勝ち逃げなど許さない。日常など誰が認めてやるものか。
愛憎するよ、心から
ぴり、と背筋が微かに慄くのは反射だ。口惜しいことに、それこそ人生で珍しく反省せざるを得ない失態だとは思っているが、折原臨也に彼の気配を察することは出来ない。否、昔は出来たのだ。しかしそれはある日、ぱたりと姿を消してしまった。人の放つ空気だとか雰囲気だとか、それこそ視線だとか体臭だとか温度だとか、そういった誰しもが持つすべてを見事消し去ってみせたのは、彼が高校を卒業する少し前のことだった。だから臨也は忌々しいことこの上ないけれども、彼の気配を読む代わりに、常に追従している第三者の存在に気づくことで彼を察してみせたことにしている。振り向けば、ほら、やはりいた。池袋の雑踏に紛れるようにして、ふたりの青年が歩いている。片方と目が合った。臨也が振り向くよりも先にこっちに気づいていただろう相手は、気配を感じ取れる第三者だ。臨也がどんな人物かを分かっていても真正面から睨みつけてくる性根は、確かに些か厄介だろう。けれどそんな相手よりも面倒な人物を臨也は知っている。それこそ本当に、今まさに気づいて目を瞬き、笑いかけてくるもうひとりの青年だ。
「臨也さん! お久し振りです」
「やぁ、帝人君。久し振りだね」
人波を縫って近づいてくる姿は、偶然に会った三ヶ月前と大差ない。成長期の高校生ならまだしも、今は互いに二十歳を越えている。決して語らないけれども臨也はもうすぐ三十に手が届くし、帝人はすでに大学を卒業して社会人としての一歩を踏み出している。それでも互いに童顔なのか、年齢通りに見られることは余りない。特に帝人は私服に身を包んでしまえば、相変わらず高校生で通じるだろう。三歩の距離までやってきて、少しばかり照れたようにはにかむ帝人は可愛らしい。相変わらずだねぇ、と臨也は心中で笑う。
「池袋に来るなんて珍しいんじゃない? いいの? 秋葉原、留守にして」
「大丈夫ですよ。僕がいなくても良い子にしててくれますから」
「その言葉、君もすっかりアキバの主だね」
「やだな、そんなことないですよ」
ふふ、と帝人が唇を緩める。短めの髪は相変わらず真っ黒で染められていないし、格好だって垢抜けているわけではなく、中肉中背のどこにでもいそうな青年だ。そんな彼が数年前に池袋を血で染め上げた人物だと、一体誰が想像できようか。これだから人類は素晴らしい。帝人を見る度に、臨也は惚れ惚れしてしまう。そして脳と心臓の奥底で、これ以上ない屈辱を舐めるのだ。深淵はこんなにも日常の中に存在している。
数年前。まだ帝人が制服を身に纏い、来良学園に通っていた頃、池袋はふたつに割れた。ダラーズと黄巾賊、ふたつのカラーギャングによって池袋は混沌へと陥ったのだ。ダラーズのリーダー、帝人は非日常を愛するが余り、理想の日常を築こうとした。しかし黄巾賊のリーダー、正臣は、そんな親友を平凡な世界へ引き戻したかった。生温い友情が引き金を引いた争いの中、臨也は「新宿の情報屋」として裏から様々な糸を引いて多くの人を操った。臨也は人類を愛している。だからこそ人がどのように動くのかに愛を込めて情熱を注ぐ。帝人と正臣、ダラーズと黄巾賊、そして池袋、すべてを手のひらで操ることこそが臨也の世界に対する愛情だった。けれどそんな臨也を、帝人は許さなかった。
