三時間目の休み時間、次の授業の教科書とノート、地図帳を机の上に用意し、ミツルは席を立った。騒がしい廊下を通り抜け、すぐ隣の教室の前に立つ。開かれたままのドアから中を覗き込むと、目的の人物はすぐに見つかった。
「ワタル」
端的な呼びかけなのに、まるで教室が水を打ったかのように静まり返る。ミツルがこのクラスに来るといつもこうだ。逆の場合はそうならないのに、何故かミツルだと人目を集めてしまう。それはミツルがかっこいいからだよ、とワタルは以前、唇を尖らせて言っていた。
「ミツル。何、どうかしたの?」
友人と話していたらしいワタルが、すぐに駆け寄ってくる。大きな瞳で見上げられ、ミツルは端的に用件を告げる。
「色鉛筆、持ってないか?」
「持ってるよ。ちょっと待ってて」
ワタルが駆けて戻り、引き出しの中や鞄の中を漁る。その間も他の同級生たちの視線はミツルに注がれていた。特に女子からのものが多く、彼女らは数人で囁きあってはクスクスと笑いを漏らしたり、頬を赤く染めたりしている。
「おまたせ。はい、これ」
差し出された色鉛筆は12色入りのもの。裏面に「三谷亘」という名が刻まれていて、ワタルの意外な几帳面さを窺わせる。
「今日は社会はあるのか?」
「もう終わったよ。返すのは帰りでいいから」
「そう、サンキュ」
うっすらとミツルが笑った。滅多に見ることの出来ないその顔にクラスの女子がわぁっと声を上げる。けれど向けられたワタルは特別な感慨を見せることなく、いつものように頷いて返した。
10分休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
神を殺す日
配られた白いプリントには、記号ばかりで埋め尽くされた地図が乗っている。点三つは畑、太陽に似たのは工場。果樹園に田んぼ、山は波打つ線で表されている。
「それじゃあ、持ってきた色鉛筆で同じ記号のところを塗ってね。その後でどこにどんなものがあるのか、まとめて下さい」
教師の説明に、他の生徒より一歩遅れて、ミツルは色鉛筆の蓋を開いた。白が一番長くて、青が一番短い。先はどれも僅かに丸くなっていて、使用後だというのがありありと見て取れた。
ミツルはふっと唇を和らげ、緑色の鉛筆を取り出した。
ミツルにとって、ワタルという少年はただの友人ではない。彼はミツルのすべてを受け止め、そして救ってくれた紛れもない「勇者」だ。両親を失い、妹のアヤと叔母の家に預けられ暮らしていた中、転入先の小学校で出会ったのがワタルだった。
彼に抱きつかれた瞬間に、思い出したのだ。―――あの、ヴィジョンでの日々、そして本当の芦川美鶴を。
どうして忘れていたのだろう。どうして忘れることが出来たのだろう。そして何故、死んだはずのアヤが生きているのだろう。ミツルの疑問にワタルは何も言わない。けれどきっと、彼の「運命の女神」が叶えてくれたのだろう。ヴィジョンの平和と、そしてまるでオマケのように、ミツルの願いを。
当のワタル自身がどんな願いを手に入れたのかは知らない。けれど母親と二人暮らしをしていることから、それがワタルをヴィジョンへと導いた理由でないことは確かだ。それでもウツシヨに帰還したワタルは、かつてと比べて格段にしっかりしている。それはきっと、ヴィジョンでの旅があったから。
その旅こそがワタルの得たものなんだろうと、ミツルは思う。
自分は闇の宝玉に負けた。自分自身の影に負けた。
そしてワタルは影に勝った。彼だってきっと自身の心を傷つける戦いだっただろうに。
ミツルは負け、ワタルは勝った。そして倒れたミツルを抱きしめてくれた。
今思えば、ずいぶんと久しぶりの「あたたかい」体温だった。そう、それはまるで父親のような、母親のような、家族のような。
ミツルの渇望していた体温だった。
