「江戸川君」
四時間目の前の十分しかない休み時間、開かれたままのドアから名を呼ばれてコナンは振り向いた。女子にしては少し低めの涼やかな声は、決して大きくはないというのに喧騒に紛れることなく教室中に響き渡り、クラスメイトたちの所作を止めさせる。男子たちと昨日のサッカーの試合について話していたコナンは席を立ち、不思議そうに彼女に向けて首を傾げた。
「灰原? どうした、何かあったのか?」
「何かあったじゃないわよ。あなた、勝手に私のロッカーから英語の辞書を持っていったでしょう」
「あー・・・・悪かった。二時間目が自習でさ、暇だったんだ」
「手慰みに辞書を読むなんて、とんだ物好きね」
「しゃーねーだろ、今日は本も持ってきてなかったんだから」
「まぁいいけど。とにかく返してちょうだい。次の時間、英語なの」
「ああ、今取ってくる」
コナンが自分の席に向かい始めると、ようやく止まっていた教室の中も少しずつ動き始める。女生徒たちはささやかに小声で話し始めるし、男子生徒たちはにやにやと二人を見比べている。小学校のときはそうでもなかったが、中学に上がり、色気づいてきたのだろう。特に美男美女と称えられることの多いコナンと灰原は、格好の噂の的だった。
「ほら、これだろ? サンキュー」
コナンが辞書を手渡す。成長期を迎えて身長差もつき始め、灰原の色素の薄い前髪が、ちょうどコナンの頬の辺りにかかる。学年で一・二を争うほど優秀な二人は、幼馴染ということもあって登下校も共にし、常に隣に並びあっているのが自然でさえあった。お似合いだという言葉は、何度向けられたことだろう。コナンは笑いながら「バーロ」と軽くいなしていたし、灰原は肩を竦めてやり過ごしていたけれども、どちらも強く否定しないため周囲はますますヒートアップしていく。ねぇ、と灰原がコナンを見上げた。
「今日はサッカー部、何時に終わるの?」
「六時くらいかな。科学部は五時だろ? 帰らずに待ってろよ」
「あら、ひとりだと寂しいのかしら?」
「バーロ、味噌と砂糖がなくなるって言ってただろ? おまえひとりじゃ持てないだろうから、スーパーに付き合ってやるよ」
「そうね、ありがとう」
ふふ、と唇を吊り上げるだけだけれども、灰原の柔らかな表情は滅多に見ることが出来ない。しかもそれは大抵コナンといるときだけに浮かべられるものだからこそ、噂は確信を持って広まっていく。満足そうにコナンが頷くと、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。じゃあ、と灰原が己の教室へと戻っていく。ざわついた中で向けられる視線にも構わず、コナンも自分の席へとついた。教師が入ってきて、クラス委員が号令をかける。
そして放課後、並んで帰る二人は毎日のように目撃されるのだ。
ふと、見開いた瞼、その視界に映る薄暗い天井の意味するところが理解できず、哀はしばしぼんやりとしていた。そしてゆっくりとタオルケットの下から引き出した手を、瞼の上に乗せる。生温かい体温が現実であることを教え、手首の脈がやけに速いことを知らせる。緩慢に首をめぐらせれば、机の上に載っている小さな瓶が目に入った。立ち上がり、ベッドから降りて、そちらへと近づく。素足に触れる床が冷たい。持ち上げれば、カーテンの間から差し込む月光を浴びて、中の錠剤がきらきらと色を変えて輝いた。黒の組織を壊滅させ、ようやく完成したAPTX4869の解毒剤。明日、彼はこれを飲む。そして大切な幼馴染のもとへと帰るのだ。自分ではない、彼女のもとへ。
「・・・・・・えどがわ、くん」
声は掠れていた。瓶を握り締め、俯く。自分に向かって笑いかけてくれた夢の中のコナンを思い返し、哀は奥歯を噛み締めた。勢いよく振り被り、そして。
今一度の
(馬鹿ね、私。・・・・・・本当に馬鹿。)
2008年8月20日