碧色のような、蒼色のような、銀色のような煌めくそれを観測霊だと判断することが出来たのは、一概に蘇芳の契約者としての直感だろう。ではそれを、「(イン)」と呼ばれるドールのものであると判断することが出来たのは、一体何に拠るものだったのか。分かっているからこそ、蘇芳は契約者以上に冷めた眼差しでその発光体を見下ろした。





褪せた日々が蘇る





「初めてだね。あなたが、ボクひとりの前に姿を現すのは」
声は仮宿となっている、古ぼけた家屋の台所に響いた。否。台所などと、そんな大層なものではない。靴を履いたまま調理をする、所謂土間のような空間に近い。あるのはカセットコンロといくばくかの缶詰、それと野菜。アルコールはない。蘇芳が取引ともいえないような条件と共に辞めてもらった。あれ以来ライフルを握りはすれどトリガーは引いておらず、(ヘイ)も酒を口にしていない。子供の児戯に等しかったが、それでも約束を守り続けてくれている彼は今、情報を集めるために外出している。
「聞いてるよ。あいつのドールだった人。銀」
ゆらり、発光体が揺れる。観測霊と相対することは、蘇芳にとって決して慣れたものではなかった。組織に属していないからこそドールという存在があることすら知らなかったし、同行しているジュライがそうなのだと教えられても、彼を特別視しようとは思わない。それでも今、目の前にある翠色の観測霊だけは別だ。これは札幌で、ノリオの母親を殺したもの。銀という名のドールの一部。かつて黒と共にあり、今なお彼が奪還せしと求め追うもの。
「今日は何の用? 見て分かる通り、あいつはいないよ。出掛けてる」
曰くつきの女だと聞いている。子供でもドールでもなく、女なのだと。人間の歳を数えるのなら、十七、プラス二。十九歳。蘇芳とは六歳差だ。肌が白く、髪は明け方の空のよう。細い肢体と紫玉の瞳に存在感はなく、折れそうに儚い少女だったのだと(マオ)は語った。黒の補佐でありストッパーであり、常に隣にある存在だったのだと語り聞いた。
「あなたはいつも、ボクが危機に陥ると出てきて、相手を殺した。でも知ってるよ。それはボクのためじゃない」
最初の出会いは札幌だった。契約者の刺客を放たれ、水による責苦に蘇芳が意識をもがれそうになっていたとき、それ以上の水が巨岩となって相手を拘束した。大量の水の中で溺れるように命尽きたのは、ノリオの母だった。おまえがやったのか、という彼の言葉を蘇芳は忘れない。違うと言えなかった。言わなかった。ミチルを殺した観測霊が、今目の前にいる観測霊が、何を思って蘇芳を助けたか分かったからだ。
「あなたは、ボクが契約者だから助けたんだ。契約者の能力を失ったあいつを生かすために、少しでも戦える人間をあいつの傍に置きたい。だからボクを助けたんでしょう」
応えはない。観測霊は揺らめきながら蘇芳の前にあり、土間から生えるようにして立っている。泥が水気を吸って、吸いきれない分を小さな湖として形に残す。その僅かな場所からでさえ、見事に躍り出てみせるドールの強さ。
「あなたがあいつのこと好きなの、知ってるよ」
夜の通りで、駅のホームで、街灯の下で、空を仰ぎながら、いつだって現れては黒を抱き締めようとするこの観測霊を、蘇芳は幾度も目にしてきた。能力を失っている黒には見えないからこそ、彼は反応を示さない。けれど視認できる蘇芳は常に、観測霊がそっと輝く腕を伸ばして、黒に縋るように抱きつこうとする姿を見てきた。行動がどうであれ、きっと心は未だ黒の傍にあるのだろう。観測霊の抱擁は、蘇芳に女の情愛を感じさせる。恋とは、愛とはこういうものなのか、そう心に刻ませる。だが、それだけで蘇芳の内が収まるはずもない。
撃つな、と叫んだ黒。あれだけ生き物を撃たせようとしていたくせに、標的を知った途端にライフルを逸らさせた黒。何も語らない横顔。ただ東京を目指す足取り。無気力な瞳の奥にある炎。契約者に挑む、唯人となった傷だらけの身体。不味いと言わずすべて平らげてくれた雑草スープ。酒を止め、野菜を買いに行ってくれた。どうした、と振り向いてくれる。おまえには合わない、と留めてくれた。優しい人。厳しさの裏側にある気遣いを知った。歩幅を早め、距離を近づけ、手を伸ばせば触れられる位置にいる。契約者じゃない。それでも同じ罪に塗れている。
は、と蘇芳は高らかに笑った。まかり間違っても感情を失った、契約者では有り得ない心と共に。
「だけど今、あの人の隣にいるのは、このボクだ! あんたじゃない!」
ぶわりと刹那的に湧き上がった水の塊が蘇芳を丸ごと囲い込む。透明な度合いに反して、抱かれれば分かる醜い嫉妬。呼吸が出来ず、それでも反発して蘇芳は両腕をもがき続ける。首から提げたペンダントが光り輝き、水が弾け飛んで四方へ散った。シャワーのような雫が降り注ぎ、全身を濡らしていくがそれだけだ。発光体の姿はどこにもない。
「・・・・・・謝らないよ。あの人を傷付けた、あんたが悪いんだから」
顎を滴る水滴を拭って、蘇芳は呟く。銅色の髪は、ぺたりと頬に張り付いた。夕焼けのような色だと褒めてくれた友達はもういない。足元の泥を掘るように蹴って、水溜りを埋めていく。爪先が酷く汚れたが構うものか。執拗に土を均していれば、足音もなく扉が開く。相手が分かっていたからこそ蘇芳は顔を上げたが、次いで目を瞬いてしまった。
「・・・・・・誰?」
問うたのを許して欲しい。出ていたはずの黒と同じ服を着ていたその人物は、蘇芳の慕う彼よりも幾分か年若かった。闇を映した黒髪に、冷ややかな印象を与える目元。どれも黒のものであるというのに、初めて会う人物のように蘇芳は思った。そして気づく。伸ばしっぱなしになっていた無精髭が剃られたのだと。ざぁっと蘇芳の全身の血が逆流した。頬が熱を持つ。
「もっ、もしかして・・・! あ、あんたって結構若い!?」
「・・・・・・どういう意味だ」
眉を顰めた黒は、どこか童顔で幼ささえ感じさせる。決して三十代には見えない。もしかしたら蘇芳と十か、いって十五か、それくらいしか変わらないのかもしれない。隔たれていたものが一気に取り払われた気がして、頬の赤みは嫌でも募る。反射的に背を向けた蘇芳に首でも傾げたのだろう。コンビニで調達してきたらしい食料の入ったビニール袋がささやかに鳴った。部屋からは猫の声と、ジュライの入れる緑茶の香りが漂ってくる。戦闘ばかりの旅路だというのに、あぁ。芽生えてしまったものは、もはや契約者の能力を用いても消し去れはしまい。
靴を脱ぎ、部屋に上がる黒の背中を見て蘇芳は思う。この人の傍にいたい、と。傷ついたこの人を癒したい、と。ライフルを握ろう。心はそう、蘇芳に固く決心させた。黒はボクが守る、と。





大好きなジュライを出さなかったのは、ジュライは紫苑君と繋がっていると思うからです。すべて終わった後、銀ちゃんを失った黒に、やっぱり紫苑君を失ったジュライがついていくといい。
2009年11月21日