あれは粛清だった。正しく、粛清だった。裏で動き、決して表舞台に立とうとしなかった臨也を、帝人は微笑みひとつで引きずり出した。いらない。ただその言葉ひとつで、彼は臨也を衆人の目に晒したのだ。暗躍を是とする臨也に対し、あれは酷い屈辱だった。少なくとも臨也は、帝人に対して毒ばかりではなく少しばかりの得を齎してきた自負があった。もちろんそれは何より臨也の目的を優先した傍での、小さな恩恵ではあったが、それでも可愛がってきてやったつもりだった。それなのに帝人は柔らかに、いつものように微笑んで、刹那で臨也を切り捨てたのだ。他に無視される己を知ったのは初めてだった。臨也は今まで、誰からも存在を無にされたことはなかった。感情に好悪はあれど、誰もが臨也に眼差しを向けてきた。素通りすることなど出来なかったし、させなかった。それなのに帝人は、臨也を万人の下に曝け出しただけでは飽き足らず、その尊厳を言葉ひとつで散り散りに引き裂いたのだ。あれは正しく粛清だった。仇敵と定めている静雄以外に、辛酸を舐めさせられた。臨也の策略を日常に分類し、無視することで一切を踏み躙った帝人は、池袋に誰より破滅を齎した。彼は日常の中で、いつも通りに笑いながら敵を屠った。その様は「池袋の自動喧嘩人形」と呼ばれる静雄よりも、他者に恐怖を植え付けた。
「臨也さんが池袋にいるのも珍しいですね。今日も静雄さんと喧嘩ですか?」
「俺の前でシズちゃんの名前を出さないでくれる? いくら帝人君でも駄目だよ、俺を怒らせちゃ」
「すみません。でも、会うのは珍しいなって思ったから」
「帝人先輩、そろそろ行かないと遅れますよ」
「そうだね、青葉君」
あの屈辱を忘れたことはない。それでも臨也が帝人に対して友好的に振舞うのは、一時の負けを認めてやっているからだ。初戦は勝ちを譲ってやった。そうとでも考えなければ、他者以外に負ける自分を許容できない。人類の規格を外れている静雄なら、まだ納得が出来た。それでも帝人は、臨也が持っていない何かを有しているわけではないのだ。帝人は臨也以上の存在ではない。それでも彼は臨也を屠った。
「何、どこか行くの?」
「はい。今日はセルティさんと新羅さんのマンションで、鍋パーティーをすることになっているんです。正臣や園原さんも来るっていうし、僕たちも呼ばれてて」
対立した友人の、恋人には至らなかった友人の名を挙げて、それでもにこやかに告げる帝人が大学に進学するにあたって池袋を離れ、ようやくこの街には平穏が戻ってきた。不特定多数の無駄に多かった輩を切り捨て、崇拝される対象にまで至ったダラーズも、帝人に心からの忠誠を誓った青葉のような者たちは、彼に追従して新天地、秋葉原へと移っていった。そして帝人は大学を卒業し、今は中堅規模の会社でシステムエンジニアをやっている。スーツを着て毎日通勤する、実に真っ当な職業だ。そう、彼の特異性は日常の中に非日常を抱けることにある。そのことに、ようやく臨也は気づいたのだ。甘く見ていた。最初から最後で読み間違えたのだ。この、折原臨也という人間が。
「いいねぇ、鍋パーティー。今度は俺ともやろうよ」
「いいですよ。秋葉原でお待ちしてますね」
「帝人先輩」
「分かってるよ、青葉君。それじゃあ臨也さん、また今度」
「うん。またね、帝人君」
ひらりと手を振って別れる。最後に青葉から一睨みを頂戴したけれども、帝人の深淵の前では可愛いものだ。雑踏に紛れていく平凡な背中を、誰が「秋葉原の破滅屋」だと思うだろう。臨也や静雄と並ぶ、生きた都市伝説のひとつ。素晴らしい、と臨也は純粋に拍手を送る。いつか殺してやる、そう臨也は心から憎悪を贈る。
「次は勝たせないよ、帝人君。俺のプライドを傷つけた罪は、一生をかけて償ってもらうから」
どこにでもいるような青年が、池袋に歴史をひとつ、刻んだのだ。この折原臨也に、傷を刻んだのだ。歯を食い縛り、唇を歪めて臨也は雑踏に紛れ込む。笑みなど浮かぶはずがない。愛憎が舌打ちを繰り返す。すべてを抱え込んで、今日も池袋は生きている。
個人的に帝人様にけちょんけちょんにされる臨也さんがとても見てみたいので、こんな話に。
2010年8月14日