「引っ越そうかと思うんだ、池袋から」
一緒にいるのが契約や取引ではなく、自然な意思からの行動になって、どれくらい経った日のことだっただろう。必要のなくなった参考書や問題集をあれやこれやと分別している帝人の横顔に変化はない。それこそいつからだっただろう。青葉の前で、彼が取り繕わなくなったのは。もちろん穏やかな笑みだって、弾けるような笑い声だって、戸惑った困りが顔だって、羞恥や屈辱に震える姿だって、どんな一面だって見せてくれたけれども、それでもふとエアポケットに陥る瞬間、帝人はすべての感情を身体から失くす。それが彼の抱く深淵への入口なのだと、青葉が気づけたのは割合と最近のことだ。つまりはそれだけ近づけたということなのだろう。嬉しいと純粋に思う。青葉はすでにブルースクウェアなど関係なく、帝人に心酔して久しかったから。
だからこそ、突然告げられた言葉は青葉の理解の範疇を超えていた。引っ越す? 帝人が? 池袋から? 受験後、いらなくなった資料などを片付ける手伝いをしていた青葉の手から、真っ赤な学校指定の問題集が転げ落ちる。引っ越す? 帝人が? 帝人が!
「・・・え、ええええええ!? な、何でですか、帝人先輩! どうして急に引越しだなんて!?」
「青葉君、そこの参考書取って」
「あ、はい、どうぞ」
「ありがとう」
「じゃなくって! 本気ですか!? 池袋から出てくなんて・・・っ」
何でどうして。そればかりを繰り返す青葉に応えず、帝人は手早く参考書を紙袋にまとめている。古本屋に売り払えるように、基本的にテキストへの書き込みはしなかったらしい。そういえば帝人先輩、そこらへんにある裏紙とか使って問題解いてたもんなぁ、なんて考える青葉は僅かに現実逃避をしたかったのかもしれない。それだけに衝撃だったのだ。帝人が、自ら池袋を離れる。それはあってはならないことだった。だって、この街は彼にとって非日常の象徴だったのだから。渇望するそれらを、帝人が自ら手放すだなんて、そんな。
「大学に通うには、ここからだとちょっと不便だからね」
「だから国立なんて止めた方がいいって言ったじゃないですか! 帝人先輩なら私立だって余裕だったでしょう?」
「親から仕送りしてもらってる身で、これ以上負担を増やすわけにはいかないよ。それに、ほら、ちょうどいいと思うんだ。正臣の件も片付いたし、臨也さんもおとなしくさせられたから」
カラフルな大学案内のパンフレットを、こちらは紐で纏めながら帝人はほのかに笑う。じわり、深淵から滲み出た狂気に、青葉の身体が緊張と興奮で震えた。背筋を駆け上るような感覚は、帝人と出会ってから初めて学んだものだ。池袋を二分したカラーギャング、その片方、「ダラーズ」の創始者。黄巾賊のリーダー、紀田正臣が暴力と信頼でチームを纏めたとするのなら、畏怖と戒律でもってダラーズを崇拝にまで押し上げたのが竜ヶ峰帝人だ。ぶつかり合った両者は、夏が終わりを迎える頃に一応の決着を見せていた。互いに完全に納得しあった終わりではなかったけれども、帝人と正臣の友情は今もなお続けられている。以前より少しだけ距離を置いているような、それでいて以前よりも深く理解しあっているような、そんな友達関係だ。
しかし青葉にとっては、正臣よりも折原臨也の方が問題だった。すべての物事に絡んでくるような、裏から糸を引くことを身上とする「新宿の情報屋」。目障りでしかなった存在を、青葉とてどうにかしたいと考えていた。けれどストレートに手を出すには相手が厄介すぎて、歯噛みしていたのが現状だった。しかし帝人は、そのしがらみをひらりと飛び越えてみせた。臨也がダラーズを己の目的で利用していたと知り、その行為が帝人の琴線に触れたのだ。あなたはもういりません。そう告げた帝人の笑顔を、きっと青葉は一生忘れないだろう。表舞台に引きずり出され、手足をもがれた「黒幕」の、臨也の屈辱に滲んだ横顔も、何もかも。
帝人は池袋を支配した。この非日常の街を、彼は確かに己の色で染め上げたのだ。
「・・・どこに引っ越すんですか?」
紐を切ろうとしているらしいことを察し、手を伸ばして掴んだ鋏を差し出せば、帝人は「ありがとう」と礼を述べてくれる。
「秋葉原にね、しようと思うんだ。実はもう物件も見つけてあるし、安くていいアパートだよ。コンビにも近くにあって買い物も便利そうだし」
