8.優先順位の結末
織田軍が出陣した。向かうは今川である。おそらく三ヶ月もあれば戦は決着するだろう。国力差を考えれば一月で足りそうなものだが、尾張から駿河まで、何万という兵が移動するだけで時間は多分に費やされるのだ。先の予想通り、豊臣との国境における小競り合いも今は鳴りを潜めている。信長や濃姫、光秀や蘭丸が不在にする尾張を守るのは、どうやら浅井夫婦らしい。まぁそうだろうね、と半兵衛は忍びからの報告に頷いた。あと半月もすれば織田軍が駿河に到着するだろう。そうすれば決着がつくのはあっという間だ。今川義元とて、一般人と比べたら秀でた才能を有しているけれども、信長の前では無力に等しい。東は荒れるね、と半兵衛は思いを馳せて立ち上がる。
「紀之介君、そろそろ発てるかい?」
「はい」
おろしていた荷を積み、木に繋いでいた馬の手綱を解いて連れてくる。今回、半兵衛と紀之介はごく少数の供を連れて中国の雄、毛利元就を訪ねていた。もちろん前もって先触れは出してあるが、あくまで内密の訪問である。強国である両者の接触は、他国へ無用な警戒を抱かせかねない。特に中国は、海を挟んだ四国と睨み合いを続けている。両者を刺激しないためにも、半兵衛は自身らと同じように四国へ秀吉と官兵衛を遣わせていた。そのことも二国へ知らせてある。国主である秀吉が四国に行くことに、中国では侮られたと思う者もいるかもしれない。けれど毛利は智将だ。彼は竹中半兵衛という軍師の存在価値を正しく認識しているだろうから、気を害することもあるまい。馬に跨り、山を超える半兵衛の隣には紀之介がいる。
「半兵衛様」
「何だい、紀之介君?」
「どうして此度の供に、われをお連れになられたのですか? われは光栄に御座いまするが、三成が不貞腐れておりました故」
「ああ」
大阪城を発つ際の三成の様子を思い出して、半兵衛は思わず笑みを漏らす。城を預かるという大義と、秀吉と半兵衛に置いていかれるという寂しさで、三成の肩は小さく震えていた。いってらっしゃいませ、ご帰還をお待ちしております。そう言って見送ってくれた姿が、どうしても捨てられている子犬に重なってしまったのは仕方のないことだろう。それだけ三成は秀吉に、そして半兵衛に忠誠を誓っているのだ。軍や領地がなくなったとしても、身ひとつになったとしても、きっと三成は着いてきてくれることだろう。
「三成君ももう十四だ。そろそろ人を指揮することを覚えてもいいと思ってね」
「なるほど、ナルホド」
「秀吉に四国に行ってもらったのは、元親君の気風を聞くに、僕よりも秀吉の方が彼の信頼を得られると考えたからだ。元就君といがみ合っていることから分かるように、彼は僕のような策を巡らせる性質よりも、秀吉のように腹を割って話す性質の相手を信用する傾向にあると見える。民を大切にするという点からも、秀吉は元親君の共感を得られるだろう」
「暗をつけたのは何故に御座いまするか?」
「くら・・・? ああ、官兵衛君のことか。もしかして『ぼんくら』の暗かい?」
「いかにも。あやつめ、秀吉さまと半兵衛様の覚えが良いのをいいことに、われらに年上ぶりおって。鉄球をつけてやったというのに、まだ懲りぬ様子」
「官兵衛君もあれでいて優秀だよ。彼の場合は不運を引き寄せてしまうから、どうしても正当な評価は得られないことが多いけれどね。ただ彼は頭が回るが、悪知恵に優れているわけではない。腹芸も得意というわけではないから、元就君を相手にしたら逆に短気を起こしてしまいそうでね」
「故に、われと」
「紀之介君は人を見る目に長けている。少し侮りを含んでしまうのが玉に瑕だけれど、十五歳なら優秀過ぎるほどだよ。いつか三成君が総大将を務める日が来るのなら、その軍師は紀之介君、君にしか務まらない。だからこそ僕は、君を元就君に会わせておきたいんだ」
「ヤレ、安芸の狐め。半兵衛様にそこまで評価していただくほどの人物とは思えませぬが」
「こらこら。悪口はそこまで」
馬上から、隣を行く紀之介の頭をこつんと叩いて、半兵衛は苦笑した。相変わらず紀之介は全身に包帯を巻いているが、手綱を握る手に弱さはない。ついと指さした先、森を抜ければ青い海原が見えてくる。その中に立つ、神秘的な朱色の鳥居も。
「着いたよ。これが中国、元就君の治める国だ」
さんさんと降り注ぐ太陽の光の中、城下町がきらめいている。
大谷さんと三成によって悪戯に鉄球をつけられた官兵衛。今頃引きずりながら秀吉と船の上。
2012年6月17日