろ?」
「鶴野さんと間桐に縁のある魔術師の女性との間に出来た、普通の人間の子供だよ。血筋的には間違いなく間桐の継承者だ。その中に臓硯様の核である蟲が入っている。信じないかもしれないけれど、あの身体が生まれたのは一年前だ。一年の間に僕が時を進めて、あれだけ成長させた」
つまりあれは、間違いなく間桐の血を引く子供であり、雁夜にとっては甥にあたる存在なのか。本来生じるはずだった自我を乗っ取った臓硯に対し、反発を覚えないと言ったら嘘になる。それに加担した切嗣も鶴野も、魔術のためならと言うのなら、それこそくそくらえだと雁夜は思う。だけど、脳裏には未だ焼き付いている。あの日見た美しい海が、炎に一転する心情が。
「臓硯様が聖杯を手に入れれば、少なくとも桜ちゃんが利用されることはなくなるだろう。もしも臓硯様が敗れるようなことがあったら・・・そのときは、隙を見て雁夜が彼女を連れて逃げればいい。その先について僕は保障できないけれど」
「・・・いいのかよ? おまえはジジイの共犯者なんだろ?」
「根源を求めるという一点においてはね。間桐家の存続についてはノータッチだよ。僕はそこまで情の深い人間じゃない」
切嗣はそう言うけれども、雁夜にはとてもじゃないがそうは見えなかった。情が深くないなんて言いながら、切嗣は雁夜に連絡を入れてくれた。雁夜の憧れの人である葵の娘が間桐に養子に来て、今にも蟲に凌辱されそうになっていると。そうして今も時が来たら逃げればいいと言ってくれた。これが情でないならば義理だろうか。かつて友のように過ごした二年間が、切嗣にそうさせたのか。雁夜は脅えて拒絶したというのに、切嗣はその僅かな時に報いるために行動してくれたのだろうか。
だとしたら、雁夜も応えなくてはいけない。本当はずっと蟠りを抱いていた。平然と人を消した切嗣が怖くなかったと言ったら嘘になる。魔術師としての一面をまざまざと見せつけられて、嫌悪しなかったと言ったら嘘になる。だけど、でも、あどけない顔をすることも、雁夜は確かに知っていたのだ。だから。
「・・・ごめん、切嗣」
謝罪は情けない声音になってしまった。眉を跳ねさせ、何のことかと表情で尋ねてくる様に、雁夜は視線を逸らさず答えた。本当はいつだって頭の片隅に燻っていた。友達を傷つけてしまったことを。
「あの日のこと。・・・本当はずっと謝りたかった。脅えて、悪かった」
謝罪が適当かどうか雁夜には分からない。ただ切嗣を傷つけてしまったことだけは確かだったから、そのことに対して謝りたかった。受容は未だに出来ない。それでも、理解出来ないからといって傷つけて良いわけじゃない。
ようやく思い当ったのか、切嗣が目を丸くして、そして笑った。仕方なさそうに、首を傾げて。
「もう時効だよ。・・・おかえり、雁夜」
「・・・ああ。ただいま」
不格好にそれぞれ笑い合って挨拶を交わした。膝の上で桜が、すやすやと健全な寝息を立てている。
この十一年間、ほぼ臓硯さんと一対一で過してきた切嗣さんです。普通に茶を飲むビジネスパートナーだったとか。
2014年2月28日(pixiv掲載2014年2月24日)