「俺も。俺も、秋葉原に行きます。帝人先輩と一緒に」
「駄目だよ。青葉君はまだ高校生活が残ってるじゃないか。ちゃんと卒業しないと親御さんが悲しむよ」
「じゃあ秋葉原から来良に通います。それならいいでしょう?」
「池袋まで? 毎日面倒じゃない?」
「山手線で二十分ですよ。楽勝です」
「そう。君が良いならいいけど」
緩く小首を傾げて、帝人は許可を出す。やった、と青葉は脇で拳を握り締めた。ひとつという年齢差はこういったときに面倒だと感じてしまう。例えば帝人が大学受験のために勉強している間は一緒に出かけられなかったし、学校行事もほとんどが共に出来ない。まぁその分、勉強する彼にご飯を作って差し入れたり、この街で一緒に暴れられたと思えば決して悪いことばかりではないのだが。
「池袋で過ごした三年間は楽しかったけど、そろそろ潮時だと思うんだ。臨也さんが新宿に拠を据えた理由が少し分かるよ。この街は外から見ている方が、より一層楽しめるかもしれない」
「・・・時々、外からちょっかいを出した方が?」
「酷いな、青葉君。君は僕をそんな人間だと思っているの?」
「いいえ、帝人先輩。あなたは俺たちの、紛れもないリーダーです」
少し拗ねを混ぜたような、それでも苦笑した帝人に、青葉は微笑んだ。画策する笑顔だと昔から言われてきたが、帝人と出会って、彼の深淵に触れて、そして呑み込まれることを良しとしてから、青葉は純粋に笑うことが出来るようになった。だからこそ、地獄の果てまで着いていく。
「俺だけじゃなくて、他の奴らも秋葉原に移動すると思いますよ。だって帝人先輩が行くんですから」
「大袈裟だよ、そんな」
「大袈裟じゃないですよ。帝人先輩は『ダラーズ』ですから」
一瞬で、ふっとまた帝人の表情が消える。向けられる温度のない眼差しに、びりびりと感じるのは恐怖であり歓喜でもある。疼く、傷の残る手のひらを握り締めて、青葉は殊更に笑ってみせた。
「帝人先輩そのものが、この世で唯一の『ダラーズ』です。俺たちはどこまでもあなたに着いていきます。あなたが俺たちの『創始者』なんですから」
生涯を捧げた、奴隷とも取れる宣言の真意を果たして受け止めてくれただろうか。しばし沈黙し、じっと青葉を見つめていた帝人は、緩く唇で弧を描いて「君たちがそれで良いならいいけど」と、先ほどと同じような言葉を繰り返した。それでいいんです、とだから青葉も繰り返す。
この古ぼけたアパートを引き払い、三月には帝人が池袋から姿を消す。それは新たな始まりでもあるのだろう。散々プライドを傷付けられた、あの臨也が黙っているとは思えない。他にも首なしライダーや平和島静雄、暴力団にロシア人など、池袋は騒がしさに満ちている。一歩引くことで逆に確固とした足場を作れるのなら、それは帝人にとって正しくプラスだ。彼はもはや「破滅屋」と呼ばれるほどに、都市伝説と化した人間なのだから。生ける池袋の、ひとつの化身。
「帝人先輩、帝人先輩。秋葉原に行ったら、あの街もきちんと締め上げてやりましょうね!」
「そうだね。目に余る行為は取り締まらなくちゃいけないよね」
「そうですよ! これから秋葉原は、帝人先輩のものになるんですから」
興奮にうっとりと青葉は頬を染め上げた。瞳を眇める帝人の横顔を、心の底から頼もしく思う。新たな城の創造に心が躍る。あの電子街はきっとすぐに、帝人の足元にひれ伏すようになるだろう。臨也も静雄もカラーギャングもいない街など、退屈すぎて得るまでもない。だからこそ染め上げるのが、帝人というカリスマだ。
「俺はどこまでも、あなたについていきますよ」
そっと青葉は囁いた。帝人は聞こえているのか、聞こえていないのか。きっと聞いていて無視しているんだろうな、なんて考えながら青葉は笑った。新生活が待ち遠しい。





君の狂気に恋してる





春を迎え、秋葉原は静かにその色を変えた。非日常を内包した日常を送る彼らの中に、密やかに囁かれる名前がある。竜ヶ峰帝人は瞬く間に新たな街の頂点に立った。
青葉は嬉しくて堪らない。帝人はこうして異常な境目を生きていくのだろう。ゆらり、揺らめき、きっと一生。死すら彼にとっては日常に過ぎないのだから。





俺はあなたのために何でもしますよ、先輩
2010年8月14日