ワタルには感謝している。一度は死を覚悟した自分を、一度は死んだアヤを生かしてくれた。何をしても代えられない。ワタルが望むのなら、どんなときでも力を貸そう。ミツルはそう、心から思っているというのに。
ワタルが自分だけのものになればいいのに。
―――そう叫んでいるミツルも、確かに美鶴の中にいるのだ。
握る緑の色鉛筆が音を立てて芯を折った。はっと我に返ったミツルは静かにそれを見下ろして、代わりに茶色の色鉛筆を取り出す。山はそれで塗ることにした。
ワタルは確かに小柄で大きな目をしているけれど、間違っても女の子ではない。それを言うならミツルの方が無性的な顔立ちをしているし、ワタルよりずっと美少年だ。成績だって運動神経だってミツルの方が優れているのに、そんなものではない、ワタルの持つ何かがミツルを惹きつけて止まない。愛しいと思うと同時に、めちゃくちゃにしてやりたくなる。触れたいと思うと同時に、触るなと拒絶したくなる。相反する願望。身をよじるような欲望の中、これだけははっきりしていた。
ミツルは、ワタルという人間が、三谷亘という少年のすべてがほしいのだ。
ワタルがいつも一緒にいる友人。彼の名をミツルは知らない。知りたくもないし覚えたくもない。ワタルと同じ組の生徒たち。何度もクラスを訪れているけれど、ワタル以外の顔なんて知らない。この学校中の誰も、この街のどいつも、極端な話、ワタルが大切にしている彼の母親だって、すべていなくなってしまえばいいのだ。ワタルを傷つけた彼の父親は言うまでもない。真っ先に消えろ。消えてしまえとミツルは思う。
この世界に、自分とワタル、二人だけだったら良かったのに。あんなに望んだ妹でさえ、邪魔をするのなら今はいらない。
そう願う自分に気づき、愕然とする。
いつかこの欲望が膨らむだけ膨らんで、弾けてしまう日が来たのなら。
そのとき自分はもう一度、あの異界の地を踏むだろう。
そして願うのだ。今度は自分と彼だけの幸せを。
望みは強くあさましく、闇の宝玉にさえ打ち勝つことができるだろう。
そんな自分に、ミツルは笑った。
あいしてるよ、わたる、たすけて、たすけて
帰りは大抵一緒に帰る。一年生のアヤとは時間が違うので、ミツルとワタルの二人きりだ。この時間がミツルは何より好きだった。いつも例の神社に寄って、ベンチに座り、夕暮れまで他愛ない会話を楽しんだ。
「ほら、色鉛筆」
「あぁ、ありがとう。僕も帰ったら続きやらなきゃ」
「何だよ、授業中に終わらなかったのか?」
「あとちょっとだったんだよ」
むっとワタルが唇を尖らせる。これはふてくされたときの彼の癖で、ミツルはその仕草をされる度に、ワタルの桜色の唇にキスを送りたくなってしまう。そのときは純粋に触れたいと思うのだ。
「ミツルってさ、意外と忘れ物多いよね。昨日は算数のドリルだったし、その前は赤白帽だったし」
「朝はアヤの準備を手伝うので忙しいんだよ。ワタルだって一昨日、国語の教科書忘れたろ」
「でもミツルの方が忘れ物多いよ、絶対!」
力説するワタルはまだ気づかないのだろう。ミツルがどうしてそんなに忘れ物をするのか。彼が今日の朝、どうして己の鞄から色鉛筆を抜き取ったかなんて。知らなくていいし、まだ知られたくない。そう思いながらミツルは柔らかな笑顔を浮かべる。教室で見せたのとは違うとろけるような笑みに、ワタルは目を見開いて、少しの間の後、はにかむように笑い返した。今はそれだけでいいと、ミツルは思う。
いつかこの身が再び、ヴィジョンを混沌へと落とす日が来るだろう。そのときも彼はかつてと同じように、自分を止めてくれるだろうか。
薄暗く強い欲望の中、ミツルは酷く願って止まない。
愚かな望みを求める死者に、どうか勇者の鉄槌とキスを。
芯の折れた緑色の鉛筆に、彼の危うさを知る。大丈夫だよ、ミツル。僕はここにいるよ。
2006年7月17日