3.愛しき我が子よ





それはある日のことだった。
「今日はお客様がお見えになる。粗相のないようにな」
世話になっている寺の和尚にそう言われ、佐吉と慶松は大人しく頷いた。親元から離れ、小姓として寺に置いてもらっている身である彼らに否を唱えることは出来ない。佐吉は常のように庭の掃き掃除を終えると、客人が来る前にさっさと部屋へと引っ込んだ。元より人見知りの気がある子供だ。親に捨てられてから、大人に対してはより一層の警戒心を抱くようになっている。対して慶松は、やはり常のように本堂にはたきをかけた後に部屋へと戻った。昨年より業の病を発症した彼は、手足の末端に時折痺れを感じるようになっていた。加えて皮膚に発疹が現れ、大小の隆起が次々と生まれてくるため、すでに四肢は隙間なく包帯で埋められている。頬にも症状が出始めたから顔面を覆う日も近いだろう。業の病は感染病だ。だからこそ慶松は親に捨てられ、寺へと預けられた。今はまだそこまでではないけれど、いずれこの寺の和尚たちも自分を疎ましく思う日が来るだろう。佐吉だけが臆すことなく慶松に話しかけ、接してくれる。世を恨み始めている慶松にとって、佐吉だけが救いだった。―――しかし。
「ああ、ここにいたんだね」
与えられた部屋に籠り、何をするでもなく壁を背に座っていた慶松に、太陽の光が降り注いだ。障子を開けた姿は逆光になっており、眩しさに思わず目を細める。細い影だ。輪郭が溶けてしまいそうに思えたのは、その人物の色彩が淡かったからだろう。相部屋の佐吉ではない。あれは今、和尚の命で客人に茶を出しに行っている。かといって寺内で見たことのある人物ではない。ならば。
「・・・お客人であられまするか」
「うん。邪魔をしているよ」
「道に迷われたのなら、和尚の室へはその廊下を右へ曲がった先へ」
「違うよ。僕は君に会いに来たんだ」
障子を開け放ったまま、その人物は慶松の言葉を遮り、室内へと足を踏み入れてくる。日陰になってようやく見ることの出来た姿は、とても美しいものだった。佐吉も銀色の髪を持っているが、この人物はもっと淡く、柔らかい色合いをしている。紫の瞳に慶松が見入っている間に、彼は、おそらく着物からして男だと思われるその人物は、自然な動作で腰を下ろした。だから反応が遅れてしまった。頬に何かが触れ、そこでようやく慶松は我に返る。腕が伸びている。触れているのだ。この美しい男の指が、自身の醜い病の皮膚に。
「っ・・・やめよ!」
引き攣った声と叩き落とした手は反射的なものだった。しかしすぐに後悔する。男は和尚の客人であり、着物の質、物腰からして、どう考えても武士などの高貴な身分だ。叱責を飛ばし、自分のような子供の首を一つ刎ねるくらい容易いこと。死は恐ろしくない。けれどもどこか諦めにも似た思いが慶松の中を過ぎった。われもここまでか、と残される佐吉へ思いを馳せる。けれど男は慶松のどの想像とも異なり、今度は包帯に巻かれた手を取ったのだ。先程男自身を叩いた、慶松の手を。
「僕が握っているのが分かるかい?」
白魚のような手が、慶松の薄汚れた包帯に包まれた指を握る。目の前の光景が信じられず、慶松はただ呆然とするしかなかった。男が視線を上げて、少しだけ握る力を強める。震えながら慶松が頷けば、今度は足へと手が伸ばされる。
「立つことは出来る? 歩くことは? 駆けることはどう?」
「・・・し、痺れさえ、なければ」
「眩暈や嘔吐は? 食事の量はどれくらい?」
「と、時折・・・。最近は、あまり食べられぬ・・・」
「そう」
男の手が投げ出された足に触れ、指を握り、脛の筋肉を確かめ、大腿をなぞる。失礼するよ、と今度は腕へと男の指がかかった。包帯が、解かれていく。露わになっていく己の皮膚に、慶松は震えが止まらなかった。やめよ、触れてくれるな。漏らす声は情けなくも脅えていた。
「われは業の病よ・・・。触れれば、ぬしまで病んでしまう・・・」
「僕はすでに肺を病んでいるからね。今更病の一つや二つ怖くはないよ」
「ならば尚更よ。やめよ、ヤメヨ・・・」
「一次症状だね。良かった、間に合って」
震え、項垂れる慶松の頭を、よしよしと男の手が撫でる。今にも泣き出したくて堪らなかった。どうして男が自分に触れるのか、慶松には分からない。ただその手に悪意は感じられる、どころか慈しみさえ帯びているように思えてしまう。そんなはずがないのに。浮かんでしまう期待を必死に打ち消す慶松は、次の瞬間悲鳴を挙げてしまった。
「ヒッ・・・!」
「軽いなぁ。もっと食べなくちゃ駄目だよ」
男が慶松の膝を攫って抱き上げたのだ。細身の身体のどこにそんな力があるのか、片腕に座らせるようにして抱え、今度は慶松が男を見下ろすことになる。やめよ、という言葉さえもう出てこない。有り得ない事態に自失とする慶松を余所に、男はすたすたと歩み始めて部屋から回廊へと出てしまう。
「明から大風子油を輸入してね。圧搾して得られる油が君の病に効くらしい」
「っ・・・」
「とはいえ症状の進行を阻止するというものだから、完全に治せるかどうかは分からない。だけど漢方もあるから、それを飲み続ければきっと重篤な病態にはならないだろう」
「な、ぜ・・・! 何故、そのようなことを、われに・・・っ」
見ず知らずの男がここまでしてくれる理由が分からない。ただ、示された光明に本当に縋って良いのかと期待と脅えが慶松の心を掻き乱す。混乱する慶松に、男は笑った。それは紛れもない親愛の情だった。
「君たちは僕の子供のようなものだからね。幸せになってもらいたいんだよ。それだけさ」
よしよし、と再び頭を撫でられる。言われた言葉の意味は分からなかったけれども、大切なんだよ、という思いだけは慶松の心へと伝わった。染み込んでくる愛情が不幸を塗りつぶしていく。ついには瞳から涙が零れ、おや、と苦笑されたけれども、慶松は男の首元に縋りつくことを堪えられなかった。肩に顔を押し当てても、嗚咽を殺すことは出来ない。今までよく頑張ったね。男が優しく囁いてくれるから尚更だ。
回廊の曲がり角から、佐吉が姿を現す。大柄という表現では表し切れないほどの男と手を繋ぎ、見上げている頬は紅潮し、瞳が明らかに輝いている。尊敬と敬愛を露わにしている様子に、慶松は安堵して目を細めた。僅かな光明が、大きな光となって降り注ぐ。
その日、慶松と佐吉は大阪城へと迎えられた。彼らは主君である秀吉と、その右腕である半兵衛に、生涯の忠誠を誓った。





秀吉の小姓になり、佐吉は三成、慶松は紀之介と名を改めた。
2012年6月17日